2003/03/07(fri)
『曖昧な未来、黒沢清』藤井謙二郎

 

 

 小津安二郎にインタヴューする。
 鈴木清順にインタヴューする。
 相米慎二にインタヴューする。
 これにサミュエル・フラーとアキ・カウリスマキを続けてもよい。とにかく彼らの作品に感動したものだから作家に話を聞いてみたくなる、という心情は素直なものだ。しかし、いくつかの質問と返答が繰り返されるうちに、われわれの愚直な期待はしだいに裏切られてゆくことになる。「真の意図」「創造の方法」などもちろん聞き出せるはずはなく、彼らの語る言葉は、あの「傑作」がわれわれにもたらした感動や思考と食い違うことにもなりかねない。ああ、映画を追い続ける者は作家の言葉など信用してはならぬ、のか。

 黒沢清にインタビューする。
『アカルイミライ』の主題的なモデルは『北国の帝王』である、と彼は答えて語る。70年代を規範とする彼の作品にあって、たしかに「二世代間の対立と対決」という点でふたつは類似しているが、『アカルイミライ』を見てアルドリッチを想起した者はいったい何人いただろうか。これまた黒沢清のもっともらしい話しにはぐらかされた気がしてくる。
 そこで『曖昧な未来』の作家は戦略を練る。その結論は、『アクション、ヴェリテ』のゲームをすることである。彼に映画の「真実」を語らせるとわれわれはおもしろく説得されてしまう。だが、まあ語らせとおけばよろしい。そのかわりに、撮影現場での彼の「行動」をしっかりとカメラに収めておく。そして後に、その映像を黒沢清自身に呈示する。言葉に言葉をぶつける戦術ではなく、彼の身体的事実をつきつけるこの戦法。「真実=言葉」と「行動」のあいだで彼を動揺させ、挑発するのだ。「アクション、ヴェリテ!」。このとき彼を口ごもらせることができれば、ゲームはこちら側の勝ちだ。

(衣笠真二郎)

 

2003/03/06(thu)
『VICUNAS』富永昌敬

 

 

「早く死んでね」。

 日本語で、英語で、仏語で、あるいは正体不明の言語で、何度もこの言葉が繰り返される。「早く死んでね」。その言葉は相手への憎しみから生れる懇願でも、優越性から発せられる命令でもない。それはちょっとした挨拶みたいなものなのだ。別れ際に「バイバイ」と言うような感じで、彼らはさらりとこの言葉を口にする。「早く死んでね」。
 ちょっとした挨拶のようなものだから、彼らが誰かを殺すことはない。ひどく勤勉で、実務的な彼らは、そんな益のないことはしないのだ。いびきを直すため、煙草を得るため、サーモンを食べるために彼らは誰かの首をしめる。とても実務的、かつ即物的。うんざりするほど組織化されていて、同時に理解不能なほど混乱した世界に対して、実務的、かつ即物的であることで適応する彼らの姿は、目の前の世界を相手にDVを回す富永の姿そのものだ。そしてその姿は、とてもユーモラスであり、同時にとても感動的だ。
『VICUNAS』はひどく単純な映画なのだ。『VICUNAS』を観て「訳がわからない」と感じるなら、それは感じる方の視線が複雑になっているだけだ。『VICUNAS』が示すのはとても単純で、それゆえ理解不能な世界の様相と、そこで適応するための方法、それもとびきり単純な方法だ。真剣に音楽と向き合う人が、<雑音>と呼ばれる音そのものの単純さを畏れ、愛するように、『VICUNAS』の富永昌敬は世界の様相の単純さを畏れ、愛する。そして驚くほど実務的、即物的であることで、世界の様相を映画に反映してしまう。
 だからノミ退治薬のバルサンがマクガフィンになっているこの映画で、無意味から意味が生産されるその手捌きに目をとられて「訳がわからない」などと呟こうものなら、あなたには富永の不敵な笑みとこの言葉が待っていることだろう。

「早く死んでね」。

(志賀謙太)

 

 

2003/03/05(wed)
『エルミタージュ幻想』アレクサンドル・ソクーロフ

 

 

