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December 16, 2017

『希望のかなた』アキ・カウリスマキ
結城秀勇

[ cinema ]

35mmフィルムでの上映(※12月17日まで!)という英断を下したユーロスペースには、どれだけ感謝してもし足りない。DCPではこの作品のよさが伝わらないとか言うつもりはさらさらない。もはや圧倒的大多数であるデジタルとの比較の上に成り立つそんなスノビズムはどうでもいいし、ましてやかつて映画はこうであったという郷愁に囚われているわけでもない。『希望のかなた』が35mmで上映されるべきなのは、いまそこにたしかにフィルムが存在しているという感覚が、この映画と決定的に結びついているからだ。いまそこに難民がいるのと同じくらいたしかに、フィルムが存在しているという感覚が。
それは、映画は現実を映し撮る、などという話ですらない。難民問題を描いたドキュメンタリーは何本もある。フィクションだってある。それらの方が『希望のかなた』よりもリアリティもあって生々しく迫ってきたかもしれない。それでもそれらの映画を見ても考えなかった"難民になる"ということを、『希望のかなた』を見ているあいだ考えた。決して自分の意志だけではなることができない難民に"なる"ということ。日本からならロシア経由になるのだろうか、もしそのおそろしく過酷で果てしなく長い道のりを幸運にも生き延びてフィンランドに辿り着けたなら、最寄りの警察に行って、胸元からこの映画のスチール写真でも出して「この映画で見たから来た!」と難民申請するだろう、と。
だからそれは現実ではない。この映画の英題になぞらえて言えば「現実の裏側」とでも呼ぶべきものだろう。ただしそれは単なる可能性やありえたかもしれない世界などではなく、いまそこにたしかにある現実の裏側に、フィルム一枚程度のあるかなきかの厚みと、(フィルムを適当な長さに切ったと考えれば)あるかなきかの重さとともに、たしかに存在する。もちろんカウリスマキの映画なのだから、厚みと重みとがこれ見よがしに前景化する瞬間など一度もない。だが、これまでのカウリスマキ作品が総じてそうであったように、そのあるかなきかの厚みと重みこそがここで問題になるのであり、『希望のかなた』はほとんどそれだけでできている。よくできた偽身分証ほどの厚みと重みしか持たないと見なされうる人間がいるということ、それは別に難民と呼ばれる人々に限ったわけではないということ。
繰り返すが、35mmフィルムは"デジタルと比較して"いいわけじゃない。35mmフィルムは"ただ"いいのだ。同様に、『希望のかなた』は"ただただ"いい。35mm上映で見た『希望のかなた』の映像が滲んだように見えたのは、単に普段デジタル映像に慣れてるからというだけじゃなく、もちろん映写の問題では全然なく、そしてこみ上げる涙のせいだけでもなくて、そのあるかなきかの厚みが光を屈折させるから、そのあるかなきかの質量が光と空間とを知覚できないほど微かにゆがませるからなのだ。

映画『希望のかなた』公式サイト