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January 19, 2020

『自画像:47KMのスフィンクス』『自画像:47KMの窓』ジャン・モンチー インタビュー

[ cinema ]

「物語を語るのは、人々だけではない」

山形国際ドキュメンタリー映画祭2019で出会った、『自画像:47KMのスフィンクス』『自画像:47kmの窓』というふたつの作品に心を奪われた。「47KM」と呼ばれる山間の小さな村で、年老いた人々が人生の出来事を語り、その合間に村人たちの生活が差し挟まれていく。ある青年は倒れかけた木に登り、ある少女は村とそこに住む老人たちの絵を描き、子供たちは笑い遊ぶ。同じ村で、一年の間隔をおいて撮られたこの連作は、同じ人々と同じ風景と同じ問題を共有しながらも、しかしなにかが決定的に違う視線をそれぞれに獲得している。
ジャン・モンチーはもう10年近くも、毎年冬にこの村を訪れ、「47KM」シリーズをつくりつづけている。残念ながら私が見ることができたのは最新作の二本だけだが、それでも『自画像:47KMのスフィンクス』から『自画像:47kmの窓』への間には明確な方法論の発展があり、さらには監督自身の新たな決意のようなものが画面に刻まれてもいる。そのことが深く胸を打つ。
第11回座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルでの 『自画像:47kmの窓』 上映に合わせ、山形で行ったジャン・モンチーへのインタビューを掲載したい。
なお山形の映画祭公式ガイドブック「スプートニク」に寄せた両作についての文章がこちらから読めるので、(事実的に間違っていた箇所も含めて)ご一読いただければ幸いだ。
(結城秀勇)

Self Portrait Window in 47 KM1.png
『自画像:47KMの窓』

ーーはじめに、監督が長らく撮影を続けている対象であるこの「47KM」村について、すこしお話を伺えますでしょうか。

ジャン・モンチー この村は私の父の出身地です。ただ、私の両親は早くに離婚しており、4歳まではこの村に行っておじいさんと遊んだ記憶もあるのですが、6歳以降私は海南島に行って暮らすようになり、それから11年間は連絡もまったくとっていない状態でした。大学に入ってからは、また村に行く機会もあったのですが、食事をしたらすぐに帰るという感じで、村人たちとはほとんど関係をもっていませんでした。
 2010年にウー・ウェンガン監督を中心として「メモリー・プロジェクト」(註:ウー・ウェンガンの活動拠点である草場地ワークステーション(CCD)で始められた、中国の農村に生きる一般の人びとが過去に体験した政治事件や自然災害についての記憶を記録するプロジェクト)が始まり、そこに関わるようになりました。それは自分の生い立ちに関係のある村でインタビューを行うというプロジェクトだったのですが、私が過去暮らしたことのある場所はいまではどこももう街になっていたりして、村という状態で残っている場所はこの村しかなかったのです。ですから、結果的にそこで撮影することにしたのです。

ーー「47KM」村という名称がとても印象的です。なぜ仮名のような名前でこの村は呼ばれるのでしょう?

ZM この村の名称は何度も変わっているんです。 例えば毛沢東の時代、人民公社の頃には○○大隊と呼ばれていて、その後改革開放の後にはまた村の名前が変わり、さらには隣り村との合併によって、いまは釣魚台村という名前で呼ばれています。そんな事情もあって、私は昔からこの村の名前が具体的になんなのかということを、あまりよく知らなかったんです。この村に行く時には、「どこどこから47km行ったところでバスを降りなさい。そこが村の入り口で、おじさんが迎えに来てくれるから」と言われていました。だから私は、この村の名前を知るより先に、「47KM」村と呼んでいたのです。それをシリーズの名前として使っています。

ーーあなたの映画のタイトルには、「47KM」という地名の他に「自画像」というシリーズタイトルが必ず付されていますね。

ZM 私が最初に作った作品から「自画像」というタイトルを使っています。そのときは私自身のストーリーという意味でつけたのでした。そして映像作品だけではなくて、舞台作品でもこの名前を使っています。
 「メモリー・プロジェクト」で老人たちの過去の記憶をインタビューするという企画に参加するようになると、私自身のストーリーよりも、他人の話を聞くことの方が中心になりました。ですが、インタビューが終わった後にプロジェクトの仲間たちと話し合う中で本当におもしろかったのは、老人たちから歴史を聞き出した話そのものよりも、聞き出す過程で起こることだったのです。たとえば彼らとの間で感じる埋められない距離、入り込めない状況そのもの、彼らの態度を前に自分がどう振る舞えばいいのか、そうした事柄により興味を持つようになったのです。であるならば、これもまた自分自身の問題であり、結局自画像であると思い、いまに至るまでずっとつけ続けている名前なんです。

ーーなるほど。ただ長期にわたる連作の中で、「自画像」という言葉が持つ意味合いはだいぶ変わってきたのではないでしょうか?『スフィンクス』はファンホンという少女が自分の自画像を描く話にも見えますし、『窓』ではファンホンの姿に子供だった頃のあなた自身の姿が重ねられているようにも思います。

