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November 29, 2019

『台湾、街かどの人形劇』ヤン・リージョウ
千浦僚

[ cinema ]

 伝統文化と父子関係についての興味深い、優れたドキュメンタリー。
 八十年代末から九十年代前半の映画鑑賞体験を持つ者ならば侯孝賢監督作品の鮮やかさを記憶しているだろうし、その作品世界で独特の存在感を放っていた李天禄(りてんろく、リー・ティエンルー)のことは忘れもすまい。その李天禄の息子で、台湾伝統の"布袋戯"(ほていぎ、ポーテーヒ)という人形劇の演じ手である陳錫煌(チェン・シーホァン)を十年間取材し、彼の生き様と布袋戯の盛衰を語ったのが本作である。
 この陳錫煌氏を紹介するにあたって、李天禄の息子と書いてしまうことに陳氏が負った重荷が表れる。いま筆者は布袋戯の知識なき者として、それでも自分の量りうる世界映画文化や日本における台湾映画受容をとっかかりに、侯孝賢監督映画の李天禄、と言い、『戯夢人生』(93)で描かれた一尋ほどの大きさの飾られた演台で演じられる片手遣い人形劇を思い描いた。その映画好きに通じる説明以上に、台湾と布袋戯文化を知る者にとっては、李天禄の息子ということの意味は大きく重いという。もっともそれは陳錫煌氏ひとりの身の上にのしかかるのだが。布袋戯の人間国宝、斯界の巨人を父に持ち、同じ世界に進み、常に比較されてきた陳氏は甘やかされた跡継ぎではない。陳家に入り婿した李天禄は二子を持つが陳姓を継いだ長男の陳錫煌と李姓を継いだ次男では遇しかたが異なっていた。李天禄の劇団を継いだのは次男。そのあたりのことに陳錫煌は不満や鬱屈を見せない。それは、もはや見せない、というべきか。本作のインタビューシーンではただ淡々と、父は人に優しかった、私には厳しく褒められたことなどなかった、と述べるばかり。
 陳錫煌は小さな朱塗りの木箱に収められた"田都元帥"という戯劇の神を祀り、語りかける。この全てを見守るような、いたずら小僧ふうの顔をした神様の像がまた滋味深い。本作の原題は「紅盒子」でこの紅い箱を示すが、英語タイトルは「Father」。監督楊力州(ヤン・リージョウ)は陳錫煌が田都元帥に語りかけ、祈ることが彼の父親への思いだと見る。プレスシートの監督本人による本作紹介によれば、そのような踏み込んだ解釈を込めたことも含めて楊監督は本作を完成試写で陳氏に見せることに緊張していたが、鑑賞後陳氏は描き出された父子関係に関して恬淡と、まあこんなもんだ、と反応したという。
 陳氏の読み取りにくい人物の綾、秘すところは頑として明かさず、平明なところはオープンでこだわりなく拍子抜けさせられるような感じは、伝統のなかに生きることでコンプレックスを持ちながらもそれをなんとか超克した人間特有のものだろう。ある種の旧い世代のアジアの男の型というか。個人や個性、自由な精神などから縁遠いところで鍛えられた後にその存在が屹立し、表現や芸術があらわれる。これはおそらく西洋人には了解できない、不可解なところからやって来るアートだ。アジア人はなんとなく滅私の修行の果てに至る何かとしてそれを知っているのだが。
 陳錫煌は、伝統、伝統、と度々口にし、若手劇団の布袋戯の審査員をやって、花火が爆発したり宇宙人が出てきたりする布袋戯に対し、なってない、見ちゃおれん、と嘆くが、それはそういう場面を一見してこちらが受け取るような、新しいものを否定する権威、老人像とも違う。陳氏はタイに出かけてタイ伝統の三人がかりで操る人形ともコラボするし(ハヌマーン vs 布袋戯の孫悟空というアジア猿神対決)、フランス人女性の弟子も取っているし彼女は「星の王子さま」の布袋戯も演じるし、自分の技芸に隠すことや惜しむものは何もなく誰でも弟子にするし全て教えると公言する。先の若手への怒りは基本的な人形遣いの出来なさを他の虚仮威しで補おうとすることへの苛立ちだ。自分が師からすぐに手が出る、物で殴る(木製の人形の頭を使うのが最もポピュラー)の指導を受けてきたゆえに、弟子たちにはそれをしないという自制もある。本番中に舞台から人形を落っことしてしまった弟子に対するグッとこらえた陳氏の指導ぶりなど印象深い。
 本作の前半部で、いささか残酷なまでの率直さで監督楊力州が陳錫煌に残された時間は長くないからその技芸を記録しようと述べ、陳氏に丁重に"(人形を外したむきだしの)手を撮影させていただいてよろしいですか"隠しておきたい奥儀はありますか"と尋ねると氏はきょとんとして、そんなもんない、なんでも見せるよ、と言う。この無頓着さはまったく美しかった。それに続く二、三分間ほどの技の披露の場面。孫悟空の如意棒だろうか、銀髪の猿が金棒を右手左手と首の周りでめまぐるしく巻きつけて移しかえながらブン回すがそれは片手にはめた布袋戯人形がおこなっているのだ。手から離れて宙返りしてまたすっぽりはまる。陳氏の右手と左手にそれぞれ持たれている二体の人形が相争い、もみ合うなかで目にも止まらぬ早業で左右入れ替わる。むしろそういう大技よりもすごいのは、人間の指先よりもひとまわり小さい人形の手がそれ自体に精巧な装置や糸か棒がついているわけでもないのに、爪楊枝よりもやや太いくらいの筆や扇をつかんで人がするのと同じようにいきいきと動かすことかもしれない。秘密はない。どうやっているのかも見せてくれる。易々とやってみせる。だがそれは容易ならざる年月の積み重ねによってなされている。
