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結城秀勇
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2009年10月10日

初日
結城秀勇

今回の山形は三日目より参加。前日夕方に到着するも、車での長旅ということもあり、大事をとって休息(実家にて芋煮を食う)。
さて記念すべき今年一本目はインターナショナルコンペシションのアヴィ・モグラビ『Z32』。先日東京日仏学院にて開催されていた特集で見た数本の作品からもすでにうかがい知れていたことではあるが、この作品でもシリアスなテーマにそこはかとないユーモアが漂う。かつてイスラエルの特殊戦闘部隊に所属していた男が、顔を公開しないという条件で自分の過去についてカメラの前で語ることを了承する。ひとつの体験、それと切り離せないはずの個人の顔を見せてはいけないというジレンマ。それをモグラビは情報のシャットダウンというかたちではなく、逆に情報を過剰に上乗せすることで作品化していく。ぼかしによって覆われた顔で登場する元兵士とその彼女。作品が進むにつれ、目と口の周りだけが見えるエフェクト、『オペラ座の怪人』めいた無表情なマスクのグラフィック、そして一見CGだとは気づかないような精巧な「第三者の顔」と、彼らがかぶるマスクは形を変えていく。この映画の(不可知であるはずの)主人公の顔はいくつかの変遷を経て提示され続ける。過去の体験を語る彼と、ときとしてその体験への詰問であり批判でもあるような受け答えをする彼の恋人(上映後のQ&Aで監督自身が語った言葉を借りれば、彼女はまるでこの一本のドキュメンタリー映画の監督であるかのように振舞う)。そしてそうした素材をフィクションとして距離化するような、狂言回しの役として監督はその顔を晒す。顔一面を覆ったぼかしが、目と口を見せるようになるという「顔」の変容が作品が始まってすぐ起こるが、そうやって顔を晒した兵士の恋人の顔がとても人間らしく美しく見えて、驚いた。
続いてもインターナショナルコンペシション、『アポロノフカ桟橋』(アンドレイ・シュバルツ)を見る。ウクライナとロシアの政治的軍事的な思惑の入り混じるアポロノフカ桟橋に集う人々の、ひと夏を描く。不良めいた振舞いをする中学生くらいの子供たち、歴史の変遷を経てなお夏の朝の水浴びを欠かさず続けている老人たち、違法である海の底に沈んだ鉄くず拾いを生業とする男たち。とりわけ、特に将来に対して過剰な期待を抱くでもなく、かといって幻滅して悲観的になるわけでもなく、ありふれた物語をありふれたものとしてただ生きる「普通の」女の子たちの姿は、時として魅力的なポートレートを構成したりするのだが、いかんせん、その一枚一枚のポートレートの間におかれた関係性が一本の作品に力を与えているとは言い難い。「あるひと夏」を描いたはずのこの映画が、その夏の一回性に非常に無頓着であるように思われて、どこかノスタルジーに近いものを感じた。
場所を移動して、鶴岡市出身である本田猪四郎特集の中のプログラム、ロバート・フラハティ『アラン』と本田『伊勢志摩』。海と岩地の境界をめぐるこのふたつの作品にはたしかにいくつかの形態的な類似点があった。『アラン』の少年がカニを取る小さな入り江の緩やかな波紋から、絶壁の先端まで達しようかという巨大な波、クロースアップと遠景の中でさまざまなものが相似的な形態を反復しながらスケールを変えていくさまが見て取れた。この映画を見るのは二回目だったが、やっぱり鮫と波がでかかった。
ドゥボールの映画までの間に、山形駅前「花膳」にて山形の味覚を満喫。映画祭の季節は予約でいっぱいなので入れてよかった。もって菊、三元豚の角煮、白子のてんぷら、などをアテに出羽桜微発泡うすにごり。
第一日目最後の作品は、ギィ・ドゥボール『サドのための絶叫』と『かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について』。前者の作品の内容についてはここでは詳しく触れるべきではないだろう。むしろ漠然ながらも予備知識をもってこの映画を見てしまったことが若干もったいない思いもした。後者の中に出てくる言葉に正確ではないがこんなのがあった。限られた空間による遊び方の制限は、時代による制限よりも過激だと。まったく何も知らないままに、この空間によって制限された遊び方のラディカルさにもっと身を晒してみたら、もっとおもしろかったかもしれない。

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写真:茂木恵介

投稿者 nobodymag : 2009年10月10日 01:24