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April 13, 2018

『泳ぎすぎた夜』五十嵐耕平&ダミアン・マニヴェル監督 インタヴュー
松井宏

[ cinema , interview ]

すべての日々は新しくて、発見に満ちている 五十嵐耕平&ダミアン・マニヴェル監督 インタヴュー

フランスと日本の同世代の監督が、お互いの作品に恋に落ちて、友人になって、一緒に映画をつくることを決めた......。まるで映画の1エピソードみたいなお話だけれど、ダミアン・マニヴェルと五十嵐耕平にとっては、ごくごく自然で、そして必然的なことだったようだ。ふたりの話を聞いているとそう思うし、それは彼らの映画づくりにおいても同じだ。1本の作品においてなにを語りたいか、なにを撮りたいか。そしてじゃあ、どう語るのか、どう撮るのか。つまり内容と方法とが、ごくごく自然に、そして必然的に結びつきながら、彼らは作品をつくっている。大事なのはルールじゃない。発見して、驚いて、それを味わい、そして反応するのだ。『泳ぎすぎた夜』という小さな宝箱には、たくさんの驚きが詰まっている。


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──『泳ぎすぎた夜』は2016年冬の撮影でしたが、ふたりは2016年5月からブログで創作日誌を始めていましたよね。すでにマニヴェルさんの最初の投稿に「雪、郊外、子供、犬」というキーワードが出ていて、それがそのまま作品に反映されています。これらのキーワードはすぐにふたりのあいだで決まったものだったのでしょうか?

五十嵐耕平(以下K.I.) すぐに決まりました。ごく単純にダミアンとぼくのアイデアを合体させたんです。ぼくはこどもを撮ったことがないから子供を撮りたい。ダミアンは雪を撮ったことがないから雪の場所で撮影したい。それからぼくたちの作品にはどちらも犬がよく登場するから、当然犬も必要だよね、と。そしてぼくたちの作品はいつも、どちらかというと郊外が舞台になるので、今回も郊外だね、と。そうやって自然に決まりました。一緒に映画をつくろうと最初に話したときからすでに、だいたいは出ていた気がします。

──こどもや雪など「それまで撮ったことがないものを撮りたい」という欲望は、毎回どの作品でもあるのでしょうか?

K.I. ぼくはいつもそれを考えますね。今回でいうと、ぼくがこどもを撮ったことがないようにダミアンもこどもを撮ったことがなかったし、雪についても同じです。つまりお互いにとってなにも知らない状態。つまり、どちらかがイニシアチブを取ることがないような状態にしておきたかった。

ダミアン・マニヴェル(以下D.M.) ぼくにとって映画をつくることは、つねに新しいなにかを学ぶことですし、未知の領域を手探りで進むことです。出演者についても場所についても、物語についても、いつだってそうです。たぶん五十嵐も同じじゃないかな。映画をつくることは、未知のものへ向かう運動なんです。

──いわゆる「脚本」をつくらなかったと聞きましたが、ではその代わりにどんなものを準備したのでしょう?

D.M. いちおう「脚本」はありましたよ。ただそれは「ワンフレーズ=ワンシーン」と呼べるようなものでした。全部でたった5ページ。内容的には、ほぼそれがそのまま作品になった感じです。その「脚本」のほかには、デッサンや写真なんかもいろいろありましたね。

K.I. 前作『息を殺して』は大学の卒制だったのでちゃんとした脚本の提出が必須でしたが、基本的にはプロットだったり、シーンの箇条書きだけで、これまで作品をつくってきました。だから今回のやり方もまったく抵抗がなかったというか、むしろ普段通りでしたね。

D.M. ぼくもそうです。これまでの作品もほとんど同じやり方です。これは自分の望む製作体制のせいでもあって、つまりぼくは素早く撮影をして、素早く作品をつくりあげたいんです。脚本を書いて、それを発展させて、という時間は必要じゃない。このやり方から生まれるのは必然的に、ある種のタイプの作品です。これはすごく大事です。つまり、いつだってドキュメンタリーとフィクションの境界に立つことになる。たとえば、ぼくたちふたりにとっては、撮影のときに出演者がもたらしてくれるものを発見し、それにいかに驚き、いかに反応するかが、いちばんおもしろい。それを味わいたいんです。だからこどもと雪だった、とも言えるわけです。なぜならこどもも雪もコントロールがすごく難しいですよね。必然的にその瞬間瞬間の反応が求められる。

──「ワンフレーズ=ワンシーン」というのは、たとえば具体的にどんなものだったのでしょう?

