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『スパイの妻』、あるいは不意に露呈する外側

坂本安美
6月25日(木)

 最後にこの場に日誌を記してからなんと2ヶ月以上がすでに過ぎてしまった。毎日のようにこの場に戻り、ぎこちなくても、間違っても、とにかく言葉を紡ぎ、聞こえてくる、見えてくるもの、この時間に体験し、考えていることを記録しなければと思いながらも、時間は矢のように過ぎていった。テレワークとやらで朝から晩までコンピューターを前に仕事をするほか、IVCから出るオリヴィエ・アサイヤスのブルーレイボックスの制作を手伝い(特典映像にどうしても付けてほしいと嘆願したアサイヤスとマチュー・アマルリックの対談にもがんばって字幕を付けました、ぜひ本編たちと共に見て頂きたい)、そして今月、劇場の再開とともに公開が始まったアンナ・カリーナのドキュメンタリーのパンフへの執筆、劇場休館によって苦難を強いられていた映画業界の人々へのほんの微力ながらの応援、国内、海外にいる親しい友人や家族たちとのやり取り、一日、一日はあっという間に過ぎていった。もちろんときに不安に苛まれ、発狂しそうになることもありながらも、そうして家の中に身を籠もり、日常を送ってこれたのは、外に出て働き続けていた人たちがいたからこそだ。ブレィディみかこの「欧州季評」(「朝日新聞朝刊」2020年6月11 日)で「ケア階級」という言葉を知った。人類学者デヴィッド・グレーバーが、医療、教育、介護、保育など、直接的に「他者をケアする」仕事をしている人々のことをそう語っているとのこと。「製造業が主だった昔とは異なり、今日の労働者階級の多くは、こうしたケア階級の人々であり、彼らがいなければ地域社会は回らない」と。そしてコロナ禍において「わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしてくれているのがどんな人々なのかに気がついた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的な存在にすぎず、互いにケアしなければ死んでしまうということにも気がついた」。そうしたケアする仕事がなぜか経済とは別のもののように考えられ、本当に社会にとって必要な仕事ほど低賃金という倒錯した状況が生まれている、とブレィディみかこは述べる。ちなみにそのケア階級の仕事と対峙する概念として、グレーバーが唱えるのが「ブルシット・ジョブ(どうでもいい仕事)」、たとえばなくてもいい書類作成のため資料を集め、整理するために忙殺されているホワイトカラーの管理・事務部門の仕事......。

 「ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的な存在にすぎない」。そしてその存在、生命としての身体は「"自然"、自分自身の所有物に見えて、けっして自らの制御下に置くことができないものだ」と生物学者の福岡伸一は語る(「福岡伸一の動的平衡」朝日新聞朝刊2020 年6月17日)。いつ生まれ、どこで病を得、どのように死ぬのか、選り好みなどできない。しかしふだん、都市の中で生きる私たちはそのことを忘れて、すべて制御でき、効率よく、予定通り生きていけると思い込んでいる。福岡は本来の自然ピュシスとそれを制御しようとして創り出された自然ロゴスつまり、言葉や論理の対立を語る。制御できないもの、たとえば「生と死、性、生殖、病、老い、狂気......」そうしたものを見て見ぬふり、あるいは隠蔽して、タブーとして押し込めてきた。そしてそうして押し込めてきた「ピュシスの顕れを、まさに今回不意打ちに近いかたちで我々の前の前に見せてくれたが、今回のウイルス禍ではなかったか」。

 生物学者である福岡の文章は、生物学という学問に疎い私にも、おおいに響くものがあると同時に、4月初めにスマートフォンの画面に現れて、私たちにユーモアを交え、穏やかながら、いつもながら力強く語ってくれたゴダールの言葉とも共鳴して聞こえてきた。「それが何なのか私だって分からない、ただ我々と同じ生きものではあることは確かであり、もしかして我々のことを好きなのかもしれないよ」 

 その文章を読んでから数日後、黒沢清監督の最新作『スパイの妻』を見る。
私たちが生きている世界は様々な瞬間、行為、思考、感情によって構成され、動き、あるいは繰り返し、しかし確実に少しずつ変化し、姿を変えている。現在起こっていること、たとえば今、世界中を震撼させているウイルスの感染拡大もすべて、そうした流れ、大きなうねりの中のひとつであり、その変化や動きのしるしは遙かかなたの彼の地で見つけることもできるかもしれないし、実は目の前でふと見えてくることもある。それは人間が制御してもしきれなかったなにかとして貌を表す。黒沢清はそうした貌、見えないけれど見えるもののもとへと接近し、かつて確かに存在し、しかし今や過去になってしまった取り返しのつかないいくつかの事実の積み重ねであるところの「世界」を誰よりも果敢に描いてきた。そして『スパイの妻』で、黒沢清はそれをこれまで以上に大きなスケール感、迷うことのない姿勢で見せる。驚愕し、興奮しながら、帰宅して黒沢さんの著書を一冊手にとってみる。

「どうも僕たちは今とりあえず安心して『ここ』にいるようだ。しかし、その外側は『暴力』に満ちていて、しかも向こうにある暴力の原因のかなり部分が、実はこちら側から送り込まれているのではないか。となると、この安心した内側の世界と、もうひとつの暴力的な外側の世界とは、いつか必ず、というかすでに『戦争状態』に入っていて、そのことに関する責任は、実は『ここ』にいるこの僕たちにも大いにあるではないでしょうか」(『黒沢清、21世紀の映画を語る』発行:boid)

 ちなみに私たちの目の前の「暴力」とはウイルスではない。「人もウイルスも制御できない自然」であり、それを制御するために生活という個人の領域に不用意に介入してくる公権力こそが「暴力」であるだろう。

 21世紀の映画の宿命を真っ向から引き受けた黒沢清のあらたな傑作については、次回、あらためて語らせてほしい。