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April 12, 2018

『寝ても覚めても』濱口竜介
結城秀勇

[ cinema ]

 お気に入りの小説が映画化されてそれを見るという体験は、好きな誰かに似た別の誰かに出会うことにどこか似ている。......などと言い出すのは少々強引過ぎる気もするし、普段はそんなことは思わない。だが、かつて愛した男と瓜ふたつの別の男に出会う女の話である柴崎友香『寝ても覚めても』を、原作に並々ならぬ思い入れを持つ濱口竜介が映画化したとなれば、そのくらいのことを言ってもいい気がする。
 似ていたとしても、やはりそれは別の誰か、である。例えば、原作ではどうしても常に「麦」という漢字で視覚的に認識してしまう「ばく」という名の人物は、映画ではどこまでも「バク」という音が映像に先行するような人物である。最初の自己紹介で名前を漢字でどう書くかという話題になるのは、映画版ではむしろ朝子のほうで(「あさこのあさは、モーニングの朝?」 )、バクが麦という表意文字を伴うことは事後的に付け足される。その他、小説と映画というメディアの違い、あるいは作品としてのコンセプトの違いから、あそこは原作とこう違うけどそこがいいんだよな、でもやっぱり原作のもいいんだよね、などと延々と書き連ねていくことはできるのだが、ここではただ次の一点についてだけ書こう。
 小説『寝ても覚めても』とは、強烈なインパクトを伴った最初の映像との出会いの後、それとそっくりな2番目の映像に出会うとしたら、人はその「2番目の映像」をただ「2番目の映像」そのものとして愛することはできるのだろうか、という問いである。対して映画『寝ても覚めても』とは、誰かと出会ったとき、すでにその誰かにとって自分が「2番目の映像」でしかない場合に、人は「2番目の映像」それ自体として愛されることはできるのだろうか、という問いである。
 映画『寝ても覚めても』における「2番目の映像」、つまり東出昌大が演じる亮平が本当にすばらしい。彼は原作ではどちらかといえば麦のものであったはずの「長い手足」と「優しい顔」を、亮平のものとしてこそ生き直す。東出昌大=亮平には、原作の朝子のようなほとんど怪物的なまでの愚鈍な強さも、麦のような亡霊じみた不思議な魅力もない。ただ彼には、自分が「2番目の映像」としてしか生きられないのだとしても、それを恐れない勇気と優しさだけがある。たとえ彼が失意の底にあっても、怒りに身を震わせていても、それは止むことなく滲み出ている。そんな男性像を日本映画で見たのは久しぶりな気がする。
 映画『寝ても覚めても』の存在は、どこか見る者にもまた亮平の勇気と優しさを分け与えてくれるような気さえする。世紀が変わった後で、普段撮る映像がフィルムのものからデジタルへといつのまにか変わってしまった後で、東の街で通り魔事件が起こった後で、大きな地震が起こってしまった後で、知らぬ間にもしかしたらこれから出会うかもしれない誰かが他の誰かと最初の出会いをしてしまったかもしれないその後で、私たちは生きている。『寝ても覚めても』は傑作だ、などという言い方では足りない。思えば絶えず「その後」であるほかない「いま」の、そこから裂け目のように現れてくるかもしれない「これから」の映画だ。


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