« オール・ザ・キングズメン | メイン | To Have And Have Not »

2006年06月30日

レット・イット・ビー

 この日誌を呼んでくださっている方々から、どのチームを応援しているのか、とか、優勝はどこ、などと尋ねられることが多くなった。クォーターファイナルまでW杯も差しかかった。でも、それらの問いに解答は見つからない。どのチームも応援していない、あるいはどのチームも応援しているが最初の問いの解答。2番目の問いの解答は、分からない、しか見つからない。たとえばアーセナルはファンなので応援しているが、アーセナルがイングランドだからと言って、イングランド代表にはアシュリー・コールとソル・キャンベルともうひとり(たぶん出場機会はない)しかいないし、スウェーデンのユングベリ、コートディヴォワールのエブエとコロ・トゥレは好きなタイプの選手だ。フランスにもアンリ、ブラジルにはジウベルト・シウバがいる。チャンピオンズリーグ時代のW杯とはそんなものだ。何度も書くけれども、チャンピオンズリーグが終わって3週間後にW杯が始まり、この決勝トーナメントまでにいかにチームを作り、コンディションを上げ、たとえばイングランド、たとえばポルトガルと仮の名前の付いたチームがどうやって成長するのか、だけを見ている。そしてどのチームもそれを目的に設定し、ある程度の成果を得ている。日本みたいに初戦が何よりも大事だとは思っていない。予選は突破するだけでいい。アミカル・マッチ3ゲーム。そこでチームの問題点をあぶり出したり、これからのチームの方向が思考される。
 死のグループに入っていないチームはその点で有効な実験が行えた。眼前のゲームに負けなければいいからだ。そして負けないゲームならできる。死のグループと言われたがそれほど死のグループではなかったアルゼンチン、そして点差としては楽ではなかったが、まあまあ楽だったイングランドなどはある程度の実験をやってきた。アルゼンチンは、前半は普通にやり、後半は2人のスピードスターを入れて勝負を賭けるというやり方を試し、イングランドはもっとも先進的なスタイルをこの伝統的なチームが消化することができるのか──できていないようだが──を試してきた。
 ドイツはホームなので、実験もへったくれもない。おぼろげに見えていた自分たちをテリーヌ型に力ずくで肉を押し込んだ。本当は死のグループだったイタリアは、いろいろやってみたが、怪我人も出て、結局、体に染みついた伝統に回帰した。ポルトガルは決勝トーナメントの一回戦で相当に傷ついたから、ルイス=フィリッペはもうスクランブルをかけなくては打つ手がなくなっている。ウクライナは、シェフチェンコに一発かけるだけ。実年集団フランスは昨日キングに練習を休ませ、疲労をとることに徹したようだ。
 いちばんイージーなのはブラジルだ。ガーナ戦を見るとスカウティングをしているようだが、相手に合わせてラインの高さを決めるだけで、フォーメーションをいじる必要はハナからない。マジック・カルテットに移動はないから、エメルソンの体調を見てジウベルト・シウバに最初から準備を命じ、カフー、ロベカルの控えに早めにアップさせるだけだ。それでも、フランスのキングが、スペイン戦のようなパフォーマンスを見せれば、カカとロナウジーニョに守備力がないから、負けるかも知れない。しかし、キングは前半しか持たないのではないか。キングが後半に爆発したフランスW杯はもう8年も前で、キングは当時 26歳だった。
 だから、初戦のドイツ対アルゼンチンにしても、アルゼンチンがポゼッションできたらアルゼンチンに勝機があるが、長いクロスをドイツが放り込んできたら、アルゼンチンのセンターバックは少し背が低いし、エインセはチョンボが多い。リケルメにはバラックが当たるだろうが、ドイツにはリケルメほどのテクニックを持った選手はいないからリケルメがバラックを簡単に交わせたら、ポゼッションはアルゼンチン等々、展開は幾通りも考えられる。でも実際にゲームに入れば、そんな展開予想も裏切られるものだ。そして裏切られなければ眠い目を擦ってゲームを見ていても面白くない。だから今までの予選リーグや決勝トーナメント回戦の記憶から、ぼくも両チームのコーチになったつもりで、徹底的にスカウティングしてから見るけれども……。

 だからどこが勝つか分からない。だから見ている。それだけ。昨日はビートルズが羽田に降り立って40年だそうだ。50歳を越えているぼくはその日のことを覚えている。ぼくのクラスからもふたり武道館に行った。40周年でラジオからはビートルズ・ナンバーが何曲も聞こえてくる。どれも一緒に歌える。彼らが出ている映画もクラスメイトと一緒に見に行って、一日中映画館にいて何度も見たことを思い出す。日本代表が国立競技場で杉山の2ゴールで3-3で韓国と引き分け(もう1点を決めたのは釜本だったっけ?)、メキシコ・オリンピックのアジア予選を勝ち抜いたのはその翌年だった。ぼくは武道館には行けなかったけれど、国立競技場にはいた。

投稿者 nobodymag : 2006年06月30日 09:59