演出家という名の怪物 
ジャン=クロード・ブリソー インタビュー 
前編
聞き手:大寺眞輔/翻訳:坂本安美
   

「現在シアター・イメージフォーラムで最新作『ひめごと』が公開中のジャン=クロード・ブリソー監督のインタヴュー」

シアター・イメージフォーラム→http://www.imageforum.co.jp/theater/
ひめごと公式HP→http://www.antenna21.com/himegoto/

 
 
──ブリソーさんの新作『ひめごと』を見せて頂き、大変深い感銘を受けました。作品からは、まず、ブレッソンやヒッチコック、レネ、トリュフォーといった非常に豊かな映画史的背景を感じることができます。そして欲望と権力の関係についての考察、そこから導き出される作品の社会性、それらを繊細にまとめていく演出の素晴らしさ、さらには生き生きとした俳優たちの演技、こうした様々な要素が高いレベルで融合した傑作であると感じました。
まず、冒頭のヌード・ダンスについてお伺いしたいのですが、これは、『ひめごと』ばかりではなく、ブリソーさんのフィルムグラフィーをある意味で鳥瞰するような意味合いも持つシーンであったように思います。裸で寝転ぶ女性の絵画的なイメージから始まりますが、あれは例えば『ランジュ・ノワール』と非常に似たものとなっており、鷲を持った女性は、当然、『かごの中の子供たち』を想起させます。さらに音楽が中断して、時計の音が前面に引き出される。
 
ジャン=クロード・ブリソー(以下、JCB):それから、鳥の鳴き声が聞こえ、再び音楽が流れる。もう一つ、このシーンの音響で重要なことは、(コラリー・ルヴェルが演じた)ナタリーの足音が少しずつ徐々に場面へと導入されるのだが、最初はその音を意図的に消してあり、ナタリーが自分の体をまさぐる音がかすかに聞こえるだけだということだ。確かに、この冒頭のシーンは非常に重要で、かなり時間をかけて作業した。そこには、二つの意図があったと思う。まず、フィルム全体の雰囲気を準備し、観客がフィルムの中に入っていくのを手助けすること。そしてもう一つは、その観客が自分が今見ているフィルムを直ちに分類してしまうことを妨げることだ。冒頭、観客は自分がどこにいるのか分からない。この若い女性はどこにいるのか、自分の家にいるのか、それとも他の場所にいるのか、まったく判断がつかない。何をしているのかも分からない。流れている音楽も、女の踊りのリズムとずれている。やがて、徐々にではあるが、自分たちの見ている場所がナイト・クラブであることに気づく。そこでは、鳥を持った人物が出現することで、ラスト・シーンも予告している。そしてまた、この作品の本質的な要素へと導いてもいて、例えば時計のチクタクという音は、宿命的に死へと向かう印象を与えるために使っている。
 
──官能的な女性のヌード・ダンスは、映画の中ではしばしば、生き生きとした生命の象徴として扱われることが多いと思うのですが、この作品では、そこに時計の音を重ねることで、今言われたように、死へと傾斜して行くような、肉体の有限性のようなものが強く印象づけられています。例えば『白い婚礼』や『野蛮な遊戯』などの作品でも、ブリソー監督は、時計の音を非常に効果的に使われていました。
 
JCB:確かにそうだ。2週間前にロッテルダム映画祭で『野蛮な遊戯』を久しぶりに見直したんだが、処女作であるこの作品で、すでに時計の音を使用していたことに気づいて自分でも驚いたよ。
 
──こうした音響設計は、シナリオの段階で決定されているのでしょうか?
 
JCB:いいや…、例えば、『ひめごと』冒頭のダンスシーンの場合、シナリオの段階で既に幾つかのアイディアを書き留めてはいたのだが、撮影時にそのことをいったん忘れ、コラリーと二人の共同作業として再び一から作り上げていった。しぐさなどについては、もちろん彼女が決めた。撮影が終わった段階で、音響設計などを考慮し、サウンドトラックを念入りに作り上げていくんだ。あらかじめ、全体のコンセプトは頭の中にあるのだが、実際の作業にかかるのは、撮影が全て終了した後のことだね。本当は、幻想的な要素をもっと多く入れたかったのだが、予算的に無理だった。だから、この作品では、音響に関しても、自分のプランを全て実現できた訳では決してないんだ。
 
