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January 12, 2018

『わたしたちの家』清原惟監督インタビュー
三浦翔

[ interview ]

『わたしたちの家』のテーマはいかにして聴くことができるのか

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ふたつの物語がなにも物語的な説明もなしに重なってしまうというコンセプトからは、一見すると映画的な実験精神を感じるかもしれない。しかし『わたしたちの家』から感じるのは、あたかも映画とは昔からこのようなものであったとでも言わんばかりの勇気と知性である。こんな映画を撮り上げる清原惟はどんな人物なのか、なにを考えているのか。清原監督の霊感に迫ってみた。


──まずお聞きしたいのは、なぜふたつの世界が重なり合うような映画の構想に至ったのでしょうか。

清原 はじめに複数の物語が完全に独立したかたちでひとつの映画になる、というぼんやりした構想がありました。それにはいろんなかたちがあると思うんですけど、たとえばミゲル・ゴメス監督の『アラビアン・ナイト』のような作品があって、そういう作品を見ながら物語的に結びついてないエピソードがひとつの映画として、ちゃんとしたかたまりになっている作品を作りたいと考えていました。それをどうやって実現するか考えていったときに、バッハのフーガを聴いていて、フーガ的な構造を持った映画を作れないかと考えました。フーガの形式というのは主旋律と伴奏というかたちにならずに、それぞれが独立して聞けるメロディーラインが同時に流れていくことによって、複数の声部が集まった関係性から新しいハーモニーが生まれて一個の曲として聞けるものなんですけど、これを映画に出来ないのかということがひとつありました。


──確かに編集のリズムと世界の重なりから生まれるある種の音楽的な快楽をこの映画からは感じます。ただし、ふたつの世界の物語的なつながりを明かさないままに映画を終えることは、とても勇気のある選択ではないでしょうか。やはりこれは映画なので、結局監督は何が言いたいんだ、思わせぶりなトリックしかないと思う観客もいるかと思うのです。それでも清原監督は、映画として決定的に語りたいことがあるように思うのですが、どうでしょうか。

清原 一番語りたいことは、自分たちの立っているこの世界の不確実さみたいなものです。一般的に映画は、ひとつの物語世界がどれだけ厚みを持って描かれているかということが重要だとされていますが、それが疑いようのない映画の現実として受け取られていいのかという気がします。小さい頃に考えていたことがあって、自分の人生は手術中の大人の女の人が麻酔で昏睡しているときに見ている夢なんじゃないか、その人が目覚めてしまえばわたしは消えてしまうんじゃないか、という恐怖がありました。これはただの妄想ですけど。でもそういう、世界に対する確信を持てない気持ちのようなものがどこかにあります。幼いころはただただ恐ろしいことだったけれど、今この映画を作って、自分の知らない他の世界があるということ、他の人の人生もそのひとつでわたしはわたしの視点で世界を見ていて、他の人も他の人の視点で世界を見ていて、それはそれぞれ全然違う世界であるということが希望的なものに思える。そういういくつもの世界があること、自分にとって絶対的なものが、絶対的なものではないという世界に対する認識について描きたいと思いました。


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©東京藝術大学大学院映像研究科

──ふたつあると思います。俯瞰した階層にいる主人公が誰かの意識に潜入していくような映画のようにそれを語るか、他の人の夢を見たいか、ということだと思うんですけど、清原監督は他の人の夢を見たいという欲望を持っていますよね。

清原 他の人の夢を見たいです。他の人の夢を自分の夢のように見るというよりは、他の人として他の人の夢を見たいです。


──セリは何か別の存在に変身したい欲望を持っている気がしますが、清原監督の映画は実在する人物を描こうとしているわけではないように思います。

清原 セリの変身に関しては、世界の不確実さに対して自分自身が変わっていってしまうようなことを描きたいと考えていました。冒頭の「幽霊のダンス」シーンに繋がる話で、ほとんど直感的に思いついた話なんですけど、踊っている瞬間はセリはまるで幽霊のような存在になっているけど、明かりが点いて少女の姿に戻ったときに幽霊の存在を感じるんです。外から幽霊がやって来るのか、自分たちが幽霊なのか分からない状態をあらわしています。化粧をしてまるで別人に変身をするとか、化粧を落とした顔がお化けのようになるとか、「さっきお化け出たよ」と言っている本人がお化けで、みたいな不確実な状態のことを考えていました。