K.I. たとえば「鳳羅くんが駅で電車を待っている」。「電車が来る」。「電車に乗る」。

D.M.「お父さんが鳳羅くんの部屋に入る。座る。彼を見る」みたいな......。詩のようなものではなく、具体的で、短ければ短いほど、簡潔であれば簡潔であるほどいい。そのぶん隠された秘密の部分が大きくなって、なにかが起きる可能性が大きくなる。そのほうが自由だし、奇跡が起きやすい。あまりに細かく書かれすぎたものには興味が持てないんです。

K.I. 事前になにかを決めてしまうと、事前に他の可能性が潰されてしまう。「ここはこういうシーンだから、これはダメ、あれはダメ」と。それがすごく嫌で、もっと間口を広くしていたい。なにかが起きても、それをどうとらえて、作品に活かせるかを考えたい。

D.M. ぼくたちの「脚本」を誰かが読んでも、本当につまらないと思いますよ。でもぼくたちにとってはものすごく刺激的なんです。まったくつまらないテキストを通して、その裏に隠されている可能性を考えるわけだから、とてもワクワクする。映像にも、音にも、空気感にも、とても大きな余白が残された状態です。

──ワンフレーズ=ワンシーンで、かつ多くの場合はワンカットですね。

D.M. あるフレーズ=アイデアを撮るとき、それがワンカットで十分に実現できたなら、基本的にはもう別のカットは撮りません。鳳羅くんとの作業はそれほど簡単なものではないし......。ワンカット、ワンカットがすごく貴重でした。あるいは、ワンカットで3つのフレーズ=アイデアが撮れてしまう場合もある。そういうときは時間もカットも節約できるわけで、さらに別のフレーズ=アイデアがその場で生まれて、それに取り掛かることができる。たとえば鳳羅くんが駅で電車を待っているときに、靴の雪を落とすカットがありますよね。あれはもともと書かれていませんでした。その前のカットで数フレーズを実現できてしまい、じゃあ何か新しいものをと考えたとき、「そうか、前のシーンでは雪のなかで遊んでいるから、ここでは靴の雪を落とすというのが、きっと彼の日常だろう」と思い、あれを撮ったんです。ぼくたちの「脚本」は、ひとつの骨格のようなものです。毎日撮影しながら、それに肉を与えていったんです。いずれにしても、絶対にワンシーン=ワンカットだ、というルールはなかったですね。


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──鳳羅くんに「脚本」は読んでもらったのですか?

K.I. いや、読んでないです。もちろん事前にお話の大筋は口頭で伝えました。でもその日にどんなシーンを撮るかは、彼は事前には知らなくて、撮影の準備ができそうだなというときに口で伝えます。ここでこういうことをしてほしいんだ、と。

──何回も同じことをやらせる、つまりテイクを重ねることはありました?

K.I. いちばん多いときで3回。でも3回できたら本当に奇跡ですよ!

D.M. うん、リミットは3回だったね(笑)。でも基本的には1回だけ。ときどき2回、かな。

K.I. 鳳羅くんはもちろんフランス語が理解できないので、ぼくが指示を伝えるわけです。たとえば「AからBまでゆっくり歩いてね」と。そして実際に歩いてくれる。鳳羅くんにとってはそれで100%正解なんです。とはいえ、ときにはこちらからNGも出しますよね。「いまのだと歩くのが早すぎたから、もう少しゆっくり歩いてほしいんだ」とか。でも彼からしたら「AからBまで歩けって言われてゆっくり歩いたつもりなのに、なんでやり直しなの?」と、なる。だから同じことを何回も繰り返すのは基本的には不可能だし、リハーサルもできない

──しかも雪が積もっていて、足跡がついてしまうし、その意味でも何度もテイクを重ねるのは難しい。

K.I. そうですね。そういったさまざまな現実ゆえに、何回も繰り返せない。だから1回のテイクをどうすればうまくできるかがすごく重要。それで毎回かなり時間をかけてワンカットを撮っていました。ダミアンが言ったように、ワンカット、ワンカットがとても貴重なものだった。


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──たとえば鳳羅くんが朝、家でご飯を食べているとき、居眠りして机からずり落ちるカットがありますよね。あれは演技? それとも実際に彼は眠ってしまい、ああなった?

