« previous | メイン | next »

June 28, 2019

ギィ・ジル、感情の真実を追い求めて
ジュリアン・ジェステール

[ cinema ]

今回の日本でのギィ・ジル特集開催を何年も前から望み、提案し続けてくれ、そしてついに今年3月、第1回「映画/批評月間」開催のために来日した仏日刊紙「リベラシオン」文化欄チーフ、映画批評家のジュリアン・ジェステール。長らく評価されずに忘却、あるいは無知の中に葬られていたジルの作品が、2014年にようやくシネマテーク・フランセーズにて全作特集上映された際の同氏の記事、「ギィ・ジル、感情の真実を追い求めて(原題:Guy Gilles, épris de justesse)」を以下に訳出する。 
日本でのギィ・ジル発見はようやく始まったばかり、今度も引き続き紹介していきたい。

ギィ・ジル、感情の真実を追い求めて(*1)

amour_a_la_mer.jpg
«L'Amour à la mer» (1964), avec Daniel Moosmann et Geneviève Thenier. Photo Lobster

 人目につかずにいた天才たち、晩年になって私たちの知るところとなる美学的な偉業の中には、日の目を見ることなく、閉じられた部屋の中で創造が行われ、美術史が書かれる中心の場所からあまりにも遠く、だれか墓掘り人が世界の無知から救い出すのを待たなければならない作品が数多く挙げられるだろう。しかしそうして不当にも顧みられることのなかったアーティストの中には、より注目を浴びていた同輩たちの中で成長し、彼らと共に歩みながらも、時代の好みではあまりないとされ、その仕事が脚光を浴びることがなかった人たちがいる。たとえばギィ・ジルがそのひとりであり、作家のアレクサンドル・ヴィアラット(*2)について述べられると同様に、ジルは「周知のごとくも知られざる」映画作家、詩人だと言えるだろう。当時の高揚感のまっただ中で、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちや彼らの後継者たちにとって過度なほど繊細ないとこ、周辺的な存在だったジルは、映画を撮りたいという欲望があまりにもしばしば断ち切られ、撮られた作品も無視され、1996年に他界した後は忘却の闇の中に置き去りにされることになった。


Enténébré 闇に包まれて
 ジルの作品を賞賛した人々として(ジャン=ピエール・)メルヴィルや(マルグリット・)デュラスを挙げることができるにしても、ジルの長編処女作『海辺の恋』(1964)は「カイエ・デュ・シネマ」においては、リュック・ムレによる記事が示す通り、軽蔑をもってしか受け止められなかった。ジルがアシスタントを務めていたジャック・ドゥミはと言えば、そこに自分自身のカリカチュアしか見ようとしなかった。またポール・ヴェキアリは、自分がジルの中に「過度の感傷癖」しか認めていないと最近にいたっても主張している。しかしながらギィ・ジルの諸作では、「感情の視点」とでもよべるものを包み込むかのように、シーンの中でフレーミングが変化し(*3)、心の動きがモンタージュによって渦巻きと化す。また戦前の映画----とくに戦前の女優たち----への情熱が突出しており、それこそヴェキアリの珠玉のメロドラマとの類縁性が豊かに保たれていると言えるのではないだろうか。またゴダール、トリュフォーの初期の作品に見られる大胆さ、情動が蝋燭の火のようにいまにも消えそうな光の中、かすかな揺れ(生者と静止したものとの間で揺れる緊張)とともに描かれるユスターシュ的いくつかの傾向、あるいはガレルとのいとこのように近い類似性、たとえば生き残った者、残存者たちについての、詩や静物の叙情性に溢れた映画であり、震撼させるまでに自伝的な映画への嗜好などが挙げられるだろう。

