10/10 しかし、あらゆるものが死へと向かう運命のうちにある

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  • 結城秀勇

暑い。完全に見誤った。

すごい混むんじゃないかと、『東洋のイメージーー野蛮なるツーリズム』イェレヴァント・ジャニキアン、アンジェラ・リッチ・ルッキと『ニースーージャン・ヴィゴについて』マノエル・ド・オリヴェイラの二本立ての会場に一時間前に行ってみるが、誰もいない。待つ間に初日の日記を仕上げる。
『東洋のイメージ』は1920年代末に撮られたインド旅行のサイレントフィルムに、アンリ・ミショーとミルチャ・エリアーデのテクストを元にした歌が重ねられるというもの。引き延ばされたスピードで映像は再生され、象に揺られる人々の映像に、太鼓のドゥーンドゥーンというリズミカルなフレーズと衣擦れのような鈴の音が重ねられたりする。しかし、西洋人たちがこぞって被っている、あの探検隊が被るような帽子の名前はなんていうんだったか。「世界不思議発見」のヒトシくん人形みたいなやつ。とか考えてしまうくらいにのんびり見る。「野蛮さ」はたしかにどこかには存在するのだろうけど、本当に彼らの身振りそのものにあるんだろうか。
『ニースーージャン・ヴィゴについて』。冒頭「ジャン・ヴィゴの方法論」と題して、ニースのすべてはギャンブルで出来ている、ニースにいるのは外国人だ、などという人を喰ったようなテーゼが提示される。そして「しかし、あらゆるものが死へと向かう運命のうちにある」。
すべての人々が通り過ぎていく街であるニースで、しかしカメラは至極当然のことのようにくつろいでそこにいて、室内から逆光の窓際を映すとき、あるいは街角に時間を越えて立つ彫像を映し出すとき、いかにもオリヴェイラ作品であるあの画になる。ヴィゴの『ニースについて』にある、女神像の膝のアップから、腿、脚の付け根へとカメラが舐めていくと、腿と股の窪みに小鳥が巣くっている、というカットがすごく好きだ。軽薄なエロティシズムに見えたものがあるときなにかを飛び越えて荘厳なものになるような瞬間が、この作品にもいくつかあって、『ニースについて』の脚を振り上げて踊る女たちを仰角で撮り続けるショット、そこで彼女たちに紛れて踊る道化師の格好をした男を、「あれはジャン・ヴィゴ。私の父です」と娘が名指す場面もそうだろう。

半端な時間に半端な時間が空いたので、駅の目の前の北野水産とかが入ってる建物のモール状になってるとこにある立ち食いそばでまたも冷たい肉そば。昨日のと比べるとあれだが、しかし中途半端な時間にサクッと食えるのを考えると、悪くない。¥500。

『真珠のボタン』パトリシオ・グスマン。チリが世界最大の海岸線を持つ国だなんて考えたこともなかった。考えてみれば納得なのだが。水晶の中に閉じこめられた古代の水滴が、宇宙の彼方の惑星上にある水が、パタゴニアの民が信仰し混じり合った海が、海中に沈められた隠された犯罪が、記憶媒体としての水によってひとつにつながっていく。劇中でも語られることだが、流れる水は楽器でもあり、それが奏でる音楽に耳を傾けるのは非常に心地よい。その音楽が語るのが悲しく痛ましい物語なのだとしても。

『ホース・マネー』ペドロ・コスタ。コスタ作品に繰り返し登場してきたヴェントゥーラが、あの姿のまま自分は「19歳だ」と言い張る。その飛び越えられた時間の歪みのせいか、たんなる彼の幻覚か、あるいはそれはたしかにそこに存在するからなのか、出てくる人々は皆亡霊のようだ。光を受けた中心部分から周縁に向かって黒く翳り、それがスタンダードの画面の縁と見分けがつかなくなる。そのこと自体ははこれまでのデジタル撮影フィルム焼き付けの作品でも見られたことなのだが、そこで浮かび上がる光の質感が、DCP上映のこの作品では決定的に違う。たとえば『ヴァンダの部屋』の、廃墟と化していくフォンタイーニャス地区に住む人々が、その汚れや傷を背景と共有しながらそこにいるように見えたのとは裏腹に、『ホース・マネー』ではもはや彼らの身体に刻まれた傷や、肉体の奥底まで浸透した病(「おれたちは何度でも死に続ける、それがおれたちの病だ」)は、もはや背景に溶け込むように受け入れられることはなく、どこまでも異様なものとして浮き上がってしまうかのように見える。そしてそのことがおそらく『ホース・マネー』の構成自体にも関わっているのだと思う。歪なアイリスのような加工によって闇の中に孤立して浮かび上がる人々の肖像が亡霊のように見えるのは、存在の希薄さや儚さによってではなく、むしろ彼らのくっきりとしたあまりにあからさまな存在感のせいだ。エレベーターの中に現れる兵士の、あのギラギラしたメイク。それに対して、フィルムに焼き付けられた色彩は美しかったと言うのは簡単だ。だが時間的にも空間的にも距離感を喪失したような人々の肖像の連続に歌が重なるとき、距離感を欠いたデジタルの肖像をそっくりそのまま冒頭に置かれたフィルムのポートレイトと同じ存在として位置付けなければならないとペドロ・コスタは強く確信しているはずだ。繰り返すがフィルムの美しさを讃えそのその喪失を嘆くのは容易い。それに代わる方法を、私もまた強く切望している。