D.M. あのとき五十嵐が鳳羅くんの服を引っ張っていたんですよ!

K.I. あぁ、そうでした......。実はあのシーンはもともと「眠っている」というだけでした。ただ、撮影しようとしたら鳳羅くんが駄々をこね出しちゃって、やだやだやだってしてたら、「ドンっ」て机からずり落ちちゃったんですね。あ、これはいいなと思って、別の日にそのシーンを撮り直すときに、あれをもう1回やってほしいと伝えました。でもそのときは本当に半分ぐらい寝ちゃってて、このカットはやはり「眠っている」というカットなのかなとも思いましたが、最後にぼくがフレームの外から鳳羅くんの服を「こっちだよ」ってツンツンして引っ張りましたね。

──「こどもの自然な姿」では、まったくなかった、と。

K.I. ええ、それと同じようなことはたくさんありましたよ。

──では、鳳羅くんが弘前で、雪道に座り込んでリュックから絵を取り出し、そしてリュックを置いたままカメラのほうに向かって歩いてきて、でも急に振り返って、リュックを取りに戻って......。あのシーンも実は......?

D.M. そうそう、ぼくが「カバン! カバン!」って叫びました。

K.I. 本当にリュックを忘れて、こっちに歩いて来ちゃうから、ダミアンが必死で叫んでた。それで編集でダミアンの声を消しました。つまりこの作品のなかでは、本当に自由な鳳羅くんの動きと、ぼくらの意思が明確に介入した彼の動きとが、混在している。フィクションとドキュメントが映画作りのどの段階でもミックスされている。「子供の自由な自然なままを撮りました」ということではなくて、いたるところで介入がある。どうコントロールするかが、つねに問題になるんです。でもすべてをコントロールしてしまえば彼の身体性が奪われてしまう。たとえば鳳羅くんに事前に指示を出すのと、カメラが回って彼が動いている最中にぼくらが介入するのとでは、別の結果が生まれるんです。

──フィックスでの撮影というのも、そのコントロールの一種と考えられるのでしょうか。つまり手持ちで鳳羅くんの動きを追うのではなく、フィックスにして、フレームによってある種のコントロールをそこに加える。

D.M. たぶんこの企画を前にしたとき、多くの作り手たちはまず手持ちを想定すると思うんです。鳳羅くんの持つエネルギーのなかに入るためには、それがいいだろう、と。でもぼくたちの選択はその正反対でした。彼の動きを追いかけ、駆り立てるのではなくて、彼の動きと対話するような形式を選択したんです。つまりフィックスですね。フレームのなかをものすごく自由に動く人物がいて、そこに秩序ある形式を持ってくる。言い換えるなら、できるかぎりニュートラルな形式です。これについては、ふたりでけっこう話しあいました。多少のリスクもありますしね。でもこの選択によって、この作品が他では見たことのないものになるはずだと考えたんです。もし手持ちにしていたら、ドキュメンタリーというジャンルの罠に嵌まっていたかもしれないし、単純に「ドキュメンタリー映画」になっていたかもしれない。でもぼくらはこの選択によって、この作品をフィクションにしたんです。

K.I. カメラまで動くと鳳羅くんの動きがハッキリしなくなってしまう。そうじゃなくて、雪のなかで小さな運動体がぴょこぴょこしている状態、それをしっかりとらえたいと考えていたんです。その運動自体、アクションそのものが、この作品の主題でもある。だからその運動にこちらの動きを入れたくなかった。

D.M. それからこの選択は、作品の3つの章をつなぎ、一貫性を持たせるための方法でもあった。仮に鳳羅くんが雪のなかで動き回るシーンで手持ちを使ったとしても、家のなかのシーンでは絶対にフィックスを使うわけで、そうなるとトータルで歪な感じになってしまう。そうじゃなくて最初から最後まで同じタッチが欲しかったんです。

──現場でふたりはそれぞれどこに立っていましたか? たとえばひとりがモニターを見ていて、ひとりが役者の近くにいるなど、そういった分担はありましたか?