──「幽霊のダンス」からセリが抜け出て、カメラは見ないけど正面を向いてモノローグめいた語りを始めることで、誰に喋りかけているか分からないような瞬間で映画は始まります。そうすることで瞬時に映画の世界を立ち上げているように感じました。

清原 あそこでやりたかったのはどちらかと言うと、後ろ姿を写したいということでした。幽霊の後ろ姿というイメージがあって。見たことないじゃないですか。幽霊に後ろ姿ってあるのか分からないんですけど。どこに向かっているかわからない意識と後ろ姿、セリの視点や状態の曖昧さをあらわしたかったんです。


──でも幽霊にはむしろ後ろから見られていますよね。

清原 そうですね。後ろから見られて、幽霊の後ろ姿は見たことがない。幽霊だけではなくて人の後ろ姿に興味はあるんですけどね。映画は表情を撮るのが基本だから、人の後ろ姿を意識的に撮ることってあまりないことのように思うんです。


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©東京藝術大学大学院映像研究科

──ふたつの世界を重ね合わせるときに、ひとつ大きな役割を果たすのがプレゼントです。プレゼントというアイデアはどの段階からあったのでしょうか。

清原 早い段階からプレゼントを使いたいと思っていました。当初は「無償の贈与」のようなことを考えていて、なにも見返りを求めずになにかを分け与えていくような人物を描きたいと思っていました。バッハのカンタータで「飢えたるものに汝のパンを与えよ」という曲があって、そのアイデアがフーガのことを思いつくよりも前の段階であったんです。見返りを求めずに他人に何かを与えることは出来るのか、ということをどこかに出したくて、古着を縫うとか地下鉄でパンを配るとか、慈善活動のようなものをメインに持ってこようと思っていました。結果的にその話が中心ではなくなりましたが、透子のサナに対する姿勢の中にも描かれているのではないかと思います。この映画でのプレゼントは、意志を持って行われるものではないけれど、世界から世界へと無償で贈与されるものなんです。



──登場人物の配置について詳しく聞きたいです。セリとサナ、桐子と透子、というように名前で対応を作っていながら、それぞれの物語での役割は同じものになっていません。セリと桐子、サナと透子のふた組を対比したとき年齢の関係が逆さになっていること、サナだけが記憶を失っていること、などはどういった意図なのでしょうか。

清原 もともと対応しているのは、セリとサナで、ふたりを物語を進める主人公として置いていました。サナは記憶を失うことによって子どものような存在になっている。透子はそんなサナの保護者のような存在になり、そのことによって透子の方が立場的には上に来ることになります。なので、セリと桐子が保護者と子であるように、サナと透子の関係が対応しています。最初から年上の女性が記憶を失い、年下の女性が迎え入れるという構図を作りたいと思っていました。普通なんの関係も持たない女たちが集まったら、そこでは年上の女が主導権を握ることになると思うのですが、それを真逆の関係にしたかったんです。

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©東京藝術大学大学院映像研究科

──このようなテーマを脚本に落とし込むことはとても大変な作業だったと思います。脚本家やスタッフとの共有していく作業も大変だったと思います。脚本を仕上げていく段階、そして編集の段階で構成を組み替えていくことはどれくらいあったのでしょうか。

清原 脚本家の加藤法子さんとははじめの構想からふたりで行なっていたので、色々なことを共有した状態で進みました。加藤さんとの話し合いで出てきたアイデアを元に、シーン構成は主にわたしがやりました。印象的なセリフは加藤さんが書いている部分がたくさんあります。基本的にはふたつの話をそれぞれ書いているんですけど、同時に起きているという設定なのでふたつの話を横に並べて、こことここは時間的に繋がるな、と図にして構築していきました。もうひとつの世界の音が聴こえてくるところがありますが、音を入れる場所はもともと脚本の段階で考えていました。細かくどういう音を使うかは、撮影が終わってからポスプロの段階で考えていきました。空の部屋に波の音が聞こえてくるところなども、編集で見つけたものですね。


