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February 2, 2019

『ミスター・ガラス』M・ナイト・シャマラン
結城秀勇

[ cinema ]

 これを見るために『アンブレイカブル』を見直したのだが、そこで得た教訓は、何事も程度の問題だよなということだ。イライジャ=ミスター・ガラス(サミュエル・L・ジャクソン)は言う、「コミックのヒーローたちの能力は誇張されてはいるが、それは本来人間が本能として持つものだ」と。つまり、彼の極度に傷つきやすい身体も、デイヴィッド=オーヴァーシーアー(ブルース・ウィリス)の極端にケガも病気もしない身体も、程度の問題としては世の中に満遍なく分布している。だが、それがある一定の値を超えたとき、もはや他の人たちに比べて健康などという事態ではなく、他とは一線を画す"スーパー"なのだ、というのがイライジャの主張だった。
 それは一見、本作『ミスター・ガラス』において、ケヴィン=ハード(ジェームズ・マカヴォイ)を含めた3人を収監し治療しようと試みるドクター・ステイプル(サラ・ポールソン)の主張とかなり近い。ドクターはデイヴィッドの"罪の看破"の能力を、メンタリストに学んだ一流のマジシャンの読心術と同じ、と評するのだが、それってかなりすごい。それだけで食っていけそうな技術。だが、そこでこそイライジャの主張とドクターの主張は真っ向から対立する。つまりドクターはこう言うのだ、「あなたたちはすごい。でも超すごくはない」。
 イライジャの「超すごいある」説と、ドクターの「超はないわ」説のいずれを取るのかこそがこの作品の核心である。だが結論を急ぐ前に、「程度の問題」問題にかかわって、デイヴィッドの能力について2点ほど述べておきたい。『ミスター・ガラス』の冒頭で、デイヴィッドは道端で通行人にフライング顔面パンチした小悪党ふたり組をやっつける。正体がバレないように暗がりに引きずり込んで、壁に向かってぶん投げる。......だがふと思うのだ。『アンブレイカブル』の時点では、フレームの外から人間ひとりぶん投げられるほど力が強くはなかったよな......、と。しかしそれはシリーズとしての整合性がとれていないことを意味するわけではない。なんせ、前作から19年もあったのだ。それだけの時間鍛錬を重ねれば、これだけ強くなったっておかしくない。それが第一の点。
 もうひとつの点は、『アンブレイカブル』の中でもっとも残酷なシーンに関わることだ。かなりの終盤、駅のロビーでデイヴィッドは通行人たちの罪の重さを計る。結果、宝石泥棒や黒人差別主義者を見逃して、一軒家の住人を拘束して家を乗っ取った男を退治することに彼は決める。ここでのデイヴィッドの決断は、いかに自分が"スーパー"であったとしても、すべてを救うことはできないという判断に基づいていたはずだ。だが『ミスター・ガラス』の冒頭では、彼が『アンブレイカブル』では見逃したはずの黒人差別主義者クラスの悪を懲らしめている。これも修練による程度の拡大という解釈で済むのだろうか?
 そこにはおそらくふたつの重要な問題がある。ひとつには、力を発揮するためには才能云々ではなく肉体的精神的双方の鍛錬が必要だということだ(『スプリット』におけるケヴィン=ハード=ビーストの振る舞いは、ほとんどフーコーの言う「自己のテクノロジー」のようなものにさえ見える。「充実した、積極的な形式における自由とは、人が他の人々に行使する支配力の枠の中で自分自身に行使する支配力なのである」(『快楽の活用』)。さらにそれは劇中で「革命」と呼ばれている!)。と同時に、もうひとつは、鍛錬の後に力が拡大した結果として、すごいと超すごいの閾はいったいどこに置かれるべきなのかということだ。
 そのふたつの問題をふまえて、イライジャの「超すごいある」説とドクターの「超はないわ」説どちらをとるのかという話に戻るならば、たとえその境目がどこにあるのかはわからないとしても「超すごいある」という結論に至る。これは別に『ミスター・ガラス』のネタバレに関わる問題でもなければ、この映画の内容に一切触れなくても出せる結論だ。「超すごい」はある。だから映画を見ている。それを見るために映画を見ている。かつて「超すごい」を見たことが気がするのは、たとえただの見間違いだったとしても、「超すごい」は確実に存在する。そこになんらの疑いもない。
 ただしその「超すごい」はただやみくもな才能(マーヴェル的な、と言ったら適当過ぎるだろうか)としてあるのではなく、あくまで鍛錬の結果、19年にも及ぶ「自己への配慮」(フーコー)の結果としてある、というところがシャマランの倫理であるだろう。「超すごい」は「すごい」の延長線上にある。しかしその間には明確な一線が存在する。
 余談だが、『アンブレイカブル』も『スプリット』もデイヴィッドやケヴィンの二つ名そのものではなく彼らの能力や性質の形容であるタイトルだったはずなのに、今回のタイトルがイライジャの二つ名そのもの(原題では「ミスター」がないわけだが)なのはどういうことなのか、という疑問がある。おそらく世界中のシャマランの観客たちの中には、「一度も疑うことなく、決して信じることをやめなかった」者たちがたくさんいるはずで、そういう人たちの解釈を聞いた方がためにはなる気がするのだが、たゆまぬ鍛錬を積み重ねることができなかった怠惰な私はそうした人たちの言葉を調べることもせず、甚だ僭越ながら自分勝手な解釈を付け加えてこの文章を終える。

 わたしたちは、今は、鏡(a glass)に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
(「コリント人への手紙」13-12)


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