K.I. 基本的にぼくは鳳羅くんのそばです。鳳羅くんに指示を出すからでもありますが、もともとぼくは、そういうタイプなんです。モニターも見ないし、カメラマンといろいろ話すよりも、俳優といつも話している。もちろん今回はぼくがモニターの前にいるときもありましたよ。そのあたりは臨機応変でしたかね。

──マニヴェルさんはモニターを見るのが好きか、あるいは直接俳優を見るのが好きか、どちらでしょう?

D.M. 絶対モニターです。基本的にずっとモニターの前にいたいですね。自分にはフレームが必要なんです。目の前の現実とは別の現実、フレームで切り取られた現実──つまり映画です──を見ていないと、少し不安になってしまう。そうでないとあっちこっち目がいってしまって......。これはぼくにとってすごく大事なことです。

K.I. ぼくは、わりと目の前の現実をあっちこっち見ていたい。俳優だったり、あるいはカメラに映っていないなにかだったり、別の角度からだったら見えることだったり、そういうものを見ていたいんです。


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──鳳羅くんが立ちションするシーンがありますよね。あれは「脚本」に書いてあったのですか?

K.I. 立ちション自体は書いてありました。

──鳳羅くんが立ちションしているのを、屋根の上で雪かきしているおじさんが見て、慌てて鳳羅くんが立ちションをやめる、というシーンです。あれは鳳羅くんとおじさんを別々で撮って編集で繋げていますよね?

D.M. その通りです。屋根の上でひとが雪かきをしている実景を撮りたいなと、ずっと思っていたんです。よく見る光景ですが、ぼくにはそれがとても美しいと思えた。それであるときに、あのおじさんを見つけて、すぐカメラを回しました。もちろん彼は自分が映っていることなんて知らなかったけど、ある瞬間にこちらに気づいたんです。カメラのほうを向いたわけです。それで、あとになってこれを立ちションに繋げたらおもしろいね、ということになった。立ちションの撮影はそのあとだったので、振り向く動きの指示を鳳羅くんにしたわけです。

K.I. 犬と鳳羅くんが吠えあうシーンも同じです。もともと犬を撮影しようとはしていたんですが、たまたま見つけた2匹の犬がすごく吠える犬でした。でもそのとき、彼が以前に犬とバトルしていたのを、ぼくたちは思い出したんです。「ワン、ワン!」と吠えあっていた(笑)。これはバトルのシーンにしたらおもしろいねとダミアンと話して、飼い主さんにお願いしてまず犬を撮らせてもらった。それで後日、鳳羅くんにも吠えてもらって、それを別の場所で撮影しました。

──立ちションする鳳羅くんと屋根の上のおじさん、吠えあう鳳羅くんと犬。どちらももちろんショット=切り返しショットなわけです。あそこには言わば、ふたつの現実をカメラが仲介することでフィクションが生み出されるような感触、あるいは現実とフィクションとがカメラによって仲介されているような感触が、あるんです。

K.I. まさにそうです。ドキュメンタリーのカットはとてもたくさんあって、それらがフィクションとつながっていく。


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──たとえばリチャード・リンクレイターの『ビフォア・ミッドナイト』(2013)で、すごく好きなシーンがあって。主人公の男女が会話しながら散歩するのを、引っ張りでずっと撮っている。いつものリンクレイターのスタイルですね。その会話の途中でヤギの話が出てくるんです。そしてそのすぐあとに、女が「あ、ヤギ」と言って画面外を指差す。するとパっとカットが変わって、ヤギのカットがインサートされる。そしてまたふたりの会話に戻る......。実際ヤギについての台詞があらかじめ書かれていたのか、あるいは即興だったのか、ヤギを撮ることがプランにあったのか、あるいはなかったのか、それはわかりませんが、とにかくそれを見たとき、まさにその瞬間になにかが生まれつつある、という感覚が湧き起こった。そしてその感覚は、いま話した『泳ぎすぎた夜』のふたつのシーンでも、感じたんです。

