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January 2, 2019

『天使の顔』オットー・プレミンジャー
千浦僚

[ cinema ]

 フィルムノワールや犯罪メロドラマにおける、最強の悪女、ファムファタルは誰だろうか。
 『マルタの鷹』のメアリー・アスター......『深夜の告白』、『呪いの血』のバーバラ・スタンウィック......『哀愁の湖』のジーン・ティアニー......『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のラナ・ターナー......『過去を逃れて』のジェーン・グリア......『上海から来た女』のリタ・ヘイワース......『遅すぎた涙』のリザベス・スコット......『拳銃魔』のペギー・カミンズ......。
 ......また『堕ちた天使』のリンダ・ダーネルや、『恐怖のまわり道』のアン・サヴェージのような、悪意と暴力を弄んで自ら犠牲者となるタイプの悪女もいる。というなら、40年代のジョーン・ベネットもいた。『キッスで殺せ』は、いきなり死んでしまうことでマイク・ハマーを厄ネタに引き込むマゾヒスティックなコートの裸女クロリス・リーチマンと、パンドラの箱を開けてしまうサディスティックなギャビー・ロジャースに挟まれたいわばダブルファムファタル映画......などと挙げても、まだまだ有力候補を書き落としている。
 ファムファタル女王決定戦はハッシュタグか掲示板でやったらいいような気もするが、私個人の好みで、先述の候補者らと並べても下手すれば暫定一位になりそうだと思う、偏愛する一本、ヒロインが、『天使の顔』(オットー・プレミンジャー、53年)、ジーン・シモンズ。
(日本語で書くとKISSのベースのひとと同姓同名だが、彼はGene Simmons で、こちらはJean Simmons) 
 『天使の顔』の悪女要素と濃厚なその毒性をひとことで言うなら、処女の怨念、だろうか。
 金儲けを狙う欲得ずくの悪女とは意識的な行動者であり、彼女らはヒールの靴音も高く悪の領域に踏み込んでゆくが、その論理はまだ社会的なものだ。だが、バーバラ・スタンウィック演じる地方都市の女王マーサ・アイヴァ-スの奇妙な熱情は何を求めるのか。また、『拳銃魔』のペギー・カミンズ、あのトリガー・ハッピー&スリル・クレイジーな彼女は本当に現金を強奪したいのか。論理にも性器にも直結していない女性の異様な欲望を目撃したときこそ、まさしく映画を観ていると実感する。あれを描くために映画は存在するのではないだろうか。
 『天使の顔』のジーン・シモンズのピュアネス、全存在をかけて欲しいものを求めながら破滅を呼び込む無意識悪女ぶり。女たちの倍の肩幅と頭の大きさを持つロバート・ミッチャムだが、そのスリーピーアイには退廃が宿り、彼の逞しさや大きさはやがて大木か巨獣のようにドサリと倒される。執拗に反復される幽鬼のため息のようなディミトリ・ティオムキン作曲の主題曲も忘れがたい。
 シモンズは1929年生まれで本作撮影当時既にそれなりのキャリアがあるはずなのに、何かまだつくりこまれていないナマなものをここで見せる。私が同一フレーム内に男女がおさまるツーショットのキスシーンやそれに近い対面する姿勢のカットを観るとき、注目するのはその女優の眼だ。映画の撮影に限らず実際の、同様の状況でも起きることだが、女性のなかには相手の眼を一心に見つめると眼球が激しく左右に往復運動するひとがいる。これは相手に(だいたいは)目玉が二つあるので、"眼を見つめる"ということを近距離でやったときに、離れていたときには漠然と"眼(の周辺)"であったものが急に二個の対象として現われ、しかもそれを意識できず、一生懸命見つめようという思いが右、左、右、左......という無意識の眼球左右往復運動として出るためのようだ。もともとこれになる人とならない人がいるし、意識できるできない、対処するしないがある。あと、映画においてはもちろんワンカットで撮ることをしないと生じない現象でもある。私はこれを見つけるとなぜか激しく感動する。......変態的フェチポイントみたいな話ですいません。
 脚本家、映画監督の大和屋竺はこの現象に着目した「ゆれるまなざし」というエッセイを書いている(この題名はそれが書かれた当時流行していた化粧品会社のCMソングにちなむ)。演技者としてこれについて触れているのはマイケル・ケインで、その実践的映画演技論の書『映画の演技』(邦訳は構想社刊)でケインは、"自分はこれをしたくないので、相手の眼を見る芝居のときには相手の眼のキャメラに近い側の眼ひとつを見るように自分の視線を固定する"と言っている。おそらくこれは映画の観客、演出者、俳優で意識している者がいたり、気づいてない者がいたりする事柄だが、『天使の顔』のシモンズはおそらく意識していないし、監督オットー・プレミンジャーが意識したかどうかはわからないがこれをNGにせず残している。ロバート・ミッチャムを見つめるシモンズの瞳のフラジャイルな揺れ。あれこそがこのヒロイン、ダイアン・トレメインの天使性だ。
 オットー・プレミンジャー(1905〜1986)は、たとえその映画そのものを観ていなくても、誰もがなんとなく知っているような名作的なもの(『帰らざる河』54年、『悲しみよこんにちは』58年)や、大作(60年代)を撮ったが40年代から50年代初頭までつくっていたミステリ、ノワールは邪悪で狂っていて、その締めくくりが『天使の顔』だろう。デヴィッド・リンチは、「ツイン・ピークス」(90〜91年)に大きく影響を与えている映画はヒッチコックの『めまい』とプレミンジャーの『ローラ殺人事件』(44年)だと公言していた。どちらも捜査をする者がその仕事を死んだ女性への恋のように感じはじめる映画だ。この44年から53年の『天使の顔』までの時代に、もう一本推しを選ぶなら『歩道の終わる所』(50年)。ダナ・アンドリュース演じる不良刑事がうっかり人を殺すのだが、その事件を自分で担当させられる。これは実に悪夢的な雰囲気に満ち満ちたノワールである。
 『天使の顔』中盤、法廷の真ん中に置かれる焼け焦げた自動車部品のシュールさ......。ジェームズ・ディーンの交通事故死は55年。J=L.ゴダール『軽蔑』63年、『ウイークエンド』67年。ジェーン・マンスフィールドの事故死は67年。J・G・バラードの小説「クラッシュ」は73年。バクシーシ山下の『死ぬほどセックスしてみたかった』は94年。クローネンバーグによる映画『クラッシュ』は96年。本作はこれらに先がけた交通事故フェティシズムの映画だとも捉えたい。
 この『天使の顔』と同年に撮られたプレミンジャー監督作『月蒼くして』のなかで、怪しげな人生経験を相当積んだと思しきデヴィッド・ニーヴン演じる中年男が、"悪い女には対処可能だ。警戒すべきは善良な女なのだ"と言う。
 この台詞は『月蒼くして』のなかでは単に気の利いたくすぐりだが、本作の衝撃的なエンディングのあとに思うと、戦慄と切なさを感じる。この映画を観たということは、92分間かけてゆっくり天使が落ちてゆくのを見ていたということなのだ。

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