 ギィ・ジルは1938年に生まれ、弱冠20歳で、悲しみに打ちひしがれたモノローグとアルジェリアでの散策を『消えた太陽』として一本の作品にまとめるが、ジルはその作品の中ですでに怯えた声で次のように呟いている、「私たちは移動墓場のような存在だ」。この作品ではすでに時間とその反響が重要な要件となっている。ここで問題となっているのは亡命の地と、まだそこから去ってはおらずとも、すでに失われている楽園の間での逡巡であり、どのように生きるべきか、慰めるすべもない現在、あるいは過去があまりにも重く、停滞し、身を苛み、清算するしかない時に、想像されえない未来である。『消えた太陽』はジルの最初の作品であり、ある喪を完遂するためにまず存在した。それはジルの母親の死であり、わずかながらの遺産はこの13分の眩しいばかりの瞬間に満ちた作品の製作にすべて注ぎ込まれた。その後の作品にも見ることができる感情の迸りで満ちたこの試作を再発見することのある残酷さは、冒頭の長いナレーションの中にすでに感じられる。「シニカルになる術を知らずにいるのは厄介なことかもしれない、でもつねに剥き出しのこの心、それこそが私たちのおおいなる証じゃないか。もはや苦しむことも、心引き裂かれることも知らなければ、それは死でしかないだろう。」これは同時に、ジルにとっての詩的かつ存在論的とも言える指針であり、焼け焦げるほどのロマンティシズムの定めとしてある不幸な運命の予感でもあるだろう。

Le Clair de terre.jpg
«Le Clair de terre» (1970), avec Patrick Jouané et Annie Girardot. Photo Prod DB. Films 13. Albertine

 そしてまさにシネマテーク・フランセーズによって、ジルの作品の常軌を逸するほど美しい色彩、深い闇のような黒が復元され、特集される今こそ、いや今を超えて祝う時が到来した。これが実現したのは、とりわけギィ・ジルの熱烈で一徹なファンであり自らも映画監督のガエル・レパングルの熱意の賜物であり、レパングルはジルに2本のドキュメンタリーを捧げており、非常に興味深いギィ・ジルのモノグラフを何人かの論者たちと執筆し、共同編纂している(*4)。約10本の長編、ほぼ同数の短編、そしてテレビ用に撮られたドキュメンタリー。ジルの最も美しい作品は、70年台半ば、初期の15年間、メインストリームから脇にそれたところで、ほとんど目につくことがなく発表された作品たちであり、その後は周囲の無関心と辛辣な評価によって映画界から完全に干されていってしまうだろう。ジルはまず、おおいなる努力を費やして職人的な方法で撮り始め、ほかの映画作家たちからもらったフィルムの残りを使い、子供であればサインをせがむように出演依頼したスターたち、たとえばアラン・ドロンやジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・グレコ、ジャンヌ・モローが一瞬登場することになる。そうして完成した(長編処女作の)『海辺の恋』に引き続き、素晴らしい『切られたパンに(オー・パン・クペ)』(1967)、『地上の輝き』(1970)の2本が撮られる。とくに『地上の輝き』は彼の作品の中でも最も愛されてきた作品だが、監督はここでメランコリーを催す不可解な対象への強迫観念を陽光の下であてもなくさまよう物語が発する生の震えと一致させているが、それは故郷アルジェリアの思い出や、当時継続していたプルーストの読解(ジルは当時、プルーストについての素晴らしいドキュメンタリーの企画を進めていた)によって浮かび上がってくるだろう。

Polar blême 青ざめた顔の犯罪映画
 これらすべての作品には、ギィ・ジルの映画と切っても切り離せないある存在が光を放っている。それは不良少年パトリック・ジョアネ(*5)の天使のような恩寵であり、彼はジルの分身であると同時に、欲望の対象であり続け、そのことは作品の端々で吐露され、一つひとつのショットがこの愛する者の顔との新たな出会い、それまで見たことがないような、しかしほんの束の間の出会いを刻み続けている。そしてうつ病を患い、病院の廊下から撮られたような美しくも恐ろしくもある麻薬中毒者の悲劇的ドラマ『反復された不在』(1972)が撮られることになる。ジルとの間のあまりにも短き、しかし燃えるような情熱的関係が終わりを告げたばかりのジャンヌ・モローの声が、まるで絶望に彩られた強迫観念のように、作品の端々から聞こえてくる。次にデルフィーヌ・セイリグと共に撮った、まるで青ざめた顔のような犯罪映画『転覆する庭』は、すでにジルのスタイルの揺らぎが感じられはしても、見とれてしまうほどに美しい作品である。