D.M. つまり大事なのは、見ているひとが、自然発生的になにかが生まれていると感じられることですよね。いまの話は脚本に書かれていてもまったくおかしくない。でもきっと書かれていなかったと思うんです。だからこそ自生性みたいなものが、感じられるんだと思う。そして、だからこそ、そこには軽やかさがある。 こういうことを実現するためには、やっぱりスタッフのフレキシビリティが大事になってきます。柔軟な精神。ルールがいちばん大事なものではない。その意味では、今回はすごく良いスタッフに恵まれました。

K.I. 本当にそう思いますね。それと、もうひとつ具体的な例を挙げると、鳳羅くんが手袋を落としますよね。あれは完全なるドキュメント。本当になにも考えずに、手袋を落としてしまった。でもそれをOKにして、その後のお話のなかに組み込む。つまりフィクションにしてしまう。だからその後はずっと手袋をつけていない。そうやっていろんなパターンで、現実とフィクションとの行ったり来たりがあります。


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──基本的に順撮りだからこそ、それができる。と同時に1日だけのお話だから、完全なる順撮りでなくとも、たとえば衣装の変更なんかもないし、そこはシンプルですよね。

D.M. でも天気のことは、いつだって面倒ですよ。これまでのぼくの作品も、だいたい限定された時間のお話だったけど、毎回天気のつながりには悩まされますね。

──天気でいうと、鳳羅くんが市場に行って、結局お父さんに会えなくて、そしたら急にかなり強い吹雪がやってくる。

K.I. あの日はもともと違う場所で違うシーンを撮影する予定でした。ただ雪が降りすぎてシーンが成立しないような状態で。でも、あの市場のシーンがもともと雪がすごく降っているという設定だったので、あのシーンならいけるぞとなった。それで急遽プロデューサーの大木真琴さんに無理言って頼んで、その日の撮影許可を取ってもらって、撮影したんです。

──あの吹雪のシーンで、鳳羅くんは逃げ場所を求めて、知らないひとの車のドアを開けようとして、何台もチャレンジして......。犯罪行為だからドキっとしてしまうのですが、逆に言えばそれほどまでに過酷な状況なんだと、手に汗握ってしまうわけです。そしてあのシーンから『泳ぎすぎた夜』が方向性を変えたように感じるのです。フィクションの度合いが強くなるというか、ちょっとしたファンタジーの世界に入っていくというか。

K.I. あそこで変化が起きる、というイメージはもともと話し合っていました。あの時間からフィクションのほうに飛躍するという考えですね。吹雪のなかをさまよい、最終的に知らないひとの車のなかに入って、眠ってしまう。そしてその後の時間が、いったい現実なのかなんなのか少しわからなくなっていく......、そういうイメージでした。彼はその後ずっと眠っていますしね。だからカメラもそれまでとは少し違うポジションだったりします。

D.M. ぼくとしては、あの吹雪のシーン以降からの変化が、いったいどれほどのものかを実感できたのは編集段階だったのかなと思います。言ってしまえば......、たとえばヒッチコックの映画でときどき見られるように、主人公が死んでもお話が続く、というタイプの作品がありますよね。鳳羅くんが眠り込んでしまってもお話が続くというのは、それと同じなんです。本来なら彼が眠り始めたとき、この作品は終わりを迎えている。でもお客さんは、待てよ、まだあと30分ぐらいは続くだろうと感じるはずです。そのとき当然、別の世界が開かれ、作品全体に有機的な変化が訪れる。まさにそれが重要でした。もしかしたらその後の時間は彼の見ている夢でもありえる。