──映画のラストについてお聞きしたいのですが、この作品では、凶器としてピストルが登場します。ナタリーが拳銃を構えてクリストフを撃つわけですが、あれは、『ランジュ・ノワール』の冒頭とラストで、拳銃が発砲されるシーン──主人公が相手の背中に向けてピストルを一発撃ち、さらに倒れた相手に対して何発も撃つというものなのですが、この場面に、きわめて似通っていたと思います。
 
JCB:その通り、まったく同じだ。『ランジュ・ノワール』も、私は先日のロッテルダム映画祭で何年ぶりかに見直したのだが、シルヴィー・ヴァルタンとコラリー・ルヴェルが演じる女性の間には、驚くほどの類似性が存在していることに気づいた。もちろん自分でシナリオを書いているのだが、これは全く意識していないことだった。二人の女性は、それぞれ嘘をつき、映画の最初から自分たちが愛している男に操作され、最後には、その男に裏切られる。彼女たちは、恋する者の悲劇を生きており、そのことを誰にも話すことができない。あまりにも似通っているので、自分でも驚いたのだが、故意にそうしたわけではないんだ。
 
──どういう凶器を使用するかということで、映画は様々に異なるニュアンスを持つものだと思います。ピストルという凶器を選択することについては、何らかの配慮がそこにありますでしょうか。例えば、『かごの中の子供たち』では、凶器としての鎌が印象的に使用されており、サスペンスを高めることに成功していると思います。他方、『かごの中の子供たち』では、ブリュノ・クレメールの父親が拳銃を握りしめながら死んでいくシーンが重要な意味を担っていたように思われますが、『ひめごと』や『ランジュ・ノワール』では、よりダイレクトな感情の暴発のようなものを感じさせます。
 
JCB:『かごの中の子供たち』で鎌を使ったシーンについては、よく覚えている。全くその通りだ。ただし、『かごの中の子供たち』でのピストルの使い方と、『ひめごと』や『ランジュ・ノワール』でのそれとの間には、類似性はないと思う。これらは別のものとして考えて欲しい。コラリーとシルヴィのピストルの使い方は、純粋な衝動的暴力、復讐心そのものだった訳だ。また、凶器を選ぶ上で、設定上の要請については考えるが、レフェランスのようなものは考慮していない。例えば、『かごの中の子供たち』で登場する小型ナイフは、郊外のチンピラたちがピストルや大型ナイフを持っていると直ちに逮捕されてしまうのに対して、ああした小型ナイフは、道具として判断されることが多く、それを持っていただけでは逮捕されることがないことが、その選択の理由となっている。
 
――ブリソー監督の作品では、人物の視線にしばしば大きな注意が払われているように見えます。そして、人物が見つめ合う時には、切り返しが多用されています。
 
JCB:切り返しを用いるのには、二つの理由がある。一つ目は、観客が登場人物に感情移入できる時間を作るため。二つ目は、私が理解してほしいと思っていることを観客に明瞭に理解してもらうためだ。キャメラを動かすにせよ、フィックスでとらえるにせよ、いずれにしても、もし切り返しを使わず、二人の人物を同じショットの中に入れてしまうならば、観客は自ら自由に視線を向ける場所を選ぶことになる。これに対して、切り返しを使うならば、観客は、私が集中して見てほしいと思っているものに、自然に視線を向けてくれるのだ。例えば、『ひめごと』の冒頭だが、ナタリーと(サブリナ・セヴクが演じた)サンドリーヌがアパートの部屋で話すシーンがある。ここで私が切り返しを使用したのは、サンドリーヌから彼女のセクシュアリティについて話を聞くナタリーの眼差しに少しずつ変化が現れていくところを観客に見逃して欲しくなかったからだ。つまり彼女は、この場面で既に何かを計算し始めており、サンドリーヌを操作しようとしているのではないか、こうしたことが、その眼差しから伺えるようにしたかった訳だ。もしあの場面で、二人を同時にとらえるショットを私が選択していたとするならば、こうした密かな変化に観客が気づくことは難しくなっただろう。
 切り返しだけではなく、演出全般において、私は、可能な限り最も明確な方法で作品を構成するようにしている。演出の意図する場所に観客の視線を集中させたいのだが、それは時として、非常に困難なものでもあるのだ。例を挙げるならば、先ほど話題に出た『かごの中の子供たち』で、父親が死ぬシークエンスなどが適当だろう。あの場面が重要なのは、あそこで私が複数の要素を混合させながら観客の前に示しているからだ。ほとんど悪趣味とも言えるようなブラック・ユーモアに暴力的な要素を混ぜ、そこから突如、少年と女性教師のダンス・シーンを挿入することによって、愛情表現、それもほとんど詩的なるものへと移行させている。こうした混合がスクリーンで起こる時、観客がどのような反応をするのかということに、私は興味があるんだ。そして、こうした混合に於いてふさわしい効果を引き出すためには、一つ一つのシークエンスが非常に明確な方法で演出されていなくてはいけない。もし観客が、こちらの意図していない場所に注意を引きつけられてしまうのならば、私の試みは失敗したことになる。たとえば、この父親の死のシークエンスは、とても複雑な要素が絡み合っており、そのため、キャメラのポジションを決めるだけで4日間を費やしたのだが、結果として、その出来事の複雑さにも関わらず、見た目には非常にシンプルな場面になっていると思う。『ひめごと』に話を戻すならば、まずエロティックなものがあり、それから喜劇的要素があり、そしてゆっくりと、悲劇的なドラマへと移行し、最後には幻想的な要素が加わる。観客がこうした多様な要素の混合を見てどのような感情を抱くかについては、ある程度のアイディアを最初から持っているのだが、そのためには、観客の視線をコントロールしなければならない。こちらの意図する場所に、観客の注意を集めなければいけないんだ。
 