ZM このシリーズの最初のうちは、私自身もかなり画面に映っていましたし、私の声で語ってもいました。そうした形式で私自身の話をするところから始まってはいるんですが、それから4、5年が経った頃、だんだんと村への理解が深まってくると同時に、それでもこの村をどう定義すればいいのかがわからないままでした。その中で、私自身がこの村にいるときの感覚をもっと引き出していけばいいんじゃないかと思ったのです。おっしゃったように、例えばファンホンという少女に自分を重ねたりということもそうかもしれません。また非常に長い期間にわたってこのプロジェクトを続けていることもあり、私自身を出すことは少なくなってはいますが、やはり一作一作が自画像であるという思いは変わりません。その年その年の村の姿を描き続けるのが、その年その年の自分であるという意味で自画像なのだと思っています。

ーー『スフィンクス』では村人たちの語りの合間で、監督自身が彼らに話しかける声はカットされています。それに対して『窓』では、あえて監督自身の姿や声を映画内に登場させていますね。

ZM もちろん撮影をしてる間は、たとえ自分の声を使わない作品でも、つねに私は対象の人と話はしていますが、たしかに『窓』では自分の声を切りませんでした。この作品に関しては、ファンホンと一緒に私がいるということ、そして一緒に話をしながら答えを探しているということが大事だったのです。ふたりで対話をし、ともに考えていく過程を描きたかったのです。それがあえて声を切らなかった理由です。

ーー『窓』で心を打たれたのは、自分の半生を語るおじいさんが、はじめにあなたのために椅子や火鉢を勧めてくれる場面です。直接的に言及はされなくても、あなたと村人が関係性を築く間に流れた時間のことを考えてしまいます。

ZM このシリーズを始めた頃といまとでは非常に大きな変化があります。最初の頃は、私と村人との会話を多く入れていました。ただその後、5、6本とつくっていくにつれ、私の声を入れるのをやめました。そしてこの『窓』から再びまた自分の声を入れています。どうしても自分の声を入れたいと思ったわけではありません。ただ、どこかで最初の頃に村を訪れていた感覚に戻ることを考えていたのです。このシリーズがどう始まり、どうやって彼らとの関係がつくられてきたのかという過程を作品の中に込めたかったのです。

ーー『窓』のおじいさんも、『スフィンクス』で亡くなった息子さんの話をするお母さんも、彼らの映像と物語を語る声は、基本的には同期していないですよね?『窓』では黙って座るおじいさんの顔に、他の時間他の場所で録音された声が重なり、『スフィンクス』ではほとんど語っているお母さんの顔もよく見えないような遠い距離からの撮影がなされている。

ZM 同じような質問を以前にも受けたことがあります。『スフィンクス』ではなぜあのお母さんの顔をもっと見せないのかと。このシリーズを始めた当初は、とにかくインタビューをして人々から話を聞くことばかりを考えていました。ですが、この村で過ごす時間がだんだんと長くなり、人々の周りにある風景なども撮り続けていくうちに、気づいたことがあるのです。私にいろいろな事を語ってくれるのは、人だけではないと。例えば建物や木々も、私にすごくいろいろな事を語ってくれる。これまで村が隠していた物語を川や木が語ってくれている、そういう気がしたんです。
 『スフィンクス』のお母さんが語る話は、実は彼女ひとりだけの体験ではないと思うんです。この村には彼女と同じように子どもを失った人達がいる。子供が死んだという意味だけではなく、たとえば村を出て行ったきり戻らない子供を持つ母親もたくさんいます。ある意味で彼女たちにとっては子供を失ってしまったようなものです。彼女の声で語られる話は彼女だけのものではなく、この土地、ここにいるお母さんたちの話でもある。それが彼女の顔を大きく見せる代わりに、あの風景の中で座って話してもらった理由のひとつだと思います。

ーー話を語ってくれるのは人々だけではない、とはあなたの作品の核心をついた言葉だと思います。『スフィンクス』は、まさに建物に書かれたいまでは擦れて見えなくなってしまった「○○主義だけが中国を救う」という標語を、まるであなたがあの村から問いかけられた謎であるかのように受け止めることが出発点ですよね。
 そして翌年の『窓』で、今度はファンホンとともに再びあの標語の元に立ち返ります。なぜ『窓』もまたあの建物から始めようと思ったのでしょう?

ZM 『スフィンクス』を撮った後で私はとても悲観的な気持ちになりました。たしかに作品の中にはかわいい子供たちが出てきたり、希望を感じる場面もあるんですが、全体的にとてもつらく落ち込んだ気分になってしまったんです。「○○主義」の「○○」にいったいなにをあてはめれば、年老いた人たちの住むこの村を救うことができるのか。翌年に村に帰っても、その答えを探すのは無理なんじゃないかとまで思っていました。ですが、実際に村に戻ってファンホンや子供たちと話をしていたときに、ファンホンが「私は窓になった夢を見た」と言っていたのです。その話がすごく私を動かしました。とても想像力をかき立てられる夢であり、そこから彼女にいろいろな質問を投げかけることで映画が撮れるんじゃないかと思いついたのが『窓』です。
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『自画像:47KMのスフィンクス』

ーー『スフィンクス』でもファンホンと友達が、「私は夢の中で○○になった」と次々に言い合う場面がありますね。あれは普段から彼女たちがしている遊びのようなものなのでしょうか?