──あの部屋のショットは光で満ちていてとてもいいですよね。あそこはスモークを炊いているのでしょうか。

清原 セリの話は全てスモークを焚いています。ものすごく撮影に時間がかかりました。毎カットごとにスモークを炊き、馴染むのに時間が掛かるから待たなきゃいけないんですよね。さぁ撮ろうと思っても、「スモークがまだ動いてるから」とスモーク待ちがあったり、スモークを炊き忘れて撮り直しもありました。スモークを焚いたことでふたつの世界が違うものであるということを明示できたと思います。


──フィックスのショットが特徴的な映画で、なぜあえて移動ショットを取り入れたのですか。

清原 家の中と外を区別したいということがありました。外に出た時が移動撮影で、家の中と外を決定的に違う空間として描きたかったんです。ただ最後の方で家の中で行われる移動撮影は、ふたつの世界が交わるかもしれないシーンで、そこだけ外ではないが家の境界線をあやふやにするために、移動ショットを使いました。

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©東京藝術大学大学院映像研究科

──このような物語を編集で繋げていくのはとても楽しそうなのですけど、繋がる繋がらないという感覚はあったのでしょうか。

清原 編集は大変でしたが、興味深かったです。もともとはこういう構成じゃなかったんです。ふたつの物語が分かれていて、一個話があって、もう一個話があって、最後にちょっとだけ交互になる、脚本上ではそういう感じだったんです。ふたつを混ぜられたらいいな、というのはあったんですけど、それは撮ってみないと分からないと思い、脚本上では分けて書いていました。なので、編集のパターンをいくつも作ったんです。まずは脚本通りの構成でつないでいきましたがあまりしっくりはきませんでした。そこで繋ぎ方のパターンをいろいろ作って、最終的にあのかたちに落ち着きました。物語の上で繋がる繋がらない、というよりもそのシーンの空気のようなものをどうやって持続させる、あるいは切断するか、もしかしたら音楽に近いような感覚かもしれません。この音の後にこの音が来たら気持ちいいだろうな、という感じで編集していきました。受け手がどう受け取るか、ということはある程度想像はしながらやるんですが、やはり最終的には見るひとに委ねられるような編集になっていると思います。


──編集しながら、断片的に広がっていく感じだったのでしょうか。

清原 断片的にですね。シーン同士をくっつけていくうちに広がっていくんですよね、だんだんと。全体の構造が徐々に出来上がっていくというよりは、断片に必然性が生まれてきて、そうではない部分はここはまだ考える余地があるよね、と保留にして、パズルのピースを合わせていくような感じでした。


──音楽家に杉本佳一さんを選んだ理由を教えてください。

清原 もともと杉本さんの音楽は演劇とかで聴いたことがあって好きだったんです。この映画は絶対に音楽を使いたいというのが最初にあったんですが、どういう音楽を入れたらいいのか悩んでいました。これまではクラシック音楽を多く使っていて、それもいわゆる劇伴ではなかったんですよ。すべて作中で実際に流れている音楽で、誰かが流したり、ラジオから流れて来たり。今回はじめて劇伴というものを入れたいと思ったんです。最初は音楽としての展開がないものをイメージしていたんですよね。ドローンとかアンビエントのような、エモーショナルな展開が希薄な感じなものをイメージしていました。それで杉本さんのやっているminamoというユニットがあって、はじめはその音楽をイメージしてお願いをしたんです。有機的で暖かみのあるドローンとかアンビエントみたいな感じの曲です。映画を見てもらって、イメージを伝えてあとはほとんどお任せしたら、すごくドラマチックな曲が上がって来て、あぁこれハマるかな、すごいいい曲だけど曲が浮いちゃうんじゃないかな、と最初は思って。でも予想外に映画にはめたら合ったんですよね。自分の思っていたシーンのイメージが拡張されました。例えばツリーのシーンは、自分が考えていた段階では、もちろんエモーショナルなシーンと思っていたんですけど、それをさらに拡張していくような、そういう選択肢を自分一人では持てませんでした。他の人が仮の編集を見てくれて、それを作品に入れることによってこんなに見え方が変わるのか、という他人と一緒に作ることのよさをシンプルに感じました。結果的に見返してみると、わたしが思っていたものよりも絶対に良くなったなっていう確信をいまは持っています。