 ディズニーランドや、あるいは歴史的な鉱山跡でもいいだろう。レールの上をトロッコに乗って、前へと移動していく。決められた順路を進んでいくと、当時の道具の再現や等身大の人形が置いてあり、「当時の人々はこんなふうに休憩していた」とか、「このように作業していた」といった展示を見ることができる。「触ってはいけません」。基本的に一方通行であり、来た道を戻ることはできない。洞窟を抜け切ると、出口に着く。
 この映画も、それと同様に断片的な「過去」の再現の陳列、アトラクションなのであろうか。部屋から部屋へ。カメラは滞りなく移動する。「自由に」移動するわけでもなく、ましてや、迷っても彷徨ってもいない。それは案内人に導かれているからというよりも、通るルートが予め設定されているかのようである。どの扉をくぐり、どこで立ち止まり、どこで後ろを振り返り、どの人物を見るか。あるときはゆっくり進み、速く進みもする。そして決して逆行はしない。カメラは乗り物であり、プログラムされた、見えないレールの上を行く。それがレールであると感じるのは、線的な移動のためではなく、部屋から部屋へ、扉から扉へと移動していくからである。大きなひとつの部屋の中だけで展開するのであったら、そのような印象は受けないだろう。
 ひとつの部屋は、あるひとつの出来事を見せる、ひとつの単位だ。だから、ある部屋の住人は、その部屋からは移動しないし、隣接する部屋の性質が全く異なったものであってもよいのだ。部屋から追い出され、バタンとドアが閉められてしまえば、その部屋のことは、遠いものとなる。扉は、部屋と部屋の間の仕切りではなく、イヴェントが発生するブロック同士の連結部だ。あの建造物の「全体像」が見えてこないのは、部屋を渡り歩いているからであろうか。連結した部屋の集合体だからであろうか。
 レールに乗って移動し、さまざまなイヴェントを見せられる。それは遺物の展示なのか、過去の亡霊なのか、それとも「ロシア300年の歴史」なのだろうか。「歴史」、線形の、ブロックの連結。それならば、話は単純だ。新たな出来事が「歴史」に加われば、レールの最後に+1ブロック、すればよい。そしてレールは延長される。しかし本当にそうなのか。まだくぐっていない扉、通っていない雪道がある。そこにはレールが敷かれていない。レールは見えない。つまり鉄製ではない。プログラムだ。あのレールが「歴史」ではなく、あの建造物全体が「歴史」なのだ。そして+1されるブロックは、単に連結するだけではなく、全体に電流を流し、書き換えるのだ。そのたびにプログラムは組み直される。新たな部屋が加わったとき、レールは別のルートを通る。あの建造物は変形する。海の上で。

(清水一誠)

 

2003/03/03(mon)
『ヴァン・ゴッホ』モ−リス・ピアラ

 

 

『ヴァン・ゴッホ』はピアラが仕組んだ巧妙なウィルスだ。われわれ観客はどのようにこのフィルムと関係を結ぶのか、それが問題となる。
 観客の誰もが知っているヴァン・ゴッホの死を、その死への限定された時間を生きることが、このフィルムの最初の目的だ。どんなショットを撮ろうが、どんな編集を行おうが、ゴッホの死は誰もが知る伝記的事実であり、観客はスクリーンに映る全てを死へのサインと看做してしまう。映像は死への収斂に向かって生産されるかに見える。ゴッホの制作現場がほとんど映されず、ただ食べて飲んで歩く身振りばかりが映されて、ぶっきらぼうに繋げられようとも、それでもゴッホは映像を生産しているように見えるだろう。ピアラはまず、ゴッホの死という伝記的事実を使って観客を組織するのだ。われわれは彼の手付きによって見事に映像の生産に加担することになる。そして「痛み」や「苦しみ」の生産にも。
 しかし本当に「痛み」や「苦しみ」を観客が知るのは、『ヴァン・ゴッホ』のサインならざるサインに言葉を当てようとするときだ。例えば使用人がドアから姿を消した後に回るドアノブ、まるで幽霊が回しているようなドアノブ。あるいは下宿を営む家族や洗濯おばさんたちが為す生活の身振り。それらに言葉を立ち上げようとする、その行為こそがわれわれに「痛み」や「苦しみ」をもたらす。あくまで意識的に、ピアラは必ずそれらの映像を丁寧に反復することで、死へと組織された映像と観客の言葉を、咽の奥に押し込むのだ。
 そしてフレンチ・カンカンも2度、反復される。1度目は光が移ろいゆく川辺で、死へと組織された幸福な時間だ。2度目は、映像の生産に最も貢献するはずの「娼婦」の館で。そこに至ってついに、われわれ観客は生産を手放さざるをえない。生まれるのに失敗した言葉たちが、咽の奥でゴロゴロぶつかりあう。言葉を立ち上げられない「痛み」を、あの薄暗い娼館の一連の場面から、観客は知る。
 そうして新たに、関係ならざる関係を『ヴァン・ゴッホ』と結んだ観客、つまりわたしは、移ろいゆく光を克明に記録した川辺の場面への言葉すら積極的に生産することができない。
 1本のフィルム、あるいは映画と観客との関係は、生産を禁じられた言葉がもたらす咽の「痛み」なのかもしれない……。それはそれで、常に頭の片隅に留めておいていいことだし、片手に保持しておくべき重要なことだとも、わたしは思うのだ。

