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October 22, 2019

『囚われの女』シャンタル・アケルマン
池田百花

[ cinema ]
 主人公がフィルムに映った若い女性たちの一団を眺め、その中のひとりに何度も愛を呟く場面から始まるこの映画は、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の中の同名の一章が映画化された作品だ。この冒頭のシーンからすでに、スタニスラス・メラール演じる主人公シモンが恋焦がれる女性に向けるまなざしにはどことなく執拗で狂気を秘めた雰囲気が感じられ、一方で彼がまなざす先にいるヒロイン、アリアーヌを演じるシルヴィ・テスチュのほうは、スクリーンいっぱいに顔のアップが映されても、その表情はどこか不透明で何を考えているのか心情がつかめない。ここである女性のイメージに憑りつかれ彼女を手に入れようと奔走する男性と絶えずその手から逃げ去る女性という構図が提示され、何よりも彼らのまなざしが物語を展開していくことになる。
 『囚われの女』では、主人公とそのヒロインは愛し合っているにもかかわらずそれぞれがお互いの世界に入り込むことはできない。映画の上映後、撮影監督のサビーヌ・ランスランさんを囲んで行われたティーチインでは、このふたりの不可侵性について、彼らの間に物質的な壁が置かれることでそのことが示唆されているということや(アリアーヌを追跡するシモンの車のフロントガラスが反射していたり、シャワーを浴びる彼らが不透明なガラスで隔てられていたりする)、原作にかなり忠実に撮られたというベッドのシーンでも彼らが身体的に交わることはないということが話された。原作では、ベッドに横たわるアルベルチーヌ(映画ではアリアーヌという名前に変わっている)は「花をつけた長い茎」に例えられ、眠っている間に植物と化した彼女のそばにいる時だけ、主人公は「夢見る能力」を発揮することができるという。
アルベルチーヌは目を閉じて意識を失ってゆくうちに、知り合ったその日から私を失望させてきたさまざまな人間的属性をひとつまたひとつと脱ぎ捨てていった。いまやアルベルチーヌのなかに息づいているのは、植物に宿るような、木々に宿るような意識のない生命で、私の生命とはずいぶんかけ離れた、はるかに奇妙な生命でありながら、それでいていっそう私のものとなる生命である。(プルースト「囚われの女」より)

 すでに切り取られた花の茎であり「意識のない生命」として描かれる植物的な女性の描写からは死のイメージをも連想させられる。このプルーストの文体から香り立つセクシュアリティの特異さは、映画において、ほっそりとした体つきで本来官能性とは結びつかないようなシルヴィ・テスチュの身体に不思議と官能的な魅力が感じられることも説明してくれるかもしれない。
さらに、主人公は眠る彼女をじっくりと見つめて両手に抱きかかえ、「相手を余すところなく所有している気分」に浸るが、それは彼女が目を覚ましている時には到底感じられない感覚だという。だから映画でもシモンが眠るアリアーヌに触れようとする時、決まって彼女は目を閉じていて彼らの間でまなざしが交わされることはない。物語の終盤でシモンがアリアーヌに離れて暮らす提案をし彼女の叔母の家へ向かう車の中でも、ふたりが恋人同士の関係について正反対の意見を持っていることが明らかになり、シモンは相手のことを全部知りたいと思っているのに対して、アリアーヌは相手の中にどこか謎めいたところがあるからこそ惹かれるのだという。
 ただある瞬間ではシモンとアリアーヌが言っていることはまったく同じで、その言葉の反復はお互いの不可侵性を際立たせると同時に、彼らが叔母の家から戻ってやり直すためのチャンスを内包しているようにも感じられる。シモンとアリアーヌそれぞれから発せられる同じ言葉が、彼らを引き離すと同時に再び結びつけようともし、結局は徹底的な別れへと結実していくとはいえ、虚しさの中にも見え隠れする儚い希望を信じたくなる想いにさせられる。プルーストのエクリチュールから引き継がれた表裏一体をなす虚しさと美しさは、ラストシーンでシモンが漂流する海に見られるように、スクリーンの薄暗がりの中に広がりたゆたっていく。


アンスティチュ・フランセにて、特集「多様性を生きる」内のサビーヌ・ランスラン特集で上映

  • 『東から』シャンタル・アケルマン 結城秀勇