2003/12/2(wed)
映画版『名前のない森』青山真治

 

 

「お名前は何でしたっけね?」 依頼人は濱マイクにそう声をかけつつ去っていく。マイクの手には依頼人から渡された札束の入った封筒が握られている。だいたい依頼人はマイクの名前を覚えることができないのだ。「ねえ、濱さん」 「マイクです」 「そうマイクさんね」 出会った日から娘の捜索を依頼する探偵の古根医務が覚えられないのだ。
そして娘がいるのは、得体の知れぬ「自己啓発セミナー」。「ここでは固有名詞は使わないでください。皆、番号で呼ばれています。あなたは57番」。
初冬の枯れ野が広がった森の空気は実に透明だ。木々の枝の一本一本の彼方にくすんだ青空が見える。「そう、森の奥にあなたそっくりの木があるんです。見に行きませんか」。「先生」と呼ばれる女性は57番を誘い出す。「あなたにそっくりな木」などありはしない。木は木だ。俺は木などではない。それに木はみんな似ているものだ。
そこには。本当に何がしたいのか探しに来る人々がいて、それが見つかったら、そこを去っていく。57番がいた短い間にも、ふたりが去っていった。去っていく人を、残った人々が無気力な拍手で見送る儀式。最初に去っていった男。翌日の朝刊には、無差別に人を斬りつけた男が捕まったと新聞に載った。そして57番と身体を触れあった21番の女性。彼女が次にそこを出ていくのだが、彼女は救急車に乗ってそこを出た。自殺を図ったからだ。
人々は距離のなかにいる。触れあうこともない。固有名で呼び合うことは禁じられている。絶対的な距離の中にいて、人々は自分と向かい合おうとするのだろうが、そんなときに見る自分が美しくあるわけがない。何もない冬枯れの森も、手つかずの自然という美辞麗句とは正反対の不気味な距離を、絶対的な距離を示してしかくれない。あなたとわたしの間にはどれほどの距離があるのか。そんな問題を立てることはできない。あなたとわたしの間には距離があること。その距離は踏破しがたいこと。それだけが重要なのだ。
1:1,66のフレームの中にひたすら遠く捉えられた人物も、果てしない自然も、私たちに距離を意識させてくれるだけであり、そのとき、私たちは単に番号で呼ばれるだけの「ひと」になり、おそらく野辺山近くに存在するだろう眼前の自然もまた、単なる木と山でしかなくなるのだ。
依頼された仕事──娘を連れ戻し依頼人に返す──を終えたマイクの手に札束の入った分厚い封筒が渡される。彼の成し遂げた仕事もまた、分厚い封筒の中にあるはずの金銭の総額という数に換言されるだろう。そのとき、依頼人は、マイクの名前を忘れる。この文章の冒頭に書いた台詞が原田芳雄の口から漏れるのはその瞬間である。57番から「濱マイク」に戻ったはずの彼が、クルマと携帯を取りに行くという口実で再び、あの森に向かわざるを得なくなるのは当然のことだろう。もちろん自らと同じように名前を欠いた森のなかにある、名前のない人と似ている名前のない木と対面するためだ。

(梅本洋一)

 

2003/11/26(wed)
『ロゼッタ』ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

 

 