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©東京藝術大学大学院映像研究科

──では、清原監督にとっての映画を撮るときのテーマってどういうものでしょうか。

清原 ひとつは音楽のことがあります。音楽は、わたしにとって他の芸術となにか決定的に違う気がしています。他のものは自分の目で見ていることとか、一枚隔たりがある気がするんですけど、音楽はそれを飛び越えて直接入り込んでくる感じがします。そういう感じかたそのものを、映画で出来ないかなと思っています。だから形式で音楽的なものに近づこうとしたり、直接的に音を使ったりしているのだと思います。


──今回の映画で誰もやったことのないことをやったと思っていますか。

清原 やったことはないだろうという気はしていましたけど、大元の発想自体はミゲル・ゴメスとかパラレルワールドものとかそういうのもありますし、誰も考えたことのないものではない、とは思っています。新しいこともやりたいと同時に、いままで映画ってものが積み重ねて来た歴史は大事にしたいと思っています。


──いま気になっている監督はいますか?

清原 ミゲル・ゴメスとか、ホン・サンスとか、アピチャッポンとかですね。形式の問題が大きいと思うんですけど。もちろんそれは一側面の話ですが。映画の構造のようなものに問題意識があると思います。ひとつの世界が確実なものである、という仕方で提示していない監督たちだと思うんですよね。わたしもそういうことに興味があるんです。新しさとか今の時代について考えるとそういうものに触れてしまうのかもしれないですね。


──今後の展望を教えてください。

清原 具体的なアイデアとしてやりたいのは、もう少し複数世界を押し進めたくて、この映画はふたつってことで象徴的になっている気がしますけど、もともとはもっとたくさんの世界を想定していたので、そういうことをやりたいと思っています。とても長い映画になってしまうかもしれないんですけど。


──この映画を特に誰に見せたいということはありますか。

清原 同世代とか若いひとたちに観てもらいたいです。この映画はわたし自身が生きている感覚をもとにして撮っているのですけど、ある友人にわたしたちの世代の感覚を持っていると言われたことがありました。自分たちの生きている実感とこの映画がどういうふうに繋がるのかもっと色々なひとに聞いてみたいです。それこそ、普段は映画を見ないような人にも観てもらいたいですね。


取材・構成 三浦翔 写真撮影 麦島汐美


清原 惟
kiyoharayui1.jpg1992年生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学映像学科卒業、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域修了。武蔵野美術大学在学中に監督した『暁の石』がPFFアワード2014に入選。同卒業制作の『ひとつのバガテル』がPFFアワード2015に2年連続で入選、第16回TAMA NEW WAVEにノミネートされる。藝大修了制作の『わたしたちの家』が3度目にしてPFFアワード2017でグランプリを受賞、第68回ベルリン国際映画祭に正式出品される。また、SCOOLで行われた武蔵野美術大学の同期4人による舞台作品『曲がるための角』に参加するなど、活動の幅を広げている。


『わたしたちの家』
2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP/東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了作品
監督:清原惟
出演:河西和香 安野由記子 大沢まりを 藤原芽生 菊沢将憲 古屋利雄 吉田明花音 北村海歩 平川玲奈 大石貴也 小田篤 律子 伏見陵 タカラマハヤ
脚本:清原惟 加藤法子
プロデューサー:池本凌太郎 佐野大
撮影:千田瞭太
照明:諸橋和希
美術:加藤瑶子
衣装:青木悠里
サウンドデザイン:伊藤泰信、三好悠介
編集:Kambaraliev Janybek
助監督:廣田耕平 山本英 川上知来
音楽:杉本佳一
公式サイトhttp://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html
2018年1月13日(土)より、渋谷ユーロスペースほか全国順次公開!