――複数の互いに矛盾する要素が混在する中で、それらの一つ一つが他から際だった存在としてスクリーンに映し出される。ここには、ブリソー監督の作品から受け取ることのできる、最大の魅力の一つがあると思います。実にカラフルで多様な色彩が使用されていながら、それらが混じり合った単なる混合物になってしまうことは決してなく、一つ一つの色彩が鮮やかに際だったまま、こちらの目に飛び込んでくるような感じと言えば良いでしょうか。とりわけ、切り返しが使用される場面では、見る者と見られる者との間に権力関係が発生し、またそうした関係に支配されることの悲しみや、それぞれ固有のドラマが展開されて行く様子を微分的な単位で観察することができると思います。
 
JCB:そう。それは、意図的なものだ。例えば、『ひめごと』では、サンドリーヌが男たち、とりわけドラクワに嘘をつき、彼を誘惑しようとする。ここで、彼女は嘘をついている訳だが、同時に彼女は誠実でもあり、事態はまったく単純ではない。こうした複雑な感情を見せるため、二人の人物を切り返しで別々に見せる必要があるんだ。例えば、サンドリーヌがドラクワからの電話を受ける場面では、「この男は私を愛していたが、私は若すぎて、彼が何も報酬を求めずに愛してくれたことを理解できず、ただ、クリストフのことしか考えていなかった」という彼女自身のナレーションが聞こえてくる。だが、こうした説明とは裏腹に、この場面では、彼女の目から涙がこぼれ落ちるのも見える。つまり、物事はそんなにシンプルではない訳だ。もしあの部屋に他の人がいて、彼女が一人でなかったら、観客はその涙に気付かなかったかもしれない。ナレーションで説明されることとスクリーンに映し出されているものとの間の矛盾が、観客に見えなくなってしまう。つまり、私は、ヒッチコックが観客に恐怖心を抱かるため、その視線を導いたのと全く同様に、観客の視線を導いている訳だ。ただし、私の場合、必ずしも恐怖心を抱かせるためにではなく、多かれ少なかれ悲劇的である回路、この世界に存在しつつ、陰から糸で操られているような人間たちを見せるために、こうした手法を使用しているのだ。
 
――サンドリーヌがドラクワからの電話を受けるシーンは、たいへん感動的でした。ブリソー監督は、『白い婚礼』でも、電話を利用したきわめて印象的な場面を作り上げておられましたが、そこでは、ブリュノ・クレメールの台詞とは裏腹に、彼の無意識からの呼び声のようなもの、そして、彼が何を意図しようと、不可避的に事態が進んでしまうような悲劇的感覚を示すことに成功していたと思います。
 
JCB:あの作品では、クレメールとヴァネッサ・パラディの間には情熱的な関係があり、クレメールは「これは不可能な愛であり、やめるべきだ」と口にするのだが、彼女から求められることには大きな喜びを感じていた。したがって、彼女からの電話が彼の無意識の欲望とつながるというのは、その通りだと思う。