nobody/Journal/'01_08

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~AUGUST  08/30__up dated

-『カラビニエ』ジャン=リュック・ゴダール
-『焼け石に水』フランソワ・オゾン
-『エスター・カーン』アルノー・デプレシャン



8月30日(木)

『カラビニエ』ジャン=リュック・ゴダール

 冒頭、二人のカラビニエを乗せたジープは隻眼であった。右目のライトは閉じられ、左目だけが強い光を放っていた。昼間であるにもかかわらず、である。
 ユリシーズは、戦場から度々家族に手紙を送っていた。そのことごとくが、戦争がいかに陰惨で、残酷で、悲劇的なものであるかを伝えるためのものであった。しかし、と、このフィルムを観る誰もが首を傾げるだろう。ユリシーズの、ミケランジェロの、兵士たちの、戦地の住人達の身体が繰り広げる所作の全てが、余りにも喜劇的なのである。まるで『カルメンという名の女』の銀行襲撃のシーンのように、そこには乾いた笑いだけが充満していた。度々挿入される記録フィルムと思しき映像に映る無数の屍は、他の映像から明らかに違和を感覚させる場所に位 置していた。エクリチュール(手紙の内容は全て黒塗りの画面に字幕として表れる)と映像の乖離。
  ユリシーズ達が捕虜を射殺する幾つかのシーン。そこでは、銃を構え、劇鉄を引き上げ、引き金に指をかける兵士達と、捕虜の姿が繰り返し映され、最後に引き金が引かれる瞬間、捕虜達はフレームの外側に置き去りになる。再びカメラがパンし、あるいは切り返され、捕虜達が我々の視界に収まるとき、彼らは既に如何なる感傷をも拒絶する単なる屍としてそこにある。アンドレ・バザンは、かつて以下のように述べている。「人は二度は死なない。この点で写 真は映画の力を持っておらず、瀕死の人や死人を見せられるだけで、瀕死から死に至る推移をとらえることは全くできないのだ。」ゴダール的アンチ・バザン?フレームの外部で起きているであろうと我々が予想することの結果 と、寸分違わぬ形で提示される捕虜達の骸。
  戦場から引き揚げてきたミケランジェロは隻眼であった。本当に失明したかどうかはどちらでも良いだろう。確かに彼の欠けたサングラスの下からは右目だけが覗いていた。冒頭のジープとこの時のミケランジェロは、相補的な関係にあった。両目を開く、両目を閉じる、右目でウィンク、左目でウィンク。後ろの二つは、まあいい。我々は『カラビニエ』の前で目を開くのか、閉じるのか。解答の用意された問いの前に我々はいる。見えるものに目を凝らそう。見えないものはスクリーンの裏側ではなく、その隣にある。フレームの外部を欲望することで、我々はスクリーンに映る女の裸体を覗こうとしたユリシーズのように喜劇的な悲劇を生きることができるのだ。

(中川正幸)

 



8月21日(火)

『焼け石に水』フランソワ・オゾン

 ファスビンダーの脚本を使おうとも、オゾンの最新作は相変わらず、彼お得意の密 閉空間で進行していく。舞台となるのはアパートの中だけ。部屋の外側にあるはずの 街の風景は「絵」で見せられてしまうような現実感ゼロの世界。だが、部屋の内側し か描かれないからといって、息がつまるような感覚はない。ファスビンダーならそん な息がつまるような圧迫感があったのではないかと想像してしまうのだが、オゾンは 全く圧迫感も開放感もなく演出していく。四人の登場人物は、部屋の外側に世界が存 在しているのかなど、全く興味がないようだ。そこは外とは切り離された孤島である。 切り離されたとは、もちろん空間的であると同時に、時間的にもそうなのだ。そこで は時間は流れるものではなく、現在と未来と過去が同時的にあるような世界なのだ。
 青年フランツが中年男レオポルドに愛されなくなってしまうことを恐れた時、アン ナ・トムソン扮する中年女性が部屋に訪れる。彼女と青年とは、二人とも中年男を愛 していて、離れることが決してできないのだ、と話し合い、お互いが似ていることを 確かめる。彼女は青年の未来の姿なのであり、彼女にとってみれば青年は過去なので ある。自らの未来の姿を知った後、青年は自らの命を断つ。彼は何に絶望したのか、 彼の未来にだろうか。だとするなら、真に絶望的なのはアンナ・トムソンなのである。 彼女は自らの過去に自らの現在を、ノン、と言われてしまったも同然だからである。 救いようがないのは、青年の死を悼み泣き崩れる彼女の顔の方である。本来ならば彼 女はもうとっくの昔に死んでしまっているはずの存在であるということを青年の死は 彼女に宣告したのだ。それなのに、死にきれず、情けなくもおめおめと生き残ってし まっている。自らの命に、否定を突き付けた青年は強者であり、ただその側に座り込 むしかない彼女は最も弱い者である。しかし、そんな彼女の表情は、そこにその情け なさを晒し続ける、という一点においてのみ強靱であり、それを見る者を驚かせる。 だから『焼け石に水』にはもっと彼女のその表情へと集約していって欲しかったのだ が、どうもオゾンはまだ模索中であるのか、フイルムの方向性はやや散漫である。
  次 回作は、はやくも最大の傑作という噂も耳にするので、楽しみに待つことにしよう。