 こうしたジルの作品群の悲しいアイロニーは、ほとんどすべての作品が「存在すること、愛することの困難さ」を描いており、そのジルの映画自体が今度は愛されることの難しさに突き当たってしまったことだろう。感傷主義、美学、批評的な距離のなさを非難されたからであるが、夢遊病者のようなジルの映画には、美しさの中にしか真実はなく、詩の中にしか人生はなかった。『反復された不在』の中で叫ばれるように、「僕は人生が詩だと思いたかったのだ」。

(翻訳:坂本安美 )


*1 本記事のタイトル「Epris de justesse」には言葉遊びがなされており「repris de justice」(前科者)という表現にかけて似た響きの単語によって、ギィ・ジルが情動、登場人物たちの真実をいかに映画的フォルムとして見出すことに情熱を注いだ人であったか示そうとしている。

*2 アレクサンドル・ヴィアラット(1901-1971)
ニーチェ、ゲーテ、トーマス・マン、ブレヒトの作品の翻訳家、そしてカフカを一躍発見し翻訳、紹介したヴィアラットは文芸批評家、コラムニストとしても著名だったが、小説家としては生前は3冊しか出版されず、その死後、80年代にかけて息子のピエール・ヴィアラットの努力もあり、未発表の小説が次々と出版され、評価が高まった。

*3 ギィ・ジルの諸作では、シーンがまず、劇作上、ロングショットで始まり、その後、記憶、メランコリー、ノスタルジーといった登場人物たち、あるいは映画作家自体の感情の視点を包み込むかのように、オブジェや顔への近景、クロースアップへとフレーミングし直される。(ジュリアン・ジェステール)

*4 Guy Gilles un cinéaste au fil du temps, sous la direction de Gaël Lépingle et Marcos Uzal、Edition Yellow Now, 2014 〔『ギィ・ジル 時間の流れの中の映画作家』 監修:ガエル・レパングル、マルク・ウザル、イエロー・ナウ出版社、2014年〕
ガエル・レパングル、そしてマルク・ウザル(「リベラシオン」)、ジャン=セバスティアン・ショーヴァン(「カイエ・デュ・シネマ」)、ジュディット・ルヴォ=ダロンヌ(ポンピドゥー・センター)、ベルナール・ベノリエル(シネマテーク・フランセーズ)、マチュー・マシュレ(「ルモンド」)ら優れた論者たちによるテキスト、ギィ・ジルの生前のインタビュー集、パトリック・ジョアネへのインタビュー、フィルモグラフィー、そして写真家でもあったジルの写真集で構成され、ジルを知る上で貴重かつ読み応えのあるモノグラフとなっている。

*5 パトリック・ジョアネ(1946-1999)
ギィ・ジルは『海辺の恋』撮影中の1963年、クリッシー広場からコランクール橋の辺りを友人たちとぶらついていた16歳のパトリック・ジョアネと出会う。パトリック・ジョアネはパリの郊外のサン=トゥアン出身で、問題の多い思春期を送っていた不良少年だったが、ふっくらとした頬、明るい髪の色、溌剌として美しかった。ジルは『海辺の恋』で台詞のない役を彼に与え、そしてふたりは生活を共にすることになる。ふたりは愛し合い、その後しだいに離れることになっても、25 年亘り、パトリック・ジュアネはジルの分身であり、欲望の対象であり続け、その作品と人生にとって重要な存在であり続けた。劇映画以外でもジルの最も美しい2本のドキュメンタリー、『プルースト、芸術と苦悩』(1971年)の繊細なる語り部、ジャン・シュネについての『聖人、詩人、殉教者』(1975年)ではジャン・シュネ自身を演じている。ギィ・ジルを喜ばせるためだけに映画出演する以外はとくに俳優のキャリアに興味がなかったが、ロベール・ブレッソンの『白夜』(1971年)へ出演している。その後、深刻な事故に遭い、俳優業から完全に退き、庭師として働いていたが、ジルの遺作の一本前の作品『夜のアトリエ』(1978年)で最後の出演を果たしている。亡くなるほんの少し前、ジルの弟、リュック・ベルナールが撮ったギィ・ジルにとってのドキュメンタリー『ギィ・ジル、あまりにも早く逝ってしまった映画作家』(1999年)に出演し、ジルとの友情、想い出について語っている。