(松井宏)

 

2003/03/03(mon)
『刑務所の中』崔洋一

 

 

 刑務所をとりあげた映画といえば、いくらでもタイトルが思い浮かぶ。脱走、復讐、友情、愛情(ホモセクシャル)、そこにはドラマがあった。刑務所は徹底的に単調な生活を強いられる場なのだから、何かしら事件が起きなければ映画にならん、ともいえる。だが、『刑務所の中』では、とくになにも起こらない。山崎努のナレーションが詳しく刑務所生活を説明し、規律と秩序に従う受刑者たちをカメラが見つめる。日々は続いていく。
 日常とか、生活の日々といったものを描くのは映画がもっとも得意とするところだ。私たちの平々凡々とした生活をはじめて「リアル」に見せてくれたのはリュミエール愛娘のアブチャンだったし、異境の人々の生活をみせることで見る人の興味を釘付けにしたのはリュミエール社のニュース映画だった。それでは『刑務所の中』が、上の例でいえば後者に属するような、見る人に未知の世界をみせてくれるフィルムだろうか。たしかに、刑務所を撮ることで、「○○したら××になりますよ」みたいな未体験の興味を惹きたてたり、また不可視の権力を批判することもできるだろうが、この作品の場合それともちがうのだ。実用的な価値も体制批判も、今となっては知り尽くされてしまった観があるから。
 私事の経験になるのだが、先日、郵便局で振込をしようと思って窓口の前に立つと、局員が「先に順番整理券をお取り下さい!!」と強く言う。客は僕しかいないのに。数字を振った紙片を小さな機械から引きぬいて、もう一度窓口へ行くと「いらっしゃいませ」と局員は微笑した。
 官僚的仕事の効率性は、批判対象であるばかりか、すでに滑稽のレベルに達している。愚直で真面目な人間の営みに対して、鼻を鳴らして軽く笑えばいいのだ。日々は過ぎ行き、陽は昇り、そして暮れていくだろう。
このフィルムはいくつのエピソードから成っていただろうか。それぞれのはじまりに小題が付されていた。黒地の字幕が何度も現れるたびに、『月はどっちに出ている』を思い出した。あのフィルムも小さなエピソードがぶつりぶつりと途切れるように連なっていた。それらのあいだには必ず暗闇があったように思う。世の中の人々からは隔絶した夜を生きるタクシードライバー。彼らの日々に、フィルムの形を似せていたのだ。

(衣笠真二郎)

 

2003/03/02(sun)
『ボーリング・フォー・コロンバイン』マイケル・ムーア

 

 

