「第21回カイエ・デュ・シネマ週間」フィリップ・ガレル「現代の恋愛についての3部作」

坂本安美

 昨年のカンヌ国際映画祭監督週間でプレミア上映されたフィリップ・ガレルの最新作『つかのまの愛人』を見たフランスの批評家の友人から勧められ、小さなコンピューターのスクリーンでガレルの新作を見るなんて、と思いながら、今すぐにでも発見したいという欲望に負け、再生ボタンを押したその瞬間から、映画が幕を閉じるまで、息をしたことも忘れるほど、作品の美しさ、その強度に魅了された。ガレルの作品ほど女性と男性が同じレベルで存在し、また不透明な他者として向かい合っている映画は見たことがないと思ってきた。そして『ジェラシー』以降は、ガレルの映画において女性たちが占める割合が大きくなり、またガレルの息子ルイ、娘のエステールたちと同世代の若者たちの物語が紡がれるようになってきた。『ジェラシー』、『パリ、恋人たちの影』、そして最新作の『つかのまの愛人』は、女性たちの無意識、欲望、苦悩、恋愛における様々な感情、所作、そして身体にこれまでになく迫っていく。

「カイエ・デュ・シネマ」より編集長ドゥロームの批評の冒頭部分、そして同編集長とガレルの長く、濃密なインタビューの抜粋を以下に訳出した。

ファム・ファタール ステファン・ドゥローム

「『つかのまの愛人』は裂け目から始まる。ひとりの女子学生がすさまじい勢いで階段を駆け下り、大学のトイレで恋人である哲学教師と落ち合う。立ったまま、人目を忍んで、ふたりは愛を交わす。今までガレル作品でこんなシーンは見たことはなかった。今まで映画の中でこんなオルガスムを聞いたことはなかった。激しい息づかい、あえぎがすべてを凌駕する。ルイーズ・シュヴィロットの真に迫った演技が文字通りスクリーンを切り裂く。次のシーン。先ほどの学生と同年齢と思われる若い女性、エステール・ガレル演じる女が夜、路上に座り込み、大きな声を上げて泣いている。あえぐように泣くその声がさらに奥から聞こえてきて、私たちの想像の中で先ほどのオルガスムのあえぎ声と泣き声がシンクロして聞こえ、快楽と悲痛な叫びが重なり合う。このふたつのシーンのつなぎによって、ある意味、このふたりの登場人物についてすべてが語られているといえるだろう。快楽を求め、その場限りの関係も辞さない女、そして目から涙を流すしかない苦悩する女。彼女たちは同じ喘ぎをしながらも、片方はもう片方の裏であり、表裏一体のような関係であるだろう。映画を始めるにあたっての土台のようなものとしてこのふたりの女性たちの間の深い不平等さを提示する。ふたつのシーンだけで、ガレルの最新作は最近私たちが見たどの作品も超えたものとなっている。(...)ふたつの状態、ふたつの感情、ふたつの考えを対置。立っている女性と、座っている女性、快楽を味わう女と苦悩に泣く女、そうした正面からの対置、音響のつなぎを通して、映画の編集がそこで語られるべきことを告げている。」(カイエ・デュ・シネマ 733号)

フィリップ・ガレル インタヴュー

フロイト的三部作

----『つかのまの愛』は『ジェラシー』、『パリ、恋人たちの影』に続く三部作を締めくくる作品ですね。

フィリップ・ガレル(以下PG):はい、かつて私は『内なる傷跡』、『アタノール』、『水晶の揺籠』の3本をひとまとめにして上映したことがあります。それは3本で2時間45分の一回上映を行うためでした。その上映はシャイヨー宮にあったかつてのシネマテーク・フランセーズで一回のみ開催されました。回顧上映のために、どのようなことを望むか、と主催者側に尋ねられ、それならば『内なる傷跡』と『記憶のためのマリー』を入場無料で上映してほしい、そして先ほど挙げた3本をひとまとめにして、途中で明かりをつけることなく、一回で上映してほしいとお願いしたのです。当時『アタノール』は非難され、ある批評家には、映画が運動であることを認めず、私が壁にぶち当たっているとさえ言われました。『内なる傷跡』はトラヴェリングと音楽であり、『アタノール』は沈黙と固定ショット、そして最後にアシュ・ラ・テンペルの音楽とともに『水晶の揺籠』が上映される。このように3本続けて上映することで、『アタノール』ふたつのコンサートの間の幕間のような存在となり、この組み合わせは上手くいきました。しかし今回はひとまとめに上映するためではなく、真の3部作となっています。

----3部作として撮ろうと思われたのはいつ頃だったのですか?

