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2006年6月28日

2006年6月28日——最終回

「○○ちゃん(私のお店での源氏名)だから言うけど、実はお店、夏過ぎには完全にデリバリー型に変更する方向になってるんだ」
お店を辞めて1ヶ月が過ぎていた。店長を誘って、ふたりである居酒屋で飲んでいると、彼がふとそんな秘密を私に漏らした。今年の7月末までに、既存の風俗関連の営業許可店は、営業場所を警察に再提出し、警察官の立ち入りのもとでその確認をとるという改正風営法が施行されたのが、今回の変更の理由だという。
無店舗型特殊風俗店としての登録を以前に済ませたうちのお店は、しかし実際には受付とレンタルルームを両方同時に営業している。本来はそうしたやり方には、ホテルや客の自宅での出張サービスを行う無店舗型風俗店ではなく、受付に連動したプレイルームをもつ店舗型風俗店としての許可が必要だ。しかし現状では新規に店舗型風俗営業の許可を得るのはほぼ不可能な状態にあって、それでも無店舗型営業での、単価の値上がりや客の管理の不徹底等のリスクを考慮して、うちのお店のように紙面上では別々の営業許可を得る一方で、実際には連動した経営を行う風俗店は都内でも少なくない。今回の風営法の改正は、そういった形態をとる風俗店を撤廃させていく狙いのもとで行われているようだ。
厳密な許可店として再申告を行って、正式に堂々と風俗営業を続けていきたい、と彼は言った。女の子の安全管理はどうするのかとか、ホテルへ入るときはどういった手続きを踏むのが妥当かとか、私たちはお店のよりやりやすい営業のために、女の子の立場から、お店の立場から、ふたりの意見を言い合った。酔っぱらいながらではあるけれど、私は、ひとりの接客担当でしかない自分が、雇用者である彼とそんなメタフィジックな話ができること、その彼の私への信頼が、ただ単純に嬉しかった。
ひとりふらっと地方からやって来た年下の彼が、将来は風俗で独立したいと思っているのを私は知っていた。こんなヤクザな仕事に向上心とプライドを持っている彼の不器用だけど誠実なところが私は好きだったし、彼も接客を楽しむ私をよく理解してくれている、と私は感じていた。いくつかの私的な用件が重なって、私はこのお店を辞めることになったが、それでも私はうらぶれて適当でなれなれしくて、でもちゃんと誇りをもってて居心地のいいこのお店で、しばらくしたらまた働きたい、と彼には再三告げていた。「○○ちゃんの場所はずっと空けとくから」。彼も私に気兼ねなく店に戻るように幾度となく打診してくれた。
終電で集まって、朝まで飲むと決めたものの、前日お店でトラブルがあったという彼は、もうすっかり睡魔に襲われていた。
「昨日緊張しすぎてもう身体ガタガタだー」
普段は虚勢を張る彼が、珍しく弱音を吐いた。
「そりゃそうですよ。お疲れでした」
私も彼に口を合わせる。
「あー久しぶりに○○ちゃんのマッサージが受けたいな……」
ちらっと彼が私を見る。試すようなその台詞に、私は言葉の真意を測りかね、一瞬返答に戸惑った。
私はお店では、客に対して性的サービスとともに、リンパ系のマッサージを提供してきた。彼の提案が仕事上のものなのか、個人的なものなのか、さらに個人的ならそれは純粋に裏のないものなのか、様々な考えが浮かんだ。
……あ、でも私のマッサージのやり方を見て、彼は今後のマッサージ講習の参考にしたいのかもしれない。
これまでの私と彼のやり取りを省みると、それが一番妥当な彼の意図だった。どこかで習ったわけでもないけれど、それでもお店でずっと続けてきたマッサージに、私も自分なりに自信を持っていた。その少しの技術が、彼を介してお店に引き継がれるならそれはそれでうれしい。
「うん、いいですよー、えっと、もしや性感も?」
私は冗談めいてあけすけに彼に言葉を返した。
「いやいや、それはいいですよー。さすがにー」
抑揚のないしゃべり方は、彼の地方の訛りだ。
「……あ、でもお金とりますよ。マッサージだけでも」
「はいはい、もちろんですよー」
感情の読めない口ぶりに、どこまで本気なのか私は思いあぐねた。しばらくして話はそれたが、しかし夜半を過ぎると彼も私も、いい加減飲むペースが落ちていった。店員がラストオーダーを取りにまわってくる。それを断り私たちはお会計をお願いした。始発にはまだ早かった。