──たしかに。あの車のなかは、見知らぬ男が鳳羅くんを殺して死体を運んでいるとか、そんなふうにさえ見えてしまう。突然流れるヴィヴァルディの「春」のメロディもあって、ちょっとしたサスペンス映画、あるいはファンタジーのような雰囲気。そもそも最初に、鳳羅くんが車のなかに入るとき、後ろの窓が雪で覆われて灰色になっていて、外がまったく見えないんですね。それがかなり不吉なんです。その瞬間からすでに、それまでとは別の世界に入っていることが、強く感じられる。

D.M. そう、あの車は別の世界へ向かう船みたいなものですね。

──これはふたりのこれまでの作品の共通点なのかなと思いました。つまりドキュメンタリーの側面とフィクションの側面がつねに絡み合っていながら、かならずある瞬間に、フィクションの度合いがぐっとせり出す。最初から潜んでいるフィクションの力がぐいっと姿を現す瞬間。マニヴェルさんの『パーク Le Parc』も、五十嵐さんの『息を殺して』も、そうなんです

D.M. それは夜というものからきている、とも言えます。『息を殺して』も『パーク』も『泳ぎすぎた夜』も、どれも限定された時間を語っていて、あるときにかならず夜が訪れる。そこから別の世界に入っていく。これは誰もが知っていることです。夜には昼とは別の深さや広さ、時間の流れがある。たとえばぼくたちは夜中の3時に、昼間と同じように話したり行動したりはしないですよね。夜とともに知覚が変化するんです。そして朝になればまた変化する。

K.I. ダミアンが言う通りだし、ぼくはつねに作品のなかで飛躍を求めるんです。ドキュメンタリーとフィクションが混じり合った状態というのも、これはこれでひとつの側面でしかなくて、ぼくたちのひとつの視点でしかない。でもそうじゃない側面もこの世界にはあるし、その可能性をつねに欲しているんだと思います。たとえば犬というものも、ぼくたちにとってはそういう存在です。犬は人間とは違うルールで生きていますよね。同じ世界に生きているけど異なる存在。そうやってひとつの世界にも複数のレイヤーがかならずあって、それらを行き来することで、世界の見え方が広がるはずなんです。 『泳ぎすぎた夜』は、パッと見た印象としては「ナチュラルな」作品に見えるかもしれません。でもぼくとしては、映画というものは接続しえないものに接続しうる可能性を持っているんだと、つねに考えている。日常的なことを語っていても、まったく日常的でないこととコネクトできてしまう。それが映画というものの好きな部分なんです。

──その意味でいうと鳳羅くん自体が、犬と同じように、五十嵐さんがいま言ってくれたことを導いてくれる存在ですよね。こちらの常識やルールをどんどん逸脱して、壊していくような、そういうサスペンスに満ちた存在でもある。そこには一種の怖さと同時に快感がある。

K.I. まさにそうで、でもそれは、実際にこどもと接しているときの状態と近いんですよね。こどもはつねに危うさを持っているし、思考が読めない。圧倒的な他者として存在している。この生き物はなんだろう、いまどういうルールでこういうことをしているんだろう? と、つねに思うわけです。同じルールや思考回路を共有できない危うさですよね。「こどもは自由で純粋、見てるとハッピーです」というだけではなくて、こどもがつねに持つ危うさ、圧倒的な他者としての怖さみたいな側面も含めて、全部とらえたかった。


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──前半、鳳羅くんが真っ白な雪のなかで遊んでいて、突然バタっと倒れてみせる。あのとき、「あ、自分はこいつのことが理解できないかもしれない」と思ったし、同時に不思議と感動したんです。たとえば雪がほとんど降らない場所で生きているひとにとっては、たしかにあんなに雪があれば、雪のなかにバタッと倒れてからだを埋めてみたくなります。でも彼は生まれてからずっとあの環境で生きているわけで、きっともう雪には慣れているはずなのに......、それでもやっぱり、ああやって気持ちよさそうに雪のなかにバタっと倒れてみせる。

