冨永昌敬 インタヴュー 後編
聞き手・構成:大寺眞輔
 
 
──『VICUNAS』にしても、和尚さんとか出てくる場面だと無国籍風にはなるんだけど、その場所固有の魅力みたいなものは、しばしば画面に現れる。あと、工事現場はよく出てくるね。
 
冨永 邪魔の入らないところで撮影しようと思ったら郊外で、日曜日でってなるじゃないですか。そうすると、人通りのない何かつくっているところでってことで、結局、工事現場になっちゃうんです。『テトラポッド・レポート』冒頭のテトラポッドが並んでいるカットとか、『VICUNAS』の最初のミラーの場面、あれ実は同じ場所なんですよ。『ドルメン』もあそこで撮ってる。
 
──そうだろうと思ってました(笑)。『ドルメン』とかだと、場所に意味を持たせようとする感じが強くありますよね。ある意味では、『ドルメン』がイメージ的には一番映画っぽいとも言えるかもしれない。
 
冨永 めちゃくちゃ下手くそですからね。どこ見ても下手くそで。
 
──でも、撮影でアングルに凝ったり、照明を派手に当てているのはむしろ『ドルメン』だったりするんですよね。
 
冨永 あれは照明のためのシーンみたいなものですから。基本的に、照明はどの作品でもたいてるんですよ。『亀虫』では殆どやってないんですけど、『VICUNAS』のときは、ちゃんとやったのに、DV使うの初めてで、モニターがついてるじゃないですか、それを参考にしすぎちゃって、全体的に暗くなってしまったので、仕上げのときにノンリニアで明るくして、結局ライティングが無駄になっちゃたんですけど。
 
──『ドルメン』とかだと、あれ?映画っぽい?ATG?とか(笑)。
 
冨永 オープニング見た人が「昔の若松プロみたいだね」って言ってましたけど(笑)。しかもエリック・ドルフィーとかかけちゃってますし(笑)。
 
──やってること自体は、あの頃から基本的に変わってないと思うんだけど、でも、『ドルメン』の隣の部屋を盗聴しているシーンとか、ああいう「映画的」なシチュエーションは、むしろ避けるようになってきたようにも見える。
 
冨永 もしかしたら、意識せずにやっちゃってるかもしれませんけど。あと、『ドルメン』の頃は、構図のことばっかり考えていて、結果的に考えていたわりには半端な構図しかつくれなくて、そればっかり考えるとうまくつながらなくなっちゃうじゃないですか。だからそれを反省して、最近はあんまり構図のことは言わなくなりました。
 
──最後の方で、コウイチが盲人の杖を取って、店長かなんかに投げて殺すっていうよくわからないシーンがありましたけど(笑)、あれはどういう発想?
 
冨永 あれは元ネタはないんですけど……あれ、何でやったんだっけな?
 
──まあ、シネフィル的には、ブレッソンだのジャン・コクトーだの、いろんな名前を出して語られる要素が多分にある映画だと思います。
 
冨永 そうなんですよ。見ていないのに、引用したかのような形になっているというのを最近よく人から言われるんですけど、それは自分でも不思議で。
 
──映画的な枠取り方の上手さみたいなものがあると思いますね。だから、自分では意識していなくても、見る方が勝手にそちらに引きつける。『ドルメン』なんかは、それがすごくはまる作品だと思う。『VICUNAS』とか『テトラポッド・レポート』になると、たぶん意識的に別の要素を強めてきているように感じますが。ただし、『亀虫』なんかにしても、ベランダから外見て携帯電話で話すシーンなんかの構図は良いよね。あれはカメラ位置とか、その場で決めてるんですか?
 
冨永 『ドルメン』とか『VICUNAS』の頃は、絵コンテを描かなきゃいけないものだと思っていて、絵が下手だからすごく苦痛なんですよ。だからかもしれないんですけど、『VICUNAS』はカット数が多くなって。そのあと『亀虫の兄弟』を撮ったんですけど、台本すらないから絵コンテの描きようがなくて、そのままやったら無くても撮れるなって体験として気付いた感じですね。だからそれ以降は描いてません。
 
──『VICUNAS』に影絵のシーンがあったと思うけど、割と画として映画的に撮りやすいよなっていう場面は多かったですね。あれは、もっとあざとくやるとベルトルッチみたいな感じになっちゃうかもしれないけど、映画的な雰囲気を感じさせる記号は、結構色々あると思う。
 
冨永 ジャンルで言うと、中学のころギャング映画から映画を見るようになったんですよ。それと同時にサスペンス映画の雰囲気がすごく好きで、だから『亀虫の兄弟』とかだと、あれはサスペンスのつもりなんですよね。
 