 いろんな有名人が出る。テレビからのコラージュとインタビューだ。アメリカ大統領、全米ライフル協会(NRA)会長、ロックミュージシャン、市長、保安官、爆弾犯の兄、市民軍、兵器会社の社長などなど・・・この中の多くの人々が口にする言葉がある。それは、義務と権利。この映画を作ったマイケル・ムーアも同じだ。強烈な義務感がある。
 取り上げられる大きな事件は二つ。コロンバイン高校の銃乱射事件と六歳の子どもによる発砲事件。なぜこの事件か。理由は簡単だ。彼の育った、生まれた町だからだ。だからこの事件を扱った。そして彼にはあらかじめ答えがある。銃を持つことを容認する人物をいじめるのだ。爆弾犯の兄もいじめる。いじめて「ペンは剣よりも強い。しかし、ペンが効かない相手もいるだろ?だから剣がいる。」などと支離滅裂な答えを引き出したりする。NRA会長にいやみな質問をして、怒らせる。不機嫌にしたところで、犠牲者の写真を出すが、会長はそれも見ずに立ち去る。そこで明らかにおかしいカットバックを入れたりして、ひどい奴であるかのように見せる。批判的だ。
 ある映像が出てくる。セキュリティ会社のPR用ビデオだ。子どもが大きめなズボンを履き、そこらじゅうから銃を出し、終いにはライフル銃まで取り出す。明らかに笑える。笑っている我々はアメリカの外部の人間である。そしてムーアはこれがおかしいことをわかって使っている。
 アメリカ以外の国でカナダが出てくる。アメリカによく似た国、1000万世帯に700万世帯が銃を持ち、狩猟文化がある。けど、射殺事件は格段に少ない。それはテレビによる不安の加速と人種問題だとこの映画の中では言われる。けど、アメリカにはすでにそのことを気づいている人がいる。保安官や州の職員の中にそんな発言をする人がいる。ムーアが発見したわけではない。先に挙げたPRビデオがおかしいことにムーアは気づいただけで、発見したわけではない。ムーアはアメリカの中において、その位置を移動したに過ぎない。彼はアメリカの外部ではなく、内部にとどまり続けている。確かに外国に言及してはいる。それはアメリカとの比較のために過ぎず、常にこの映画の主語はアメリカである。
 ムーアは銃容認の人はいじめても、攻撃されるロック歌手をすごくまともな人のように見せても、決して決定的な一言は言わない。「アメリカはだめな国だ」とは言わない。大統領は攻撃する。銃にも批判的だ。兵器会社の社長をいじめる。爆弾犯の兄をいじめる。NRAの会長を悪者に見せる。今の政府も非難する。ウォールマートを叩きに行く。それでも彼は決してアメリカと言う国を批判してはいない。彼が非難するのはアメリカの現状や銃だ。国そのものではない。
 権利と義務。ムーアにもこれがある。だから故郷の事件を扱う。アメリカの現状を非難する。だけどアメリカという国そのものは非難しない。彼は立派なアメリカ人なのだ。その義務と権利がこの映画を作らせた。その点ではインタビューされる人々と同じだ。たぶん彼はアメリカという国は好きなのだ。

(百瀬郁男)

 

2003/03/02(sun)
『D.I.』エリア・スレイマン

 

 

『D.I.』は「フィクション」をーーそれがなけなし的であったとしてもーー信じている。そうでなければ、パレスチナ人の女ゲリラが武装したイスラエ ル人たちを“ニンジャ”的アクションによってばったばた蹴散らすシーンなど撮れるだろうか? 「『マトリックス』のブレッソン化」。このシーンの荒唐無 稽さを監督はそう言う。ならばあるいは「パレスチナのドラゴンボール化」なんて言ってもいいだろうか。女ゲリラは宙に浮き、襲いかかる弾丸を超能力によ り弾き返す。CGはここではハリウッドがそうするように現実らしくするためではなく、その逆、嘘であることを強調するために使われるのだ。
 フィクションと現実の距離。それが大きければ大きいほど、人はそのフィクションを荒唐無稽と笑うはずだ。この映画ではそれが逆手に取られる。バトルシ ーンが極限にまで荒唐無稽にされることによって、フィクションと現実との果てしない距離が測定される。現実の空間は歪められ、捻られ、虚構化されるが、 同時にそれは作家が現実をどのように見つめているのかをアクロバティックに伝える方法でもある。管見だが、CGがこのように使用された例を私は知らな い。そしてそれがコメディ映画としてなされたことはとても興味深い。監督スレイマン扮する主人公の男が無言であることから(そして何となく顔も似ている ことから)、キートンの名前がよく引き合いに出されている本作だが、実は空間をねじ曲げるそのやり方も、キートン的トリック撮影を思い起こさせる。つま り、キートン的バーレスクのデジタル化である。日本未公開作で恐縮だがマイケル・スノウの新作『Corpus Callosum』が試みていることもこれと似たようなことだと思う。ただし、それはあくまで映像表現の純粋な探求であったのだが。『D.I.』の場 合、それはある現実の状況を批評するための手段であると同時に、(懐古とは全く無縁な)バーレスクの現代的活用法にもなっている。

(新垣一平)

 

2003/02/26(wed)
『SWEET SIXTEEN』ケン・ローチ

 

 