K.I. ぼくはあれにめちゃくちゃ感動したんです。鳳羅くんはいつもああなんです。毎日雪が降って、積もっている場所に暮らしているけれど、外に出たら雪で遊びたくてしょうがない。初めて雪を見たかのように、初めて雪を触ったかのようなリアクションで、毎日毎日遊んでいるんです。雪国のこどもがみんなそうなのか、鳳羅くんだけがそうなのかはわかりませんが、ぼくはその姿に本当に感動してしまって。その感動もこの作品によって伝えられるようにしたかった。1日1日を毎回新しい経験として生き直して、その繰り返し、積み重ねによっておとなになっていく。つねに1日がゼロから始まって100まで到達して、眠ったら次の日はまたゼロに戻って、また100までいって......。それを繰り返しているのはすごいなと思うし、本当にうらやましいし、すごく尊敬に値すると思うんですね。

──鳳羅くんが、お父さんに会えず、無人の市場を出て、ポツンと壁にもたれてしょんぼりしている。たしかそのカットから雪が少し強くなり始めていて、そのあと吹雪につながるのですが......、とにかくあのカット、壁にもたれる鳳羅くんの在り方と表情にとても心を動かされました。いったいあのとき彼はなにを考えて、ああいう表情、ああいう在り方になったのか......?

K.I. 先ほども話しましたが、あの日は急遽、市場で撮影することになりました。昼過ぎの時間で、つまりちょうど、実際にお父さんが市場から家に帰る時間帯だった。でも鳳羅くんは本当にお父さんに会えると思って、ぼくらと一緒に市場に向かったんです。そしたら一瞬すれ違っただけで、お父さんはすぐに帰ってしまった。だから鳳羅くんは本当に、ものすごく悲しんでしまったんですね。その悲しみが、あのカットとその後のシーンに全部映っている。なにか特別なことをしたわけではなく、同じシチュエーションが偶然、実際に訪れてしまい、それを撮影した。もちろん鳳羅くんだってカメラの前に立っているので多少演じている部分もあるかもしれませんが、でもあそこは、彼が役にもっとも近づいてしまった瞬間ですよね。

D.M. 鳳羅くんはものすごく悲しんでいたし、あの日は大変な撮影でした。でも本当にスペシャルな時間だった。

──もうひとつ、とても心動かされたのが、家に戻って眠り続けている鳳羅くんのもとに、犬がやってきますよね。ちょこんと彼の隣に座る。ああ、もしかしたら彼のことをいちばん理解しているのは、この犬なのかもしれないなあと、そんなことを思って感動してしまったんです。

D.M. そもそも動物というものは、たとえば飼い主が病気だったら、敏感にそれを感じると思うんですね。それにあの犬は、たしかに鳳羅くんのことをもっともよく知っている存在でもある。まるで、おとぎ話に出てくる彼の守護天使のような存在です。眠っている鳳羅くんのもとにやってきて、彼の夢を守り、彼の夜を守る。ちょっとばかり魔法の世界のようですよね。

K.I. 鳳羅くんが眠れずに過ごす朝方の時間を一緒に過ごしているのも、あの犬だけですしね。鳳羅くんの大事な部分をかなり知っている。

──あの犬は実際に鳳羅くんの家族が飼っているんですか?

D.M. いや、撮影のために別のおうちから連れてきました。

K.I. けっこう人見知りで、おとなしい犬だったんですが、なぜか鳳羅くんとだけはスキンシップがあって、なついていました。犬とこどものあいだには、特別ななにかがあるのかもしれませんね。


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──マニヴェルさんが、犬を「おとぎ話のなかの守護天使みたいだ」と話してくれましたよね。思い出してみると、そもそもこの作品のファーストカット、暗闇のなかで雪が降っているのを窓越しにとらえる、あの不思議な美しいカットが、すでにおとぎ話の1ページ目として存在していたとも言える。

K.I. あれも、もともとプランにあったわけではなく、現場で「幻想的だから撮ろう」と決めたカットでした。実際かなり照明も当てて、人工的な感じになっていますね。

D.M. あれをファーストカットにしようと決めたのは編集の段階でした。いま言ってくれたように、あのカットにも、そして作品自体にも、おとぎ話との繋がりがたしかにあります。そしてこれは「家」についての映画でもある。あの家はものすごく存在感があります。どこか見知らぬ国にある家のようにも見える。こどもがそのなかに忍び込むような不思議な家だったり、あるいは不思議な宮殿だったり......。実はあの家は、照明の跡地淳太朗さんのおじいちゃんの家で、もともとはスタッフの宿泊場所だったんです。鳳羅くん家族が暮らす家としては、まったく想定していなかった。そしたらある日、五十嵐と「この家にはなにかを感じるね」という話になって、あの家を使うことにました。あの家には、なにか不思議な匂いというか、魂みたいなものを感じるんですよ。