──あと、たとえば『VICUNAS』では、タコ島だの、カムチャッカだの、場所の話がよく出てくるよね。
 
冨永 『亀虫の嫁』でも、バナナがどういう経路を辿ってきたかっていう話で、「パナマ運河をくぐり抜け、南洋航路でマラッカ経由」っていう……本当は、南洋航路でマラッカは通らないんだけど、でも、マラッカって言わせたいなって思って(笑)。役者も「マラッカっていいねー」って喜んで、「マラッカ経由」って嬉しそうに言うから。しかも「南シナ海からオホーツク」って言ってるんですけど、その間に東シナ海と日本海があるんですよ。でも飛ばしちゃって、ただ言ったら楽しいという、それだけで(笑)。
 
──音として楽しい台詞って多いよね。
 
冨永 音として楽しかったのは、コントラゲリラ(笑)。
 
──タコ島語の発想は?
 
冨永 あれは、訛っている人がいた時に、その人の訛りはどこから来たかって考えてたんです。どこそこ出身の人が、ある場所に住んで、こういう職業に就いたらどうなるかって設定を色々と。それで、たとえば中国系広島ヤクザだったら、ああいうふうな感じかなあって(笑)。本当は広島弁でもないし中国語でもないし。台本では一応漢字もちゃんと使って、読むと意味はわかるはずなんです。勝手に文法もちょこちょこつくったんで、読めば読めるはずなんですよ。役者にも、一字一句、「こうしてください」って僕がいちいちイントネーションを指示して。あれが一番テイクを重ねましたね。
 
──広島弁が基本なの?
 
冨永 いや、そこまで厳密じゃないです、僕が考える広島弁だから。広島なんて二回ぐらいしか行ったことないからよくわからないし、ヤクザ映画もそんなに見てないし、中国人が喋ってるのも普段聞いていないから(笑)。僕、出身が愛媛なんで広島は近いんですけど、行かないんですよね。
 
──その辺りで一番『VICUNAS』のルールが見えるよね。ああいう風に文法をつくって、本質的には他人からその根拠は見えないんだけど、そのイントネーションまでキチンと指示して、そのなかで言葉として面白くできあがったものが次の話の展開につながっていくという。「ギャングに似てる」とか「昔の役者に似てる」とか(笑)。
 
冨永 ギャングとかメキシコって訛る筈がないのに、それすら訛る。ギャングのこと「ギャグン」って言ってるんですよ。
 
──そうなんだ。それは、わからなかった(笑)。役者が自由に喋っても、ああは面白くならないと思うけど。
 
冨永 そうですね。だからちょっと手を抜いて失敗したなって思ったのは、『VICUNAS』の後半で何人だかわからない社長と会話するシーンがあるんですけど、あれも架空の外国語として一応ローマ字で書いてたんですね。そうしたら、「カタカナにしてくれよ。読めないよ」って言われて、カタカナにしてもよかったんですけど面倒くさかったから、「適当でいいです。その代わりこのカットのときは嬉しそうな顔をして『モキューッ』って言ってください」って。「モキューッ」は譲れなかったんですね(笑)。
 
──アラン・ギロディっていうフランスの若い映画監督なんかにも、その手の言葉萌えの要素があって、映画なんか全然見てないって人なんだけど、シネフィルが見ると「これ上手いね」っていう風景のつかみ方の見事さがあって、あと言葉の使い方が音としてとても上手い。
 
冨永 役者に「そういうのやめて。普通そういう言い方しないじゃん」って言われると、「これは普段じゃないからいいんだ」って答えるようにしてますね。「そんなの喋るの大変だ」とか言われても困るんですけど。
 
──『テトラポッド・レポート』を長編にしようと思ってるって話を、以前メールで聞いたけど、どういう感じで長編にしようと思っているの?
 
冨永 遡れば、結構面倒くさい話になるんですけど、ちょうどたまたま『亀虫』をやることになったから、いいタイミングだなって思ったんですよ。『亀虫』だったら一個一個は10分足らずだったり、10数分だったりするじゃないですか。予定ではとりあえず5話までやって1時間ぐらいにするつもりで、それを一区切りとしてやろうと思ってるんですけど、仮に7話とか8話までやって、くっつければ長編と同じ長さになるじゃないですか。だから、短編映画っていうのを順番にくっつけていったら長編映画になるっていうのが、ひとつ発想としてある訳です。『テトラポッド・レポート』の場合は、少し発想が別で、いま15分ですけど、あの15分のなかで拡げたいだけ拡げていって、くっつけるんじゃなくて、そのもの自体を前にも横にも伸ばしていって、最終的に6、70分ぐらいにしたいなと。拡げていくときに、いま15分あるうちの大半が消えちゃってもいいと思ってるんですよ。だから、短いものがどうすれば長くなるかってことでの実験のつもりなんです。大事なのは、短いものを上映して、その次にこれをこう長くしましたっていうのをすぐに上映して、あれをこう長くしたのねっていうのを気付いて欲しい。
 