「うわ、くさーいね」
「くさいですねぇ」
居酒屋を出て最初に吸う繁華街の夜の空気に、飲食店から出された大量の生ごみのにおいが混ざっている。昼間には隠されていた人工空間の膿のようなものが、コンクリートには不釣り合いなこの血生臭い腐臭にまぎれているようで、それを嗅ぐと私はいつも気持ちがざわめいた。なんというか、禁じられたものをみるような背徳感に似ている。
「……さて、どうしましょっか?」
先を思いあぐねて私は彼に踵を返した。
「え、……マッサージしてくれるんじゃなかったの?」
彼はあっさりそう答えた。
「あ、そうでしたね……じゃあ、こっちか」
私は背の低い雑居ビル群の奥を指差した。鍵は彼が持っている。目指すのは繁華街から少し離れた川向こうの、受付とプレイルームのあるマンションだ。
「……本気だったんですねぇ、じゃあほんとにお金とりますよ?」
歩きながら私は彼に話しかけた。
「いいですよー」
私と彼が、仕事上でお互いを認め合った素敵な関係にあればこそ、時間外に講習のようにマッサージをしてみせるのも、また素敵なことではないか、私はそう思った。
性を扱う私たちの、性に関するやり取りは、いつだって客観的だ。私はわずかに感じた、「店長」ではなく「男」としての彼への猜疑心を打ち払った。私たちのこの文脈では、性は溺れるものではなく、売るものだ。性的に私が彼を(彼が私を)意識するなんて、私たちの自意識が許さない。「あ」、しばらく歩いたところで、彼が突然大きな声を上げた。
「……そういえばルームにM君(お店の従業員)が泊まってるの忘れてた!」
回りくどい言い回しに私はきょとんと彼を見た。しかし私には彼の言葉を信じない理由が見当たらない。私はこう答えた。
「M君!! いいですね、会いたいかも……」
「……いや、それはまずいでしょ」
「……なんで? あれ、今日あたしと飲むって、M君に言うの忘れてました?」
「いやぁ、……あの、でも疲れてるから、マッサージはどうしてもしてほしいんだよね」
「だからそれはいいけど……でもどこで?」
彼が私の質問をごまかしたことは明らかだった。でも私の考える私たちの関係は、それが私の誤解にすぎない可能性をすぐに認められるほど私にとって簡単なものではない。彼は立ち止まった。何度も通い慣れた道だった。ルームに行くにはさっきの居酒屋から橋を渡り、ラブホテル街をぬけなければならないことなど、私だって最初からわかっていた。
「っていうか、あの、……実はほらさっきうちがデリバリー化するっていったじゃん? 調査したいんだけど、それも含めてつき合ってくれない?」
歩道に面した一件のラブホテルの入口の前で、彼が私に話しかけた。
「えー、……そんなのひとりで行きましょうよ」
「いやいや僕も行ったんだけどさ、名刺もってね、話しして、でも店員に気持ち悪がられちゃってひとりじゃ入れてもらえないんだよ」
「でも、ホテルはさすがにちょっとあれじゃ……」
「お願い、休憩だけだから、協力してくれない? ○○ちゃんしかこんなの頼めなくって……」
「……えー……」
とっさにふたつの思いが頭をよぎった。ラブホテルは、人と人とが愛し合う目的で行く場所である。私と彼は、性を売り物とする仕事上の関係者である。……この矛盾にあってすら、後者を否定するなんて私にはできなかった。少しの不安もないと言えば嘘だ。でもそうであっても彼に、さらに言えば2年続けたあのお店に、自分の居場所を認められていることを信じたい自分自身のために、私は今の状況においてこそ、盲目的に彼の言葉を受け入れるしかなかった。プロである限り性的にお互いを意識しないという自意識を強調したいからこそ、私は極めて個人的で性的なこの場所に、踏み込むことを拒みたくはなかった。
「……いいけど、絶対変なことはなしですよ!」
「当たり前じゃないですかー」