K.I. かなり大きくて、すごく変な間取りの家でね。しかも編集によって、さらに間取りがわからないようにしてあるんです。少しファンタジーっぽい、不思議な空間。

D.M. うん、だから家も重要な登場人物だね。

──ちなみに鳳羅くんが撮った写真が登場しますが、あれは実際彼が撮っているものですよね。とても良い写真ばかりでびっくりしました。

D.M. あれは鳳羅くんが両親からクリスマスプレゼントにもらったデジカメで、普段から彼は写真を撮っているんです。

K.I. 実は鳳羅くんが初めて撮った写真というのが、お母さんと一緒にお父さんの働く市場まで行くあいだを撮った写真だった。雪、道、魚、お父さん......。それが実際、作品に登場するあの写真たちなんです。 そしてそれがそのままこの作品になった感じですよね。

──鳳羅くんの世界の見方というのが、あれらの写真でちょっとわかる気がするんです。写真、撮り続けてほしいですよね。

K.I. 相変わらず撮り続けていますよ。でも、自分が気に入らないとその場ですぐ消しちゃうんです。だから撮影中も、「やめて! 消さないで!」って何度も止めていましたよ。でも、結局消しちゃうんですけどね。(了)

取材・構成:松井宏
通訳:エレオノール・マムディアン


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五十嵐耕平 Kohei IGARASHI
1983年日本の静岡生まれ。東京造形大学在学中に制作した映画『夜来風雨の声』が Cinema Digital Seoul Film Festival (CINDI) に出品され韓国批評家賞を受賞。2014年、東京藝術大学大学院映像研究科にて制作した修了作品『息を殺して』は第67回ロカルノ国際映画祭に出品され、その後全国劇場公開された。また近年はD.A.N. Alexandros 等のミュージックビデオも手がけている。

ダミアン・マニヴェル Damien MANIVEL
1981年フランスのブレスト生まれ。コンテンポラリー・ダンサーとして活躍後、ル・フレノワ国立現代アートスタジオにて映画を学ぶ。短編『犬を連れた女』は2011年ジャン・ヴィゴ賞を受賞、短編4作目の『日曜日の朝』は2012年カンヌ国際映画祭の批評家週間短編大賞を受賞。初長編映画となる『若き詩人』はロカルノ映画祭特別大賞を受賞、2015年に日本でも劇場公開された。長編2作目の『パーク』は2016年カンヌ国際映画祭に選出された。



   


『泳ぎすぎた夜』La nuit où j'ai nagé
2017年/フランス・日本/79分/4:3/カラー/5.1ch/DCP
出演:古川鳳羅 古川蛍姫 古川知里 古川孝 工藤雄志
監督:五十嵐耕平&ダミアン・マニヴェル
プロデューサー:ダミアン・マニヴェル&マルタン・ベルティエ&大木真琴 共同プロデューサー:トマ・オルドノ&ヨブ・ムーア
撮影:髙橋航 照明:跡地淳太朗 録音:ジェローム・プティ&高橋玄 助監督:上田真之&平井敦士 編集:ウィリアム・ラブリ カラリスト:ヨブ・ムーア 音楽:ジェローム・プティ サウンドミックス:シモン・アポストル
制作プロダクション:NOBO 製作:MLD Films 配給:コピアポア・フィルム+NOBO
配給協力:フルモテルモ 協力:弘前フィルムコミッション


第74回ヴェネチア国際映画祭 オリゾンティ部門 正式出品
第65回サン・セバスチャン国際映画祭 正式出品
第18回東京フィルメックス 学生審査員賞・Filmarks賞受賞

公式サイト:http://oyogisugitayoru.com
2018年4月14日(土)より、イメージフォーラムほか全国順次公開