──気付かないと思うよ(笑)。
 
冨永 頑張りますよ(笑)。
 
──『亀虫』のシリーズをつなげていって長くなるというのは、むしろいままでのトミナガ作品のつくり方そのままだよね。ひとつの話があって、設定があって、そこから出てきたものをつなげて、そこから転がして次の話に持っていくという。たぶんそれは短編としては、ある種『VICUNAS』で完成されたんじゃないかとも思うんだけど、そこから先をやろうって気持ちなのかな。
 
冨永 長編をやろうっていうのは、長いものを1回撮ってみたいという別の欲望としてあるんですけど、例えば『VICUNAS』なんかだと、長い映画のダイジェスト版を見るような感じで端折った映画にしたかったんですよ。だから台本は36分の量じゃなくて、たぶん普通に撮ったら60分になるぐらいあるんです。それを考えると、わざわざ『テトラポッド・レポート』という短いものをつくらずに、『VICUNAS』を太らせたほうが手っ取り早いんですけど、もうあの作品は続けたくなかったので、わざわざ新しい枠を『テトラポッド・レポート』としてつくって、後々拡げることを前提にして撮りたかったんです。
 
──『VICUNAS』って短編として完成してるよね。ゴダールっぽい部分もあるし、ギャングものっぽい記号も見えるし、いろんな要素があって、でも実際見ているうちは非常に細かい横滑りとか間合いの上手さとかがあって面白いから、全体として非常にテンションの高い独創的な作品になっていると思う。ただ、今度長編を撮るときに、長編というのは別物じゃないですか。時間の扱い方にしたって、物語とのつきあい方にしたって。まあ、別に既存の枠に押し込めることは全くないんだけど、それにしても、どう撮るんだろうと思って。で、『VICUNAS』は地理、場所が言葉でいろいろ出てくるけれど、『テトラポッド・レポート』は歴史とか時間の要素が出てくるじゃない。あれは意識的だよね?
 
冨永 母親が何十年前に私はどうのこうのと言うのは、あれはわざとなんですけど、上映会のスタッフの女が68年だとか小作人だとか色々と言っているのは、実は何でもよかったんですよ(笑)。勝手に感動している人がどういうことを言うかってシチュエーションで、68年と言うのは、記号としていろいろな受け取り方ができるじゃないですか。一番勝手に想像しやすい言葉だからいいなと思って使ったんですけど、確かに時間の要素もそこで浮かび上がってきてますね。
 
──他の作品では、あんまり時間って出てこなかったよね。『テトラポッド・レポート』は、時間の問題が割と明示的になってる気がする。
 
冨永 さっき話に出たベルトルッチですけど、僕は『暗殺の森』がすごく好きで、あの構成を借りたつもりなんです。車の撮り方もあれの真似なんですけど。で、それと同時に、『暗殺の森』って政治の映画だって言われてますけど、スラップスティックじゃないですか。ああいう感じになれば良いなって思って。僕は政治のことは全然わからないし、68年のことも生まれる前でよくわからないから、言葉のイメージとして安直にしか知らなかったんです。真剣に勉強すればもっと変わったのかもしれないですけど、安直なままでいいやと。しかもそういう時に、あの上映会スタッフの女性が着ていたジャケットを裏返しにして手に持ってもらったら、その裏地がたまたま赤だったんですよ(笑)。だから、ジャンル的な記号は無意識なんですけど、それより言葉から連想する勝手なイメージ、しかもすごく安直なイメージっていうのを、どうにか映画で使えないかなというのは考えていますね。それで、出てくる人も安直で、撮ってる僕も安直で。でも、安直な自分が安直にやっているだってことは忘れてないんですけど。
 
──『テトラポッド・レポート』長編化のプランに関しては、実はやや疑問も感じないではないんだけど(笑)、それはまあ、進行中の作業である訳だし、今後の課題ということで。いずれにしましても、冨永昌敬という真に新しい才能の登場に驚きつつ、今後の展開にもさらに期待するということで、取り敢えず今日のまとめにしておこうと思います。ところで、こうやって色々と話していて改めて思ったけど、冨永君は、青山真治とは全く違ったタイプの作家だよね。どっちが良いという訳ではないけど、違う。その違う才能を発見するんだから、青山真治という人は本当にすごいとも思うけど。
 
冨永 はい。ありがたいものです(笑)。