彼はとてもいい声をしている。映画『アメリカン・スプレンダー』の原作者であり、また彼自身として登場してもいるハービー・ピーカーのことだ。けっして美声というわけではない。むしろくぐもっていて湿り気があるが、監督のバーマン&プルチーニも彼の声が映画にある種の力を与えてくれたと認めている。オープニングタイトルに重なるナレーション。私たちが一番はじめに聞くのは彼の声だ。それがこれから始まる映画へと観客を誘う。
彼が来日したと聞いてすぐさまその会場に駆けつけたのは、彼の声を生で聞きたかったからだ。声は映画で聞いたそのままだったが、実際に彼の姿を目にして、思っていたよりも体が大きくてびっくりした。顔はとても小さかった。
日常の些細な出来事を題材にしたコミック『アメリカン・スプレンダー』は、ハービー・ピーカーがコマ割りの下絵を描き、作画をほかの者が担当している。そもそも彼がコミックの世界に入ろうと思うのには、けっきょく最初に作画を担当することになるロバート・クラムの存在が大きかったようだ。

「映画では、ガレージセールでクラムと出会うということになっているけど、本当は違うんだ(笑)。1962年に、当時住んでいたところの近くにあったクラムの友人のアパートで彼と初めて会った。そのとき、彼のコミックを読んで、衝撃を受けたんだ。子供のためじゃない、大人が読んでもおもしろいコミックがあることを知った。小説や映画で行われていることと同じようなことがコミックでもできると思ったんだよ。
ジャスティン・グリーンの『ビンキー・ブラウンの冒険』やそれからクラムの作品など自伝的な内容のコミックは前からあったけど、それらよりもヘンリー・ミラーの小説などに影響を受けていると自分では思う。映画も好きだ。『自転車泥棒』などのイタリア映画、あるいは戦後につくられたフランス映画など。スタンダップ・コメディアンのレニー・ブルースの影響も大きい。でも、やっぱり、小さいころはコミックをよく読んでいたけど、次第に小説を読むようになり、別に文学の教育を受けたわけではないがひたすら小説を読んでいく中で、小説で行われていることをコミックでもやったらおもしろいと思ったんだ」

コミック『アメリカン・スプレンダー』は、90年代からダーク・ホース・パブリッシングに委託するまで、年に1冊のペースで自費出版されていた。60年代には興隆を極めたオルタナ・コミックも70年代になると徐々にその人気を失っていく過程にあり、なかなか出版社が見つからなかったのだと彼は言う。特に新しいタイプのコミックに社会は冷たかった。ジャズの熱狂的なファンでもある彼は、レアなレコードを売って、あるいはそれまでレコードを買うのに使っていたお金を自費出版の費用に当てることにしたのだと言う。もちろんその間ずっと病院の書類係の仕事を続けていた。映画は彼がコミックの世界に入る前の60年代から現在までのハービー・ピーカーの物語を語る。

「映画では描かれていないが、実は撮影が終わって2週間後に癌が再発見されてしまった。いまはだから治療のメニューをこなす毎日なんだ。でも、それが人生だ」

ハービー・ピーカーは「ぼくの日常は全然輝いているわけではないから、タイトルの「アメリカン・スプレンダー」(アメリカの輝き)には、アイロニックな意味合いが込められている」と言うが、本当にそうだろうか。とてもストレートなタイトルだと思った。
アメリカ映画は常にここではないどこか、彼方にある夢を見せる。つまり、どんよりとした現実に一閃の「輝き」を見せる。近年のハリウッド大作が見せる光景はそんな「彼方」の成れの果てだろう。映画『アメリカン・スプレンダー』はそのような現状に真っ向から否定の態度をとるのではない。もちろんそれに同調するというのでもない。本作には、実際のハービー・ピーカーに加えて、彼を演じるポール・ジアマッティ、それからアニメーションやイラストとして描かれるピーカーと複数のハービー・ピーカーが登場する。それらはすべて異なるが、結局はそれらすべてが「ハービー・ピーカー」なのだろう。クリーヴランドに住み病院で書類係として働きながら、コミックの下絵を描き、それによって彼自身だけではなく周囲の状況や環境が変わる。「彼方」を希求するのではなく、いまいる場所でそこに流れている時間に身を添わせていても、「彼方」はそこに現れる。本作が語るのはたったそれだけのことだ。つまり、それらすべてが「ハービー・ピーカー」であるように、現実のクリーヴランドの光景やセットの組まれたスタジオののっぺりとした白い空間、あるいはゴミが溜まってほこりの舞う室内、閑散とした駅のホームなど、あらゆる場所、あらゆる時間が同じように輝いている。
映画は世界に向けて開かれた扉である。映画『アメリカン・スプレンダー』は文字通り彼を世界へと向かわせた。

「クリーヴランドからサンフランシスコ、そしてホノルル。それから、ここ東京。このあとメルボルンへ行って、そしてイギリスへといったふうに、いま人生で一番長い旅の途中なんだ。BBCから今回の旅行をアニメ化しないかという話をもらっているよ。東京もおもしろい街だから何かいいネタがあるかもしれないね」

旅が終われば彼はまたクリーヴランドに戻るのだろう。ピーカーは最後に会場に向けて笑顔でこう言った。

「ぼくと連絡がとりたかったらクリーヴランドの電話帳を探せばいいよ。まだ載ってると思うから(笑)」

取材・構成 須藤健太郎

 


   
           
    7/10よりヴァージンシネマズ六本木ヒルズにてロードショー
『アメリカン・スプレンダー』公式サイト:http://www.amesp.jp/

『アメリカン・スプレンダー』
監督・脚本:シャリ・スプリンガー・バーマン&ロバート・プルチーニ
製作:テッド・ホープ
出演:ポール・ジアマッティ、ホープ・デイヴィス
ハービー・ピーカー
2003年/101分/ヴィスタ/カラー