殺風景なホテルの一室に入ると、まず彼は服を脱ぎシャワーを浴びた。水泳をやっていたという、上半身だけ妙にがっしりとした彼の裸は見慣れていた。待っている間私は彼の洋服を慣れた手つきで丁寧に折り畳んだ。まるで接客しているように。私は彼に教えられたいつもの手順をなぞる。彼がシャワーから出てきた。
「じゃあ、ベッドの上に横になって下さいね」
「……あ、はい」
彼も居酒屋にいたときとは違う、どこかよそよそしい私の言葉に、すんなりと口裏を合わせた。腰にタオルを巻いた、うつ伏せの彼の背中にまたがり、私はいつものように力を込めてそれを上からゆっくり親指で押していった。アロマオイルはホテルの備品の乳液で代用した。
「うーん、気持ちいいよ。やっぱ○○ちゃんのマッサージいいねぇ」
「そうですか? 嬉しいっす」
まるでひと組の客と風俗嬢のようだった。
彼にとっては、それは夏へ向けてのシミュレーションなのだ。私はそう思った。
よっぽど疲れていたのだろう、しばらくすると彼はそのまま寝息を立て始めた。私は彼から離れ、ソファーでタバコに火をつけた。始発にはまだ1時間ほどある。さて、どうしようか。私はバスローブを彼の背中に掛け、有線のボリュームを落とした。このまま少し眠ろうか。私は長いソファーの肘掛けに足を上げた。
「……はっ!」
小さなうめき声とともに彼が目を覚ました。あわてて彼に向き直った。
「もうちょっとしたら、帰りますね。寝てていいですよ」
「……あ、うん……」
彼はうつ伏せで顔を向こうにむけた。少しの沈黙が流れた。
「……あの、○○ちゃん、お願いがあります」
突然彼が再び私の方に寝返りを打った。
「へ? ……な、何ですか改まって」
彼は起き上がり、ソファーの私と向き合うかっこうでベッドに腰を掛けた。
「あの……あの、今日だけ一緒に寝て下さい!!」
それはまるで中学生の愛の告白のような愚直さだった。お店では「立場を理解しない面倒な客」と判断されかねない規定外の台詞だ。私は言葉を失った。しかし一方で視点を変えれば、予想外の展開というにはあまりに不誠実な状況に、すでに私たちがあるのは明らかだった。このマニュアルにはない告白が、雇用者と労働者の立場を逸脱した行為であることはさすがの私にも判断がつく。彼が私に頭を下げた。
「……いや、あの……無理ですよ」
しかし彼は引き下がろうとはしなかった。押し問答が始まった。断る私の手を取って、彼は私にお願いしますと頭を下げた。
「そんな、やめて下さいよ……」
小さな目で彼が私を見上げた。見たこともない、「彼らしくない」彼の表情に、私はどうしていいのかわからない。
「……寂しいんです。僕」
とうとう彼がそう言った。

お店では絶対にあり得なかった彼の弱音だった。彼が友人もなくたったひとりで東京にやって来て、毎日受付で弁当を食べて寝泊まりして、プライベートなんてほとんどない仕事漬けの日々を送っていることは知っていた。「若いんだから彼女つくればいいのに」と女の子たちが冗談めかしても、「いや、自分今は仕事が一番ですから」と決まった文句を繰り返していた彼も知っていた。そういった状況が一般的にいわゆる「寂しさ」を醸し出すというのなら、彼が「寂しい」のなんて最初から知っていた。私は声を荒げた。

「なんですかそれ。だったらいくらでも他の女の子と遊べばいいでしょ!? デリヘルだって何だってあるじゃん!! 電話一本で可愛い女の子すぐ来てくれますよ!!」
彼は首をしなだれて小さな声でこう言った。
「……○○ちゃんがいいんです」
「……それがどういう意味かわかって言ってます? あたしと店長には、お店での関係があるでしょ? それ壊すつもり!?」
「……いや、そんなつもりで言ってるんじゃなくて、ただ○○ちゃんが魅力的だから……」
「魅力的って、それを商品として売ってるんだから当たり前でしょ? 商品価値があるって言ってるにすぎないですよ私たちにとっては」
「……そんな言い方しないで。少なくとも僕は女の子のことそんなふうに見て接してないし……」
「……」
それは当たり前だと思った。あからさまにモノとして扱われたら、気持ちよく働いたりなんてできない。
「お願いします!」
言い出すと異様に粘り強いのも彼の性分のひとつだった。
「だから、もしそれ受け入れたらどっちかがあの店追われるんですよ! 店長辞めてもいいんですか!?」
怒りに任せていった言葉に、私はハッと我に帰った。私は1ヶ月前に店を自分から辞めていた。彼もそれに気が付いている。
「……だって○○ちゃん辞めてるし……」
私は行き場を失っていた。○○ちゃんという私の名前であるはずの言葉が、客観的に耳に響く。私はヒステリックにこう叫んだ。
「辞めてるけど、また戻りたいと思ってるもん!! 店長だってそう言ってくれたじゃん。あれは嘘だった!?」
「……とにかく今一緒にいてほしいんです」
抑揚のない彼独特の言い回しに、今はどこか切実さが聞き取れた。しかしそんならしくなさにこそ私は傷つくのだ。どうかどうか「店長」としての「彼らしさ」をとりもどして!!
「我がまますぎ……あのね、店長は今は私に拒否られてすごいヒロイックになってるかもしれないけど、でも実際あたしの方がもっと傷ついてるの、なんでわかってくれないの? 店長は今ふっと寂しくなっただけでしょ? あたしは2年もあのお店で働いて、みんなとちゃんと仲良くやって、真面目に働いて、きれいに辞めて、……2年かかって築きあげたもの、なんでそんな一時の寂しさかなんかにぶちこわされなきゃいけないんですか!!」
「……お願いします!!」
しかし立場上無理だと主張する私と、とにかく今一緒にいてほしいと主張する彼との口論は平行線だった。私は思い切って立ち上がった。
「……帰ります」
私の両手を握ったまま、頭を上げた裸の彼のその無防備な様子が、私にはひどく惨めにみえた。

