10/06 「海、その愛」

結城秀勇

曇り、やや肌寒い。
今年の一本目はインターナショナルコンペティションの『激情の時』ジョアン・モレイラ・サレス。1968年前後のフランス、チェコ、中国のフッテージを中心とした映像とナレーションによって構成される。興味深かったのは始まってすぐのブラジル(だったはず)のホームムービーのフッテージとそれに付されるナレーションで、白人ブルジョワ家族が幼い娘を撮っただけのなんということのないサイレント映像は二度ほどループされ、しかしボイスオーバーの誘導によって二度目に見る観客の視線は、努めて背景の一部を"演じよう"とする黒人の召使いへと導かれる。言わずもがな、映像それ自体が持つ情報量のすべてを汲み尽くしうるなど考えることは傲慢に過ぎないのだという事実を繰り返し思い起こさせる手法には好感を持つ(ダニエル・コーン=ベンディットの「あの頃のおれたちは思ってる以上に"保守的"だった。短い髪型、服装、リーダーは男性で、女性は聞き手にまわる......」)。しかし、監督の母親が撮った中国旅行の映像が、クリス・マルケルやロマン・グーピルなども引用されるその他の映像に対してどういう関係を持ちうるのかがいまいち理解できなかった。監督が語るところによれば、強い政治的なインパクトを持つパリやプラハの映像に匹敵するほどの、強い"美学的な"インパクトを母親の映像は持つという話だったと思うが、私にはそれが読み取れなかった。あるいは、それを読み取るためには、そこに付した監督の言葉があまりに饒舌すぎたのではないか、とも言える。

続いて『カット』ハイルン・ニッサ。昨年98年ジャカルタ暴動についてのコンピレーション作品について文章を書いた関係で、インドネシア映画の検閲を取り扱った本作品に興味を持った。一番驚いたのは35mmで検閲してんのか!ということだったが、出てくる作品がなぜか2008年のものばかりだったり、担当者がオンラインならもっと早いみたいなことを言ったりしているので必ずしもそれが主流というわけではないかもしれない。
作品全体に対して感じたのは、よく言えばインドネシアの映画製作者たちが希望に満ちている、悪く言えば彼らはあまりに楽観的すぎるんじゃないのか、ということだ。もちろん個人的にいかなる種類の検閲だろうがごくわずかな正当性すら認める気はない。だが実際には彼らはなにか特定のシーンがある映画を作ることができないわけではなく、ただそれを商業的に公開できないだけだ(なぜ2008年の映画を2014年に検閲を通そうと思ったのか、その辺の事情がよくわからないのだが)。ここで問題になっているのは表現の自由といったことではなく、あくまで産業としての映画のあり方や配給の問題に過ぎないのではないかという気がしてしまう。もちろん現状を法的な制度から改革していこうという彼らのムーブメントから学ぶことはたくさんあるだろうが、その一方でどうしても、じゃあ一応検閲なしで映画をつくるわれわれはいったいどれだけ彼らより自由でありうるのか、という問題を避けて通ることができない。

駅前の「五十番」で細切り肉ラーメン。小さい頃からこの料理が好きなのだが、東京の中華料理屋であまり見かけないのはなんでだろう。

『願いと揺らぎ』我妻和樹。前作『波伝谷に生きる人々』を見たときの印象と同じことをまた思う。東日本大震災がもしなければ、この作品はもっとずっといい映画になっていたんじゃないのかと。そんなことは(当たり前だが)震災を取り扱った幾多のドキュメンタリー作品には決して感じることのない思いだし、そうした意味でこの作品は震災についてのドキュメンタリーではないのかもしれない。ただとてつもなく魅力的な被写体たちがいて、彼らととてつもなく魅力的な関係の結び方を監督はしていて、ただたまたま彼らの部落は丸ごと津波で流されてしまって、彼らのうちの幾人かはこの地を離れて暮らし、彼らのうちの幾人かは亡くなってしまった、ただそれだけだ。
作品の冒頭こそ、モノクロの画面はあまりに象徴的な意味合いが強過ぎるのではないかと懸念する。だが見ているとすぐにそんなことはどうでもよくなる。津波でてんでんこ=バラバラになった彼らだが、ふと寄り集まって会議をすれば、そこには共同体のようなものを駆動させ始める力が、すなわち政治が、映り込む。ふと寄り集まって宴会をすれば、酒の力で高まった感情が、どこまでも軽やかな笑いが、映り込む。正直、それらが映っているだけでもう十分で、涙が止まらない。
震災から一年が経とうとする頃、ひとりの男性の本厄の厄払いのための宴会が開かれ、久しぶりに部落の面々が顔を揃える。宴も盛り上がり、背後ではカラオケが始まる。おそらく勘違いや編集のせいだけではないはずだが、彼らは一度ではなく二度三度、加山雄三の「海 その愛」を歌っている。住む家も職業も奪われ、男腕一本で稼ぐはずの漁師の仕事が「サラリーマンみてえな」ものに変わってしまってなお、彼らはどんな思いでこの歌を歌うのだろう。「海よ 俺の海よ/大きなその愛よ」。