PG:2本目を準備している時でした。『ジェラシー』を撮り、この原型で上手くいくのを確認できました。1時間15分の長さ、つまり(長編作品の通常の長さの)90分よりは15分短い製作となります。映画史には実はこうした短めの作品が数多く存在していて、誰も覚えていないかもしれませんが、『戦艦ポチョムキン』は1時間5分の長さです。したがって私は同じプロトタイプ、つまり1時間15分の長さ、21日の撮影期間、シネマスコープ、モノクロで3本撮ろうと思ったのです。

(...)

----経済的な側面を超えて、今回の3部作は主題となるモチーフに基づいて構想されていらっしゃいますか?

PG:観客として、私は映画以外の芸術も愛しています。映画以上に絵画の愛好家です。そのほかに私が長いこと行ってきていることのひとつは、フロイトを読むことです。1975年頃から読み始めたかと思います。フランス国立演劇学校では生徒たちにドラの夢、あるいは「狼男」の夢を読ませています。映画を撮るときは、フロイト的課題を自分に与えています。『ジェラシー』では女性における神経症を、『パリ、恋人たちの影』では女性におけるリビドー、そして『つかのまの愛人』は女性における無意識を扱いたかった。『つかのまの愛人』はエレクトラコンプレックス、つまりエディプス・コンプレックスの女性の場合(もちろんまったく同様というわけではないのだが)について語りたかった。エレクトラは母親のクリュタイムネーストラーが他の男性と再婚したため、母親を殺してしまった。本作では若い娘と彼女と同じ歳である父親の恋人との間の意識的に結ばれた友情の話であり、父親をめぐり、若い娘が無意識によってどのように自分のライバルを追い出すかが語られています。こうした要素を理解することは実はそこまで重要ではありませんが、このように本作は構想されているわけです。

----本作にはふたりの女性が出てきます。エレクトラは、(エステール・ガレル演じる)ジャンヌの観点ですね。それに対して、アリアンヌの観点は、快楽に拠っています。本作で私にとってもっとも印象的だったのは、リビドーを描いている点で、それ以前の2作品でもその描写が強く現れています。 『つかのまの愛人』はまさに、オルガズムの驚くべきシーンから始まります。

PG:ブレヒトの日記を読んでいて、ある箇所で彼はこう書いています。「私は戯曲を完成した。最終的に12のシーンとなったが、それは8シーンと4つの夢で成っている」。ブレヒトが見て、書き留められた4つの夢がほかの部分と同じレベルで一つの戯曲の中に、とりわけ夢として区別されることなく入っているわけです。『つかのまの愛人』の冒頭のシーンも同じで、起き掛けに見て書き留めた夢なのです。同作には他にもうひとつそうしたシーンがあります、大学教授は、若い女子学生と肩を並べて歩いているが、結局自分の家に帰るシーンです。こうしたシーンと、その他の想像、あるいは自伝的エピソードに由来するシーンが区別されることなく、すべて同じレベルでこの作品に存在しています。シャンタル・アケルマンはこう述べていました、「いい、フィリップ、平坦であるべきよ。『平凡なスタイル』という意味ではなくすべてが『同じレベルで』である、という意味で」。

----冒頭は見事です。ある女性が快楽を味わっていて、そのシーンが泣いている女性へと繋げられます。片方はつねに快楽を味わい、もう片方はつねに泣いている、二人の状況は不公平と言えるでしょう。そしてそこにエレクトラコンプレックスが結びついている。つまり快楽を享受している者は厄介払いしなければならないわけですね。

