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September 13, 2019

『暁闇』阿部はりか
隈元博樹

[ cinema ]

「LOWPOPLTD.」名義の音楽をクラウド上で共有していたサキ(越後はる香)とユウカ(中尾有伽)は、その消失と引き換えに、物々しくそびえ立つビルの屋上とそこに佇むコウ(青木柚)の姿を発見する。その屋上とは、これまで彼らが身を潜めていた日常の狭々しい空間とは異なる、どこか開放的で無機質さを帯びた空間だ。学校の図書館から借りた三浦綾子の『続・泥流地帯』を読んだり、見知らぬ男性に買ってもらった花火に興じることで、彼らはほんのささやかな夏のひとときを、このビルの屋上で過ごすことになる。たとえ家庭環境に不和を抱えていたり、売春行為に耽溺していようとも、たがいの境遇に干渉することもなければ、コウが制作した「LOWPOPLTD.」の音楽について詳細に語り合うような間柄でもない。目の前の同年代の存在を確かめ合いつつも、彼らに訪れた時間は、都市の真ん中で刻々と過ぎていく。
 ちなみにこのビルは、新宿に位置する渡邊洋治設計の軍艦マンションだが、地上のシーンは雑踏にまみれた渋谷のセンター街や岡本太郎の「明日の神話」前、あるいは百軒店の路地などで撮られている。もちろんそのことは、東京の地理に疎ければ知らなくとも良い情報にすぎないし、作劇上何ら支障のない事実ではある。しかし、渋谷と新宿という別々の都市空間があたかも同じ場所のようにあることで、変容の著しい渋谷と新宿の現在が画面の中で同時に切り取られているばかりか、生活空間と商業空間との渾然一体となった風景の痕跡が、今の東京にもたしかに残り続けていることを改めて思い知らされる。
 2003年に刊行された岸和郎、北山恒との共著『建築の終わり』(TOTO出版)において、内藤廣は戦後日本の資本主義と個人主義がつくりあげた都市や郊外の景観を「意気地なしの風景」と呼んだが、2018年に撮られたこの『暁闇』にも、意気地なしの風景が明瞭に映り込んでいる。そして、屋上からその風景を臨む中学生の彼らは、自らが暮らしている地上の存在を認め、周囲に広がる意気地なしの風景に寄り添うことを選ぶ。ただし、その屋上とは、昼夜を問わず開け放たれた空を眺めることのできる場所でありつつも、彼らにとってのユートピアを永遠に充足するための場所にはならない。それはある事件をきっかけに顕著となるのだが、たとえビルの屋上にいようとも、地上で起こりうるできごとによって否応にも引き戻され、かつての場所へとふたたび降り立つことを余儀なくされてしまう。続くと信じていたはずの彼らの夏休みは、こうして不意にその幕を閉じられてしまうのだ。
 つまり『暁闇』とは、語られる人物が置かれた状況に注視すればするほど、渋谷の街並みや路地のように手狭で息苦しさを伴った映画であると思うのかもしれない。しかし、その一方で、新宿のビルの屋上のように映画の中に宿る東京という都市の現在が、そこはかとなく剥き出しにされていることを見過ごしてはならない。なぜならそれは、変容する街の記憶や意気地なしの風景に寄り添うことで、都市の片隅にいる/いたであろう彼らの姿を初めて目に焼き付けることができるからだ。登場人物とともに、彼らを取り巻く風景へと寄り添うこと。だから何だろう、久しぶりに東京の映画を観たような心地がした。

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