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November 8, 2019

『ペインテッド・バード』ヴァーツラフ・マルホウル
森本光一郎

[ cinema ]

 ある鳥飼いが捕らえた鳥に色を塗って群れに返す。すると、群れに戻った鳥は同種のものでありながら異端者として迫害され、墜落して死亡する。作中にあるこんな挿話が題名の由来である。主人公の少年はユダヤ人の孤児であり、これまでずっと見知っていたであろう村人たちから"ユダヤ人だから"という理由でつま弾きにされ、ナチスにつき出される。そこに、あらゆる形態の児童虐待を詰め込んだ地獄の映画で、どちらかと言えば『炎628』というよりも『悪童日記』を100倍に濃縮した感じの作品だ。疎開先の老婆に始まり、移動先の"所有者"でチャプターを区切りながら進んでいき、各チャプターで必ず深刻な暴力を受ける。強制労働、理不尽な暴力、男女を問わない性暴力、犯罪補佐、成果を認めない、とんちんかんな宗教の偽善、生き埋め、ネグレクト。これら全てを受け続けた少年と我々の心は閉ざされていき、無言で服従し"目には目を"という復讐の理念を体得していく(実は目玉をお返しする場面で伏線を張っているという謎の細やかさ)。彼の心情の変化は動物に対する態度でも推し量ることが出来る。映画にはフェレット、鳥、馬、ヤギなど数多くの生物の生死が描かれてきたが、それに対する態度が挿話を順に追うごとに冷酷になっていくのだ。

 本作品は、映画史上初めてインタースラーヴィクと呼ばれるスラブ諸言語を基に作られた人工言語を中心に使った作品でもある。チェコ映画なのでチェコの国内で起こったことと見られがちだが、実際にはどこの国かは明かされておらず、インタースラーヴィクを使用することで全スラブ諸国への一般化を行い、そこで起こったことを寓話的に示している。そして、二次大戦期の理不尽な暴力と生き延びるための無言の服従を強いられ、戦況によって支配国がナチスからソ連に変われど全く変わらない状況を3時間に渡ってねちっこく描き続けたのだ。一般化の過程は所々に配されたハーヴェイ・カイテルやステラン・スカルスガルドなどの国際色豊かな俳優たちによっても強調されている。彼らが東欧戦線にいる人間でないのは明白で、その"ありえなさ"が寓話的で幻想的な側面を裏打ちしているのだ。そんなゲストたちの中でも注目したいのは少年を助けたソ連の将校ガヴリラだ。多くの人が本作品を観て『炎628』を連想すると思うが、マルホウルはそれに対する答えのように、同作の主人公フリョーラ少年を演じたアレクセイ・クラフチェンコをガヴリラとして登場させ、本作品の主人公である少年を救出させる。結局ソ連軍のキャンプで、少年は"目には目を"という復讐への正当な"言い訳"を得ることになるのだが、それでも一時的ではあれ大人の庇護下にあったことには変わりない。

 モノクロの雰囲気も相まって、往年のチェコ映画を連想させるシーンも多い。冒頭の森での逃走シーンはヤン・ニェメツ『夜のダイヤモンド』だし、カレル・カヒーニャやフランチシェク・ヴラーチルっぽいショットやシーンも散見された。特に、七番目の"所有者"であるラビーナはマルケータ・ラザロヴァにそっくりでびっくりした。しかし、模倣に過ぎないショットも数多く、例えばヴラーチル特有の睨みショットを上から横から撮っていたのは、正直無駄な独自性だと思った。また、残念な点として、沈黙を貫き続ける少年が、途中で二言くらい喋ってしまう点も挙げておきたい。映画的に全く喋る必要がないので、寓話として徹底しきれてない甘さがある。11年振りの監督三作目である本作品は構想や撮影に長時間を掛けた(そのせいでチャプターを経るごとに少年が実際に成長してしまっている)割りに狂気が突き抜けず、凡庸な暴力映画に終わってしまう危険性すら孕んでいる。それを、監督の"賛否両論など当然"という諦めと取るか、単に彼の才能の限界と取るかは次の作品で決まると思うので、取り敢えず待つとしよう。

追記(2019 11/11)
 原作では少年はユダヤ人ではない。それはこの映画でもそうだろう。原作の描写として周りの色白・青い目・金髪の人々から、オリーブ色の肌・茶色い目・黒髪の少年がその属性だけで"ユダヤ人"と判断される過程が、色の塗られた鳥の挿話に重なるという意味での題名だった。映画でそこまで言及されないのは、少年がユダヤ人ではないことを観客が知っている、或いは理解できる必要があるのだが、私はそのミスリードに乗っかってしまった。

第32回東京国際映画祭
『ペインテッド・バード』ヴァーツラフ・マルホウル