ラブホテルからひとりで出てきたのは初めてだった。TVドラマのような状況は、実際にはこんなふうにつくられるのか、なんて考えが浮かんだ。さっきまでの状況が頭の中をぐるぐる回る。何が起こったのか。これでよかったのか。一緒にホテルに行ってしまったことが、私のとるべき責任なのか。
店長である彼が、同時に「店長」以外のものでもありうるという当たり前のことを、私はすっかり忘れてしまっていた。彼の行為はある意味では「裏切り」でもなんでもないのかもしれない。ふとそんな考えが浮かんだ。ただごく自然に、彼は私に魅力を感じ、私を誘惑したのかもしれない。単にそれは私たちにとっては、「仕事上の関係」とはまた別の、「男女としての関係」の提案なのだ。性的な領域では、地位や立場が忘れ去られ、たまたまの出会いのかたちも忘れ去られ、ただ〈彼〉という目の前の男の存在感に、私は無償の喜びを感じる、と、この日記でさんざん書き連ねたのは私自身であったはずだ。
私が彼との関係において自分の支えにしてきた職業上の自意識を、彼はあっさりとすり抜け生身の男になってみせた。一方で私は裸になれなくて、地位や立場を振りかざし、欲情に素直に従ったまでの彼に、ずいぶんとひどい仕打ちをしてしまったのではないだろうか。
私は彼と「裸の付き合い」ができなかった。もちろん私が彼に立場を主張したことは、全部本当だし間違ってもいない。しかし彼の弱音や誘惑だって、それと同じように全部本当だし間違ってもいないのだ。私の色眼鏡と彼の盲目さが、ふたりの有機的な関係を断ち切ったことが現実だった。

惨めなのは彼であり私でもあった。彼と連絡をとることは今後ないだろう。結局彼とやってもやらなくても、もうあの店には戻れないことに、そして私は気がついた。
そう、私が一番避けたかったそのことは、もうすでに展開されてしまった後だった。私たちは、「性を扱うプロ」としての自意識からはみ出す、生身の性にふれてしまった。私は彼によって自分の中に「(女)性」を感じ、同時にそんな彼に「(男)性」を認めてしまったのだ。それが彼と私との間で交換されようとされまいと、ふたりの関係の中でお互いの中にその存在を確認することそのものが、私たちを性の市場から引きずり落としてしまった。

ホテル街を抜けると、ついさっきまで腐臭を放っていた繁華街は、回収車がまわったのだろう、またあっさりといつもの無表情をとり戻していた。早朝までの仕事を終えた派手なかっこうの若い男女が、眠そうに連れ立って駅に向かって歩いていた。彼らの多くが「性」を売り、金銭と交換に相手の欲望を埋める行為に加担している。私はそのひとりひとりに、どのように上手くその経済行為と自分の欲求を満たす性的行為を両立させているのか、聞いてまわりたい衝動に駆られた。
しかし生臭い夜はもう終わった。新しい朝が始まるのだ。そして後1ヶ月も同じ夜と朝を繰り返せば、やがて私が2年通いつめたあのお店も無店舗化してなくなる。○○ちゃんは自分の性欲がすっかり枯れてしまっているんじゃないかと不安になった。そうでなければあれだけのリスクを侵して、さらに店長とやらないなんておかしい。
しかし実際のところは単に店長は○○ちゃんの好みではなかったのだとも言えた。彼女が彼に言った様々な言葉は、自分の身を守るために、全部後から付いてきた言い訳だ。でもきっと風俗を始める以前だったら、彼女があの状況で男と寝ないなんてあり得なかった。なぜならそっちの方が遥かに「楽」だと思っていたから。
しかし今の彼女は違っている。イヤならイヤという権利があることを知っているし、さらにそれを相手にちゃんと伝えて話し合う言葉だって、ちょっとは身に付けたのだ。自分の性欲を感じること、考えること、そしてそれを守ること、また素直に従うこと、それらは矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、全部風俗という仕事を通して彼女が学んだことだった。だってもし「店長」が、あの不器用な男ではなく長身で猿顔で低い声のM君(お店の従業員)だったら……ふいに卑猥な妄想にかられて、○○ちゃんはにやけた顔で俯いた。日陰へと足を速める。とにかく、日焼け止めを塗らなくちゃ!!

投稿者 nobodymag : 21:27