ZM あれは一種のワークショップのようなもので、村の子供たちと遊んでいるときに、ファンホンが「私は悪夢を見た」と話していて、それを聞いた別の子が「私は不思議な夢を見た」と返したので、じゃあそういう会話でちょっと遊んでみたらと、ゲームのような感じでやってみてもらったんです。もしかしたら彼女たちはすごく適当なことを言ったりしてるのかもしれないですけれども、でもとてもおもしろかったので、ああいう場面をつくりました。

ーー「私は窓になった夢を見た」という言葉は『窓』の中でとても印象的に用いられています。あの場面でダンスをしているのは監督ですか......?

ZM いえ、踊っているのはファンホンです。

ーーええ!じゃあ「私は窓になった夢を見た」という声も彼女のものですか?

ZM そうですよ。

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『自画像:47KMの窓』

ーーそうなんですか!でもあの言葉はまるで、監督自身のこの村への気持ちがすべてつまった言葉のように思えて、感動します。
 ファンホンの身のこなしは本当にすばらしいですね。監督はダンサーでもあるわけですが、ファンホンや村の子供たちに踊りを教えるワークショップをしていたりするのですか?

ZM 子供だけでなく、大人も一緒に体を動かすワークショップをしています。はじめは子供たちに教えていたんですけど、10年くらいかけておじさんおばさんたちも一緒に参加してくれるようになっています(笑)。

ーー監督は毎年冬になるとこの村へ戻り、そうしたワークショップを行ったりしているんですね。また村に映画の上映ができる施設をつくったという話も聞いたのですが、監督にとって、この村でワークショップや文化的な活動を行うことと、映画の撮影を行うことは別々のことなんでしょうか。それとも同じことだと思いますか。

ZM 一緒のことだと思います。先ほどお話ししたように、元々は撮影をするために私はこの村を必要としていたんですが、いまではとてもそれだけの存在ではありえません。撮影や自分の創作活動以外のことでも、彼らとお互いに理解したり影響を与えあったりすることがなにかできないかと、この村を撮影に訪れた最初の年から、ずっと考えてきました。例えば記念碑を建てるとか、図書室を作ってみんなに本を提供するとか、子供たちに撮影を教えたりとか。そうしたことを映画制作と並行して行っていますし、またそれを撮影するのも私の作品ですので、同じひとつのことですね。

ーーこの村を離れて別の場所で映画を撮ろうとは考えたりしますか?たとえば劇映画を撮影したいというような気持ちはありますか?

ZM フィクション/ノンフィクションということに関しては、私は自分の作品の中でフィクション的なこともやっていると思っています。ドキュメンタリーよりもフィクションをやった方が自分の思い描くことができる、納得がいくものがつくれると感じる人もいるのかもしれないですが、私はいまどっちもやれてると思っているので、特にあえて劇映画をつくろうとかは考えませんね。

ーー「47KM」シリーズは『窓』が8作目とのことですが、何作目までつくるのが目標でしょうか(笑)。

ZM ある時期はこれがただの繰り返しにすぎないんじゃないかと悩んだこともありました。でもそういった時期を過ぎると、つねに新たな発見や驚きを、彼らとの対話の中に見つけるようになりました。いまでは、いつまでも続けられるくらいおもしろいことだと感じています。だからできる限りつづけていきたいですね。

ーー『スフィンクス』『窓』という同じ場所で同じ人たちを撮ったものでありながら、ここまで新たな発見を伴う作品がつくれるのかと本当に感動しました。ですから、もっとつくり続けてほしいです。
もし機会があれば、「47KM」シリーズ全作一挙上映とかしてみたいですね!

(取材、構成:結城秀勇)


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章梦奇(ジャン・モンチー)
1987年生まれ。中央民族大学のダンスアカデミーを卒業後、2009年より草場地ワークステーションに参加。「自画像シリーズ」の作品は、ステージでの舞踊とドキュメンタリーを融合した方法で作られている。ドキュメンタリー作品に『三人の女性の自画像』(2010)、 『Self-Portrait: At 47KM』(2011)『Self-Portrait: Dancing at 47KM』(2012)『Self-Portrait: Dreaming at 47KM』(2013)『Self-Portrait: Building a Bridge at 47KM』(2014)『Self-Portrait: Dying at 47KM』(2015)、『自画像:47KMに生まれて』(2016)、『自画像:47KMのスフィンクス』(2017)、『自画像:47KMの窓』(2019)。


第11回 座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル 2月10日(月)16:00より<諏訪敦彦セレクション>にて『自画像:47KMの窓』上映、上映後に諏訪敦彦によるトークイベントあり

YIDFF: 2019: インターナショナル・コンペティション『自画像:47KMの窓』

YIDFF: 2019: アジア千波万波『自画像:47KMのスフィンクス』

「スプートニク」2019年版DLはこちらから