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December 10, 2019

『ゾンビランド・ダブルタップ』ルーベン・フライシャー
渡辺進也

[ cinema ]

 朽ちたホワイトハウスを前に、4人がゾンビたちと対峙するオープニングシーン。スローモーションの多用、ストップモーションの中でカメラだけが動いていく場面(『マトリックス』を思い出させる)などそのバカらしさがひたすら楽しい。だが、この「派手な」シーンはこの映画の中で、ほぼこのオープニングシーンにしかない。その後ホワイトハウス内での擬似家族としての生活、それからミニバンに乗りメンフィスを目指す、その後の行程は「派手さ」とはまるで対極の、会話が中心の一見だらだらとしたものとなる。また、「派手な」場面はほぼオープニングにしかないと書いたが、同じような「派手な」場面として間間に挿入させるのは年間ゾンビ殺し大賞みたいなYouTuberの映像としてあって、それらはやはりこの作品の基調となっている一連の場面とは対比するものとしてあると思う。
 『ゾンビランド・ダブルタップ』をみている間、僕がずっと思っていたのは、局地戦を作るのがうまいということ。フットボールを例にとるならば、ワンサイドに人とボールを密集させた後に逆サイドへと展開するようなうまさ。将棋を例にとるならば、広い盤面の中である一部分だけに焦点を置きそこに勝機を見出すようなうまさ。『ゾンビランド・ダブルタップ』で登場人物たちはミニバンに押し込められ(ひとつの画面の中に人物が収まる)、「ゾンビ映画あるある」みたいな冗談を言い(『ドーン・オブ・ザ・デッド』が〜みたいなことを言う)、とにかく空間的にも話している内容もどんどんと狭い方狭い方へと指向していく。この映画は主人公たちの半径数メートルの世界で展開されているのだという印象を持つ。ゾンビがウロウロし、ハイウェイには廃棄された車が転がっているその外側の世界は、彼らがそこにいたときだけ姿を現し、彼らがそこにいなければほぼ描かれることもない。そもそもゾンビ映画自体が次第にゾンビに囲まれ狭いところへと押しやられるという特徴を持つものだから、それはとても正しい選択に思える。特に、もう銃弾の距離さえも遠いと言わんばかりの、最後の大量のゾンビとの戦いなんて最高の局地戦の見せ方だと思う。それはオープニングシーンの派手さとは対極的なものとしてあるはずだ。
 半径数メートルの世界を描くことでその外の世界は存在するが見ることはできない。しかし、見えないからないのではなく、見えないけどある。例えばこれまでのゾンビ映画があたかもゾンビランドの歴史を語るニュース映像としてあったかのような印象を持つ。画面としては出てこないけど言及が度々行われ、その作品の記憶が『ゾンビランド』と間違いなく繋がっている。『ゾンビランドダブルタップ』は『ゾンビランド』の記憶だけでできていない。そして、その中で大仰になることなくシンプルに語っていく。
 ルーベン・フライシャーの前作『ヴェノム』で(僕はこの作品をものすごく愛しているのだけど)、物語の軸がエディ=ヴェノムと地球外生命体シンビノートとの戦いではなく、また一対となったエディとヴェノムとの交流の物語でもなく、エディとその元恋人アンの方にこそ置かれ、アクション映画としてではなくラブコメディとしてつくられていたことは思い出されても良い。マーヴェル・シネマ・ユニバースの作品というのは、作品を横断して巨大化していく情報の交通整理の巧みさ(『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』など)や社会的な問題をうまく盛り込む作品(『ブラック・パンサー』、『キャプテン・マーヴェル』など)がある一方で、ルーベン・フライシャー作品では、巨大な物語空間として考案されたユニバースを単純化し、限定させた空間として展開することにあるのではないか。そのことで、キャラクターとしての登場人物ではなく、俳優としての登場人物の魅力がもう一度現れてくる。『ゾンビランド・ダブルタップ』で言えば、特にウディ・ハレルソンのエルヴィス・プレスリーの物真似は最高。「ハウンド・ドック」めちゃくちゃいい声が出てた。

全国ロードショー中


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