(新垣一平)


8月6日(月)

『エスター・カーン』アルノー・デプレシャン

 デプレシャンの長篇第3作目は19世紀末のロンドンが舞台である。
薄汚れたユダヤ 人街の工場が連なり、所狭しと家々が並び立つ無機的な風景が矢継ぎ早にモンタージュ される冒頭の数ショットに、ハワード・ショアの音楽が重なるだけで、もう何やらこ のフィルムの中で迷子になってしまった気になってしまった。映画の導入部としては、 こういったショットはよくあることで、それは登場人物が住む世界の状況を見せてく れるためだったりするはずなのだが、『エスター・カーン』の一連のショットにそん な親切心はなく、風景だけが目の前に突如として現れ、「ここは一体何処なのか?」 と問われている気になってしまう。もちろん初めて目にするそれらの風景を前に「こ こは一体何処なのか?」と言われたってわかるわけがない。
 『エスター・カーン』のカメラは終始エスターを追い続け、彼女の身振りを近い距 離で捉え続ける。そして私たちは彼女の身振りを通じてしか、彼女と彼女の周りとの 関係性を知ることができないのである。だが私たちは決してエスターの周りの世界の 様相を俯瞰的に捉えることができるわけではない。私たちは常に迷子の状態のまま、 エスターの身振りをひとつひとつ目撃し彼女の周りの世界の断片をまさぐるのである。 しかし迷子のまま世界の断片をまさぐるのは、エスターにとっても同じことである。
 否応無しに『オープニング・ナイト』を想起させる、怒濤の舞台初日のシーン。彼 女は舞台に上がることを半狂乱に嫌がり、自分の顔を殴り、ガラスをも噛み砕くのだ が、それでも結局舞台の上に立つことになる。舞台に立って喋ることなどできない。 今からでも中止してくれ。芝居が始まってもそんなことを言い続けながら、エスター はほとんどわけもわからず、舞台へと向かい、衣装を着替えさせられ、台詞を喋る。 彼女は自分が今何処にいるのか、何をしているのか、確かめる暇もないまま、ひとつ ひとつの身振り重ねていく。彼女が自分の顔を殴ったり、ガラスを噛み砕いたりした ことは一体なんだったのか、そんなことも考える暇もなく、新たな身振りをひとつひ とつ行うのである。
 映画は結局そんな身振りのひとつひとつを捉えることしかできないし、身振りが残 したものを後から確かめることしかできない。エスターは、演劇のオーディションを 受け、ネイサンに演技を学び、処女を喪失し、前髪を切り、自分の顔を殴り、ガラス を噛み砕き、そして舞台に立ったのだ。フィルムを見終わってそれらの身振りを反芻 し、彼女がその身振りのひとつひとつを積み重ねたこの世界は、彼女にとって紛れも ない現実だったのだ、と実感する。それはとてつもなく爽快な驚きであるに違いない のだが、そのことを十分に確認するには、私はまだ数日前に見たこの一本のフィルム で迷子になっているようだ。

(新垣一平)