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April 30, 2018

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』スティーヴン・スピルバーグ
結城秀勇

[ cinema ]

 謎の繁忙期だった四月も終わりつつあり、ようやっと『ペンタゴン・ペーパーズ』を見れた。ご多聞にもれず、泣けた。なるほど、いまの日本の国民はみんなこれを見るべきだと言うのもわかる。
 だがだからこそ、この映画を評価する言葉がそれだけでいいのか、という気もするのだ。あえて言えば、JFKの友達だった編集主幹のいる新聞がニクソンを糾弾する、みたいな構図だけで、本当に報道の自由について語れるのか? それはあまりにシンプルすぎる構図なんじゃないのか。
 序盤はそんな懸念を拭い去れぬまま見ていたが、でもやっぱりマクナマラ元国防長官(ブルース・グリーンウッド)が「ニクソンはサノバビッチだ!」とケイ・グラハム(メリル・ストリープ)に警告するところではスカッとする。それはある意味、保身のために記事の差し止めを促す言葉に他ならないわけだが、同時にふたりの友情が彼らの公的な立場に基づいた関係を乗り越える瞬間でもある。「大統領や特定の個人に不信や疑問を抱くことは、国家に対する反逆ではない」というわけだ。
 そうした意味で、ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス )とJFKの交友関係は、単なる民主党シンパ対ニクソンという構図に回収されるべき問題ではない。同じく、ケイが下す決断についても、新聞社を受け継ぐような恵まれた家系、ある種の選ばれた人だったからできたこと、とみなされるべきものではない。彼らにとってそうしたエピソードが意味するのは、国家権力と報道とが共に葉巻を燻らせていた幸福な時代はすでに終わった、ということだけだ。彼らは幸福な時代の崩壊の後を生きている。ベンはもう二度と、いつか自分の取材対象となるかもしれない権力者と友情を育むことはない。ケイは、夫の死さえなければ足を踏み入れることさえなかった、この戦場のような業界で生き抜く術を見いださざるを得なくなった。ベンの妻が語る通り、不慣れな場所に突然投げ込まれ、「有能ではない」と言われ続けた人間が、それでも周囲に反対してひとつの決断を下すことは、想像を絶するほどに勇敢なことであるはずなのだ。彼らの問題は、政治的な党派や階級に属するのではない。彼らの問題は彼ら個人に属するのであり、それゆえに個人を国家権力と同一視させるような薄汚いやり口を、彼らは断固として許すことができない。パブリッシュとは、パブリックにすることだ。
 エンドロールの最後、ノーラ・エフロンに捧ぐ、の献辞に再び涙腺が決壊する。脚本作はともかく、彼女の監督作にそこまで思い入れがあるわけでもないのに。その名前が目に入った瞬間、最高裁判所を出るケイを出迎える人々の場面がフラッシュバックした。なぜか彼女の周りには多くの女性たちばかりが待ち受けていた。そのひとりひとりの顔が思い浮かんだ。
 女性問題の話題が紛糾する昨今、自分より立場の弱い女性を食い物にする豚野郎どもは死んでしまえ、と思う。だがそれ以上に、「私は異性とふたりきりで食事をしません」とかしたり顔で語るやつらに対する怒りの方を抑えられない。結局、お前らみたいなやつらがこの、なにかあったときにそのことを女性が口にできないような社会をつくってんだよ、と心底思う。だから、かつて樋口泰人が『ラストワルツ』の爆音上映の際に言っていた言葉を思い出した。35mmフィルムについての言葉を、主語を女性に代えて言ってみたいと思った。女性は守られるべきものではない。傷つきながら前へ進んで行くものだ。

  • 『ブリッジ・オブ・スパイ』スティーヴン・スピルバーグ 結城秀勇
  • 『奥様は魔女』ノーラ・エフロン 梅本洋一
  • 『ジュリー&ジュリア』ノーラ・エフロン 結城秀勇