 双眼鏡があれば全体を一望できるほどの、小さな街が舞台だ。世界の果てまで見通す視線など必要はなくて、窓の下を通るカワイイ娘の胸の谷間を覗くには、望遠鏡より双眼鏡の方が適している。狭い視界で深く見るよりも、より広くよりまんべんなく。リアム(マーティン・コムストン)が本当に見たかったものは夜空の向こうにあって天体望遠鏡越しに見るしかなかったのだが、この街には向こう側に隠されているものなど何もなく、すべてが表面に曝されている。
 クスリの売人の姿もその売買行為もアパートの一室から双眼鏡で覗けてしまうのだから裏の世界でもなんでもない。宅配ピザを隠れ簑にしてクスリを大規模に(といってもたいした規模ではないのだろうが)売り捌いているのが近隣住人にばれたとしても、それによってどうなるわけでもない。常に靄がかかったようなこの街の天気とは裏腹に、すべてはあまりに明瞭である。親友だった男を殺すように言われたら、殺さずにただ眼につかないようにすればいい。自分の顔を大っぴらに傷つけて難を逃れた親友が、結局最後までその姿を見せないのは全て見渡せるこの街にあっては異常な事態なのだ。誰の目撃情報があろうと彼は死んだのと同じことだ。
 母親の歓迎パーティの翌朝、リアムが3度目に姉に背中の素肌を見せる時、そこには前の2回のように痛々しい傷などはない。つるりとした肌を見せるだけだ。死んでもない男が死んだことになってリアムが恩恵を受けるのも、母親が息子の無気味なほどの献身にも関わらず恋人の元へ走るのも、リアムが母親の恋人を殺すのがちょうど16才の誕生日だなんてことも、さっきまであったはずの傷跡が突然すべすべの肌になったかのような、あまりにつるりとしすぎた違和感を覚える。
 それらの中でただひとつコムストンの左頬の火膨れのような傷跡が、隠されているでもなく、絶えず見えるわけでもない、微妙な存在感でこの映画の冒頭から最後までずっと張り付いている。この傷はもう痛くはないが、跡形もなく完治することは決してない。

(結城秀勇)

 

2003/02/25(tue)
『D.I.』エリア・スレイマン

 

 

「君にまじないをかけた/君は僕のものだから/いま僕は君のもの/君にまじないをかけた/だって君は僕のものだから」(「I PUT A SPELL ON YOU」)
 過去日本でほとんど紹介のされていないエリア・スレイマンは1960年イスラエル領ナザレ生まれのアラブ人、いわゆる「イスラエルのアラブ人」。この『D.I.』は長篇第2作目。このフィルムでは、イスラエル領ナザレ、パレスチナ側の東エルサレム、そしてエルサレムとパレスチナ自治区ラマラとの間のチェック・ポイントが主な舞台となる。
 こう書いただけで嫌な予感がしそうだけど、実はこのフィルム、コメディーなのです(というかバーレスク)。キートンやタチの名前が必ず挙げられるような。
  コメディーやバーレスクの詳しい定義は知らないが、仮に『D.I.』から引き起こされる笑いがあるとしたら、それは原因と結果、あるいは前と後との思いかけないつながりによる。例えば、冒頭の逃走劇(見てのお楽しみですので、詳しく書きません)に続いて登場する、決して来ないバスを待つ男(これだけ書かせて下さい)。バス停の前の家に住む男が門を開け出てきて言う、「バスは来ないぞ」。待つ男は返す、「知ってるよ」。「静謐な」とも呼ばれてしまいそうなフィックス・ショットと切り返しのこのシーンはそっくり3度反復されるのだが、3度目についにその原因が明らかになる。彼はそれまでフレーム外にあった壁にメッセージを書いて、向いのアパートの女へ求愛していたのだ、「君への愛で狂っている」と。彼が待つ原因はそこに、その場所に初めからあった。つまりこれは「不条理」では全くない、ということ。これは『D.I.』全体に言えることだ。スレイマンは「不条理」なんかに興味はない。
 原因と結果をひとつひとつ、例えそれが「不条理」に見えるのだとしても、丁寧に提示してつないでゆく。そのつながりが痙攣をもたらすのだが、それを押し進めればもちろん「存在すること」自体が全ての結果をもたらす原因となる。川上弘美が『ボディ・アーティスト』(ドン・デリーロ)への書評(23日付けの「朝日新聞」に掲載)で書いていた、「存在することが自然に生む『ずれ』」、それが『D.I.』なのだ。そんな人間たちが集まった状態こそが「普通」なのであって、しかも当然そこには痙攣がある。これはとても単純なことで、その単純さこそをこのフィルムは示してくれる。
 このことは、かつて「存在の不条理」だとか言われたんだろうけど、もう「不条理」ではないのだ。それは初めからそこに、その場所にある。シニカルでも何でもない。
 付け加えれば、この「ずれ」は決して他の超越者に止揚されない。というか、「わたし」が含む「ずれ」は常に「わたし」自身によって止揚されており、その意味で「わたし」は「わたし」に対して超越者となり、ナルシストとなる危険をも根本的に孕んでいる。しかし、それを摩り減らし消尽させるものとして、共同体と呼ばれる何ごとかがある。
 いや、そんなこと考えなくても、「笑い」ってそういうものなんだと。「映画」や「小説」も然り、だと。4月にユーロスペースで公開だそうです。反戦かレジスタンスか、『D.I.』がどちらかは自らの眼で確かめて下さい。

