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March 20, 2018

『はかな(儚)き道』アンゲラ・シャーネレク
結城秀勇

[ cinema ]

 女がいて、男がいる。男の足が斜面の土を踏みしめ登り、女の足がそれに続き、よろめき、差し出した手が男の手によって引き上げられる。丘の上で女はギターを手につま弾き始める。通行人のチップ用にハンチング帽を逆さに地面に置いた男が、彼女の隣にフレームインしてくる。女と男は初めてひとつのフレームに収まる。そして歌が始まる。
『はかな(儚)き道』の最初のシークエンスである。彼らの歌が続く中、カットが変わり彼らとは反対側にある開けた駐車場を映し出す。バスがやってきて、観光客たちを吐き出す。鳴り続けていた歌から女の声とギターの音が消える......と思った瞬間、女がそのショットの中に駆け込んでくる。男の歌声はしばし続いて、止む。彼らが歌っていた森のような場所と、開けた駐車場の空間がつながっている。そのことだけで感動する。
 アテネ・フランセ文化センターの特集で上映された5本の映画のうち、『はかな(儚)き道』を除く作品は基本的にワンショット=ワンシークエンス的な画面づくりを中心として構成されていた(『昼下がり』のあの特殊なパンについても、別に詳細に述べる必要はあるのだが)が、この作品は違う。誰しもがブレッソンの名を口にせずにはいられないような、手や足という人体の部分を切り取る構図とその連なり。その構図について、なぜ膝や脚を執拗に映すのですか、という観客の問いに監督はこう答えていた。「足や手を映すということは、それらのものを見せることであると同時に、顔を見せないということでもあるのです」。
 この言葉を、たんなる心理学的な演技のようなものへの拒絶としてとらえるのは容易い。しかし『はかな(儚)き道』という作品において顔の不在がもたらすのは、それとはまた違った次元のものでもある。過去の作品でもすでにそうでありながらも画面構成ゆえに顕在化して見えなかった事柄が、顔の不在(あるいは顔ではない身体の部分の頻出、とでもいう方が正しいのだろうか)によって先鋭化する。それは、視線である。より正確に言うならば、カットをまたいでふたりの人物の間を行き来する視線である。
冒頭に記した場面に顕著であるように、シャーネレクは空間の広がりを示唆するために人の視線のようなものを安易に利用したりはしない。またなにげない会話で、ふたつのカットが同じ空間を共有していることを便宜的に示す技法として、切り返しを行なったりはしない(登場人物のひとりはほとんど盲目である)。だが、この作品がただたんに視線を描かないことにおいてすぐれていると言いたいわけではない。そうではなく、度重なる顔の不在の果て、極限まで視線の交換を排除した果てに、それでもやはりある視線の交換へとたどり着くこの作品の構造にこそ興味がある。
 それは別れの場面である。しかし出会いの場面であると言ってもいいのかもしれない。30年の時を経て、女と男は再会する。言葉もなく、彼らは視線を交換する。やがて女は立ち去り、おそらく彼らはもう二度と会うことがない。
30年間会っていなかったふたりの人物の別れというのも奇妙な気がするが、シャーネレクにとってはむしろ人々が別れをなすためにこそ視線の交換は必要とされるのかもしれない(もう一組のカップルがカフェのような場所でなす対話を思い出してほしい)。歌が始まる瞬間に同じフレームに入っていたはずのふたりは、長い時間を経て、ふたつのカットに別れながらそれでも同じ時間、同じ空間にいるのだということを確認するためだけに互いの視線と出会う。
女が去っていくとき、再び彼らは同じフレームに収まるが、もう彼女は彼を見ていない。それは別れの場面であるが、しかしやはり出会いの場面でもある。


アテネ・フランセ文化センター「アンゲラ・シャーネレク監督特集」にて上映
京都出町座「【特集】新・ベルリン派の真髄 〜アンゲラ・シャーネレク監督との出会い〜」が3/23まで開催中
4/1、渋谷アップリンクにて、トークイベント:アンゲラ・シャーネレク「自作について語る」が開催