 ところでこのドキュメンタリーを観たためにいまさら気づかされたのは侯孝賢が『戯夢人生』において映画を布袋戯のように構築して観せていたことだ。『戯夢人生』は美術と演出をいわゆるリアリズムで詰め、さらにそこにドキュメンタリーである李天禄の語りを差し挟みながら、圧倒的にフィクションのナラティヴと夢の如き香気を立ち昇らせた。それはあのキャメラの引き方とフレーミング、割らないカットのためだが、それが何に似ているかといえば布袋戯だったのだ。『戯夢人生』の画面の基調であり、最も多く見られる屋内シーンでの背景と調度に対する人物の位置とサイズは、布袋戯の舞台枠組みと人形のそれに近い。クローズアップと切り返しを排して従来的な感情移入への誘導も排し、それが語られている物語であることを意識させる、するとそれを観続ける者には能動的に観る感覚がうまれる。布袋戯師李天禄の自伝であるゆえの必然性に加えて、"物語が語られていることの意識化"を補強するために布袋戯や伝統演劇の場面が挿入され、その劇中劇を見る感覚が役者の肉体をもって演じられているドラマ部分にも波及する。それが侯孝賢の設計であった。だがそれゆえに『戯夢人生』における布袋戯は弱められたもの、映画に貢献するフィクション内のフィクションとなっていた。『戯夢人生』のクレジット"掌中劇顧問"、つまり劇中の布袋戯の監修は陳錫煌。自身で出演もしているし、実名づくしの李天禄自伝であるからその長子の彼本人である陳錫煌という登場人物もいてそれを子役が演じてもいる。主役であり父である李天禄に対し、あらゆるところから貢献し脇役になり後景に退いていた陳錫煌。
 しかし、布袋戯そのものの表現力は本作『台湾、街かどの人形劇』で復権し開花する。もちろん陳錫煌の存在も。
 本作の終幕は監督のリクエストによる"偶然の縁組"という、好漢が悪漢の手から佳人を救う劇。これをたっぷりと見せてくれる。しかし監督がこの演目を選んだ理由もまた複雑だ。この"偶然の縁組"は語りを必要としない聴覚障害者向けの演目だという。布袋戯は本来台湾語の語りで演じられるものだが現在は台湾語を解する人間が激減している。それには国民党政権下での台湾語禁止北京語強制と日本統治下での日本語強要が影響している。楊力州監督は観客が最も理解しやすい演目が伝統的な台湾語を捨てた演目であることのアイロニーを意識しつつ、これをクライマックスに持ってきた。本作中盤でも資料と記録映像によって布袋戯に言語の規制が科せられたこと、反共プロパガンダの道具として利用されたことを訴えていた(『戯夢人生』には日本統治下で政治教育に用いられる布袋戯が描かれる)。技芸と伝統、肉親あるいは師と弟子の愛憎という要素のほか、本作は極めてジャーナリスティックで確固たる史観をも持つドキュメンタリーだ。
 とはいえ、見せ場と筋をほぼ全部見せてくれる"偶然の縁組"はじつに魅せてくれる。ヒロインの父親である老人の人形が扱う煙管の動き(口から煙さえ吐く!)、美しく艶やかなヒロインの動き、大道芸人は皿回しをやり(つまり、片手にはめた人形がさらにその手に持っている竿で皿回しをする!)、悪者と善玉のバトルがあり、最後は才子と佳人のラブシーンもある。たまにひらりとめくれる幕の向こうに演者の陳錫煌と一番弟子の呉栄昌(ウー・ロンチャン)の顔が見えることも楽しい。手のひら大の人形が人の如く精緻な動きを見せ、それがまたスクリーンに大写しになるという不思議な心躍るショー。
 本作は全体として失われつつある文化の記録という哀感を湛えている。監督自身、インタビューシーンで陳氏の弟子や助手と、これは布袋戯文化の終焉なのか、というようなやりとりをする。しかし終盤の見事な布袋戯に引きずられるようにラストは意気が上がる。陳錫煌は伝承のために水滸伝武松の虎退治を演じる手技を監督らに記録させ、この映画は若いロックグループの台湾語ロックをのせたエンドクレジットで幕を閉じる。
 『台湾、街かどの人形劇』は2018年に第11回中国語ドキュメンタリー映画祭で長編部門グランプリを受賞、同年台湾での公開ではドキュメンタリー映画としては破格の興行収入12位を記録した。それ以来陳錫煌と呉栄昌のもとには問い合わせや取材、興行の依頼、弟子入り希望がひっきりなしだという。布袋戯衰退が止めようがないとしても、若干それに抗する嬉しい誤算が起きた。
 本作を見終えたあと、それまで観続けていた陳錫煌の雄弁な手の姿を反芻したいような思いで、自分の手で彼と同じポーズをとってみた。垂直に立てた人差し指が頭で、横に開いた中指薬指小指と親指がそれぞれ左右の腕となるような片手操り人形の姿を思い描きつつ。いや、違う。それは呆れるほどに単なる手と指でしかなく、このドキュメンタリー中で幾度も陳錫煌老師が現出せしめた優美で力強い布袋戯の骨格には程遠い。これを読まれる皆さんも試してみられるといい。片手の手指で上記のような形をつくり、それが「人形」「ひとがた」としての説得力を持ちうるかどうかを。ほとんどのひとにはそれはできないだろう。
 そんな仕草をしてみてあらためて慄然とし畏敬の念に撃たれる。七十余年、様々な思いとともに陳錫煌の人差し指は天を指し続け、長く伸び、その指の腹に人の顔を感じさせるに至った。その凄み、重み。人の生。

11/30より、渋谷ユーロスペースほか全国順次公開