(松井宏)

 

2003/02/22(sat)
朗読『風の又三郎』黒沢清

 

 

 「それからそれから」、「それがら樹折ったり転覆したりさな。」
 「それから、それからどうだい」、「家もぶっ壊さな」
 「それからそれから、あとはどうだい」、「あかしも消さな」
 「それから」、「草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったり
       しました。」
 「それから」、髪の毛が揺れている。
 「それから」、どっどど どどうど どどうど どどう
 「それから」、鳥の鳴声が聞こえる。
 「それから」、「風がまた吹いてきて窓ガラスはまたがたがた鳴り雑巾を入れ        たバケツにも小さな黒い波をたてました。」
 「それから」、雨が降り始め、雨粒が辺りを叩く音が聞こえる。
 「それから」、窓ガラスが割れている。
 「それから」、カーテンが揺れている。
 「それから」、天井から水が滴り、その下の水たまりに波紋を拡げている。
 「それから」、吐く息が白い。
「風の又三郎」の「それから」と問う声が繰り返し聞こえてくる。宮沢賢治の『風の又三郎』を小泉今日子が朗読するという、黒沢清のヴィデオ作品であるが、そこにはその「それから」という問いが単調に繰り返されている。
 それはあまりに単調な反復なのである。時計が床に落ちている。針は止まっている。その時計は恐らくその上方の壁に掛けられていただろう。そして、その長短の針は、単調な円運動を反復していたに違いない。けれども、その時計は、いま、地面に落ちていて、その単調な円運動は停止している。しかし、その脇にある水たまりでは、そこに落ちる水滴が単調な着実さで、その水面に放射状に円の波及を反復させている。その波紋が拡がる間隔は、その丸い時計の針が刻んでいた正確で規則的な反復からすれば、不規則な単調さである。しかし今、その針の規則的な運動は、水面に半ば不規則に繰り返し立つ波が単調に反復されるその隣で、その時計の円運動は止まっている。「それから」と問う声の反復はそれほど単調なのである。
 声といったが、その声が声になることは決してなく、その声が声になるのを聞くことは決してできない。けれども、その「それから」という〈声にならない声〉がそこら中で、気が遠くなるほどの単調さで反復され、呟かれるのを聞くだろう。そしてその〈声にならない声〉の呟きを繰り返し聞くこと、その単調な反復は、ガラスにひびを入れ、天井に穴を穿ち、壁を苔や黴で覆って、時計や観覧車、メリーゴーランドの規則的な反復運動が停止してもなお、穿たれた天井の穴から落ちる水滴が水面に波紋をただ単調に生じさせる。
 しかし、〈声にならない声〉を聞くことは、欠落でも蓄積でもない。割れたガラスの欠如を埋めることも、壁を覆う苔を削ぎ落とすこともできない。それは朽ちたメリーゴーランドが動き出すことに覚える違和によってはっきりとわかる。〈声にならない声〉は通過するのである。そしてそのときだけの小さな黒い波の呟きを反復するのである。
 「それから」、9月12日、又三郎はそう呟きながら、通り過ぎてゆきまし
       た。「すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。」
 「それから」、「風はまだやまず、窓がらすは雨つぶのために曇りながらまだ
       がたがた鳴りました。」

(関亦崇尋)