10/9 「山の引力、山の斥力」

結城秀勇

『われら山人たちーーわれわれ山国の人間が山間に住むのは、われわれのせいではないーー』フレディ・M・ムーラー。ムーラーの故郷であるウーリ州の山岳地帯で撮られたこの作品は、たんなる「古き良き山の暮らし」へのノスタルジーでできているわけではない。と同時に、副題「われわれ山国の人間が山間に住むのは、われわれのせいではない」に込められた静かな怒りが全面的に展開するわけでもない。それらふたつはほとんど目に見えないかたちで完全に混じり合っている。そういう意味で、前々日に見た短編『ベルンハルト・ルジンブール』の中で描かれていた小さな絵がより巨大な別の絵の一部分へと絶え間なく変化していくドローイングや、『マルセル』の直線的な道行を複雑な経路へと折りたたんでいく傾斜やぬかるみと、この山々の斜面は形態的な類似を持つのかもしれない。
小さな広場に集まった人々の輪、彼らが挙手し発言する直接民主制の姿は、前日までに見た『願いと揺らぎ』の波伝谷の人々や『エクス・リブリス』のショーンバーグ黒人文化センターの地域交流会を思い起こさせもする。この映画のラストカットは、その高原の直接民主制の姿そっくりに輪をかたちづくって並んだ若者たちを360度のパンで延々と映し出した後にやってくる。カットが変わり、山の斜面からそれまで画面を撮影していたカメラを中心とした若者たちの輪が見下ろされる。若者たちは三々五々思い思いの方向へ去っていき、彼らが成していた輪は姿を消す。『われら山人たち』には彼らが集まり輪を成す力と、彼らを遠ざける力とが、完全に混じり合って描かれている。

続いて『緑の山』フレディ・M・ムーラー。最終廃棄物処理場の建設をめぐる地域住民の抗議運動が映し出される。2011年3月11日を経たわたしたちの目には、この作品は完成した当時よりはるかに明確なものとして映ってしまうのかもしれない。「充分な安全」などという概念がどれほど馬鹿げた考えであるかを、わたしたちはすでに充分すぎるほど知っている。個体の寿命を遥かに超えた尺度での放射性廃棄物の保管がどれほど無責任なのかを、わたしたちはこの当時よりももっと強く主張できるだろう。だがあまりにそうした側面だけをこの作品に見てとることは、ムーラーの作品に絶えず内在する相反するベクトルの力学を見落としてしまうことかもしれない。
抗議団体のメンバーは言っていた。なにより悲しいのは、この抗議運動が成功するか否かという問題以前に、わたしたちの共同体が賛成派と反対派という構図に分断されてしまったことだ、と。公式カタログにあるムーラーの言葉は次のように語る。「私はスイス人として、白い平面の中央に大きな点がある日本の国旗を羨ましく思っていました。それよりも首尾一貫していて明確なものはありません。われわれスイス人の国旗は、赤い平面の中央に大きな白い点があるのですが、それは上下左右すべての方向に逸脱してしまっています。というのも、(四つの)母国語のそれぞれがこの点をぐいぐいと引っ張って、十字のかたちにしてしまったからです。これ以上に民主的にすることはできません」。ムーラーの作品には絶えず、思い思いの方向へと互いを引っ張り合う共同体の力学が映り込んでいるように思う。

メイン会場の近く、東北芸工大の生徒などが住むというシェアハウスのガレージでDJイベントが行われていた。そこでこれまで聞いたことのないバージョンの「花笠音頭」が流れていた。聞けば、江利チエミなのだいう。なかなかシャレたラテンアレンジ。