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January 19, 2020

『花と雨』土屋貴史
隈元博樹

[ cinema ]

 SEEDAによるアルバム「花と雨」をタイトルに据えた本作は、自身をめぐる過去の境遇や事実を原案にした映画ではあるものの、ひとえにラッパーとしての苦悩や葛藤を赤裸々に綴っているだけのものではない。たしかにそれらは同名の曲「花と雨」の中で刻まれるリリックしかり、早逝した姉との記憶やそこに生じる悔恨の念として受け止めることができるだろう。ただし、そうしたいかなる状況が待ち受けたとして、彼がけっして手放すことのなかったひとつの行為によって、この映画が放つ揺るぎない強度がじわじわと見えてくる。それは大麻を売り捌くハスリングを行うことでもなければ、その稼業を通して潤沢な資金を稼ぐことでもない。つまりドラッグ・ディーラーとして、ましてやラッパーとしての自身から俯瞰することで、頭に浮かんだ愚直なまでの言葉たちを軒並み書き連ねていく姿にこそ、この映画が持ち得る強度があるのではないかと思うのだ。
 同級生からの誹謗中傷に鋭い眼光を突き合わせ、時には言葉足らずの暴力さえも厭わない。吉田(笠松将)の顔面を伝う痛々しい傷たちは、彼が抱える苛立ちの代償そのものであり、使い古したラジカセや近所のレコードショップにアクセスしては、幼少時から慣れ親しんだ英語圏の音楽を聴き漁ることで自らの平静さを保っている。そんな吉田の拠り所は、いつも彼の動向を気にかける姉の麻里(大西礼芳)の存在だ。日本語はおろかロンドンで身に付けた英語を通して、肉親にさえ理解の及ばない現状や将来を打ち明ける場面からも、ふたりはどこか同志のような存在としてたがいに認識し合っていることが窺えるだろう。その後初めてのサイファーで「マザ、ファッ」としか言えなかった高校生の吉田は、3年後に一端のラッパーとして表舞台に立つようになるのだが、夢にまで見たヒップホップシーンとの邂逅と引き換えに、巷の顧客へ大麻を売り捌く有能なハスラーとしての日々が待ち受ける。マンションの一室で丁重に育て上げたハッパたちは、路上の片隅で手早く取引され、小さく丸められた紙幣へと瞬く間に姿を変えていく。そのことに快楽を覚えた吉田は、たとえ共同制作者に手渡されたトラックが自分にとってのクソな代物だとしても、公衆の面前で因縁の同級生にフリースタイルバトルで打ち負かされたとしても、その結果新たなアルバム制作の話が消え失せてしまったとしても、沸き立つ怒りの温床はハスリングや大麻それ自体を吸引することで見事に曖昧化される。こうしていつしか麻里のSOSは吉田の耳へと届かなくなり、倒錯した心地良さをハスリングそのものに見出してしまうこととなるのだ。
 しかし、そんな状況を経てもなお、吉田は書くことを手放さない。たしかに言葉を書き連ねる行為は、麻里の死をきっかけにその必然性をよりいっそう帯びていく。ただ思えば、それが彼女の死の以前か以後かに関わらず、言葉を書くことは彼の手によってさまざまな場所で繰り返し行われていたはずだ。ハッパの買い手を待つ駅前や車内でのひととき、あるいは逮捕後に入れられた拘置所といった複数の場所で、吉田が紙に向かって言葉を書く姿はそれらの風景ともれなく同化する。そこにヘッドフォンから流れてくる既存のトラックを受け止めつつ、自らが書いた言葉をリリックに紡ぎ起こすための試行錯誤が加わると、「うまくいくかはわからないけど、そこに紙とペンがありさえすれば俺の言葉は生まれる」。まるでそんなことを彼に言われているような気もしてくる。
 こうした吉田の一連の行為は、麻里が遺した就職先の履歴書を目にする場面において顕著となる。彼女が書いた履歴書に泪を浮かべたあと、今度はまっさらな履歴書に自らの生い立ちを書き始めるのだが、黙々と視覚化される彼の言葉は、いつのまにか印字された履歴書の記入欄を大きくはみ出していく。しかし、その光景こそ吉田がたどり着いたひとつの境地であり、それは自らの声(=リリック)となり、ある既存の枠に囚われることのない可能性をも十全に秘めているのではないだろうか。だからこそ彼は手を止めずに書き続け、新曲のレコーディング中であるにもかかわらず必要に応じては書き直すことも憚らない。そうやってボロボロながらも抽出された言葉たちがひとつの作品へと結実して初めて、吉田(=SEEDA)という人間の強度が「花と雨」を通して強く滲み出てくるのだ。だからそのリリックにはこう記されている。「綴り切れない思いを綴る 今日も」と。

ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国公開中