PG:私はドラマトゥルギー(劇作法)が何なのかよく分かりませんが、ジャン・ドゥーシェはこんなことを述べていました。「『パリ、恋人たちの影』はシネマスコープで撮られているから、登場人物がひとりでいるとき、その人物は誰もいない空間、空白に囲まれる。そうすると、もし誰もない空間、空白に囲まれているふたりの人物がいたら、彼らは同じフレームの中へと一緒に身を置くことになるだろう、それがドラマトゥルギーであると。つまりそれは造形的なものであると同時に物語も語っているのだと。したがってあなたが今語られたことも、ドラマトゥルギーだと言えるでしょう。ブレヒトも述べています、良い主題とは、人生があり、そして内面の葛藤があるものだと。人生の何かを示す矛盾が。(本作の共同脚本家である)ジャン=クロード・カリエールはこうしたことに長けています。まず視覚的なもの、たとえばしぐさのようなもの、つまり映画特有なものから始まり、ただちに葛藤、衝突が示されます。矛盾の方に向かっていくというわけではなく、それはすでにそこに存在していて、それがすぐに示されます。3本の作品とも、リハーサルを同じように行いました。主な登場人物たちを演じる俳優たちと一年かけて毎週土曜日に行ったのです。でも最後の作品、つまりこの『つかのまの愛人』がほかと異なるのは、土曜日のリハーサルのときに、脚本に対して編集を変更し始めたということです。ヒッチコックの有名なあの問いを再び見出すために、つまり、「観客は何を知っているか?登場人物は何を知っているのか」という問いです。緊張、そして遊戯=演技があり、そうした原則とともにこれらの問いがさらに興味深いものとなるわけです。観客はこれと、これを知っている、したがってこんなふうに思っている、などなど。毎週土曜日にシーンを通しで稽古をつけているので、編集の順番を徐々に変えていくことになりました。

----ふたりの女優たちとはどのように準備していったのですか?

PG:彼女たちとは毎週土曜日に、ぜんぶで34回、リハーサルを重ねました。彼女たちと仕事をするときに私はただ次のように伝えます。「私が興味のあるのは、君たちがすでにテキストを知っていても、もう一度それを覚えてみること、反射的に記憶が働くようになり、頭の中で脚本のページを読もうとしなくなり、もう一方が台詞を言ったら、自然に台詞が出てくるようになることだ」と。私から指示するのはほとんどそれだけです。これまで覚えたことがなかったほど、記憶のレベルになるまでテキストを身につけること。そうやって俳優たちが台詞を覚えている間に、彼らは自分たちで何かを見出して行き、ひとつの言葉が二つの意味を持つことを発見し、これまで考えたことがなかったようなことを考えるようになり、そうして彼らの演技が上達していくのです。

----脚本についてコメントはされないのですか?

PG:しません。3回ほどリハーサルを行っても、理解していないことがあるな、と感じた時だけ、論理を打ち立てるために説明を加えます。でもほとんどは、俳優たちが自分でその論理を見出します。私が一番力を入れるのは、記憶の部分です。相手が台詞を言ったら、自分の台詞を言わないほうが難しくなるほど、自然に台詞が口から出てくる、そうしたレベルに達することで、正しいと思える演技に到達します。

映画は、思考に属するものなのです。正しく演じる、それは正しく思考することであり、また正しく喋ることでもあります。正しく話していても、間違った思考をしていたら、うまく演じられない。俳優があるシーンを演じるとき、書かれたテキストを述べるとき、彼らはある一連の思考、動き続けるある思考を即興で行わなければなりません。私が彼らに与えられるのはメソッドだけで、中身ではありません。そのことで彼らには、相手の台詞やその時の状況よって登場人物が何を考えているのか思考する自由が与えられるのです。

本作は、4/7(土)アンスティチュ・フランセ東京でプレミア上映された後、京都、大阪での「カイエ・デュ・シネマ週間」でも上映予定です。

http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1804011700/

8月18日(土)よりシネマヴェーラ渋谷 他全国順次公開予定です。