働くということにロゼッタは執着する。ただ働くのではなく、“まっとうに”働くということ、“まっとうに”暮らすということ。彼女はいかなる誘惑も援助の手も頑に拒み、“まっとうな”生活を求める。彼女が求める“まっとうな”生活とは、“ここ=今居る場所”から抜け出し“そこ=自分が見つけた場所”に留まることだ。
彼女は走る。自分から仕事を奪おうとする者から逃れるために、仕事を与えてくれるはずの者を追い掛けるために、自分を追い回す者から逃れるために。彼女は仕事場を首になる度に、解雇を告げた者の手から逃げ出し、そこにある何か(ロッカーや小麦の入った袋)にしがみつきそこに居続けようとする。ここから抜け出すこと、そこに居続けること。ふたつの希望を、ロゼッタは走ることとしがみつくことで叶えようとする。だが、ただ走ることだけしかここでは許されない。自分の身体を床に押し付け動かまいとしながら、結局はまた街を走り抜けなければならなくなるし、彼女の母親もまた、固まったままの大きな身体を、彼女の手によって引き剥がされる。カメラは、誰一人どこかに留まることを許さないし、留まろうとする者をそこから引き離そうとする。仕事場から尽く彼女を追い出しながら、画面からは決して逃がさず執拗に追いかけ続ける。
画面に映る街の風景はみな敵意に満ちている。カメラの視線は常にロゼッタに寄り添い、全てのショットに彼女は存在する。画面の中に彼女がいない時、それはカメラの視線が彼女の視線と同一化した時であり、つまり、彼女を間近で捉えた場合以外のショットは、彼女が見たものとして風景が映り込んでいる。ロゼッタにとって、道は走り抜けるものであり、風景は流動体のように通り過ぎていくものでしかない。座り込み目の前を走り去る車を見つめていても、彼女の目は風景を捉えてはいない。彼女の視線の先にあるのはいつも具体的な対象であって、風景の中から探し出される一人の人物、一台の車、一つの存在である。今自分がどこにいるのか、どんな風景の中に座り込んでいるのか、彼女は何一つ見ようとはしないし、自分の今いる場所を認めまいとするかのように、視線を先へ先へと走らせる。一つの場所に向かって走り続ける彼女は、流動するものたちを立ち止まらせるために、自ら追い掛ける側へと変わろうとする。逃げ回る彼女を追い掛けた社長が、小さな部屋の中で単調な運動を繰り返すように、逃げ出す者、追い掛ける者、留まろうとする者の立場は、簡単に移り変わっていく。自分に好意を抱く青年を店から追い出したロゼッタは、留まるべき場所を確保したと同時に、再び彼から追い掛けられることになる。
彼は虫のように彼女の周りを付きまとう。スクーターの音を立て、視線を浴びせながら、ぐるぐると彼女を取り囲もうとする。追い掛けられたなら逃げ出せばいいし、追い出されそうならしがみつけばいい。だが、円を描きながら自分を内へ閉じ込めようとする音から、視線から、どうやって逃げ出せばいいのだろう。座り込んだ彼女はそこから引き剥がされることなく、否、正確には引き剥がされる前に、カメラの中から突然追い出されてしまう。スクーターのモーター音が止み、一本の手が彼女に近寄っていく。それは救いの瞬間ではない。だが、全ての動きが留まる瞬間であるかもしれない。

(月永理絵)

 

2003/11/15(sat)
『キル・ビル』クエンティン・タランティーノ

 

 

アクションにつぐアクションの連続なのに、眠くなってしまうのは単に私が疲れているからだろうか。最初こそいったいどうやって撮っているのかなどと考えてみるのだが、次第にそんなことはどうでもよくなり、無償のアクションを目で追うだけになる。金曜の午後の渋谷の映画館で2割程度の入り。このフィルムは話題作なのに、タランティーノのカヴァーストーリーになっている雑誌が書店に山積みにされているのに、映画館の入りは、このフィルムと同じようにお寒いばかりだ。
このフィルムのネタ探しにやっきになっている町山某の文章が新聞や雑誌に掲載されているが、ネタ探しなどする必要もあるまい。ネタ探しには、大なり小なり系譜学的な興味がつきまとうものだが、このフィルムを見ていて、ネタが気になる人がいるとしたら、単に変な人だ。B級グルメのラーメン店のスープの味を分析するのに似ている。このとんこつ味は博多の某店で、この焼き豚は宇都宮の某店で、このシナチクは札幌のすすきのにある某店で……とオタク談義が永遠に続くだけだ。そんなものがまったく無意味であって、今、出されているこのラーメンがうまいかどうかという重要な問題がまったく忘れ去られている。
そして端的に言って、このラーメンはまずい。オタク談義は細部のみをもって成立するが、スープの混合物、麺、シナチク、焼き豚、トッピングとそれぞれのパーツを分析したところで、ラーメンとは何かという本質的な問いの解答に至ることはないのだ。ラーメンとは何か、という議論がまずあって、その解答を仮構することから、細部の議論が開始されるのは筋道というものだ。つまりラーメンとは何かという議論が回避されているとすれば、それは、ラーメンというものが何の疑いもなく存在することを前提としているためだ。
『キル・ビル』は映画の存在を何のためらいもなく肯定することで、その在処を極めて曖昧なものにしている。映画という制度の内部にぬくぬく安住している様をこのように見せられてしまうと、ひょっとして映画の存在など、多くの人にとってどうでもよい問題なのかも知れないとさえ思えてしまう。かつて梶芽衣子が出演していた「B級映画」は「A級映画」が存在し得たからこそ成立していた。その背後には仮構しなくてもスタジオが存在しており、映画についてのコモンセンスが存在していた。だからこそ、そこからの迂回や逸脱が可能だった。人は距離を読む、あるいは測ることができたのだ。今、問題になっているのは、映画とは何かという問いに対する解答が自明なものではないことだ。それぞれの作品が、その解答を真摯に提出しなければ、映画そのものの存在など問題にもならない段階に来ている。遊んでいる暇はない。

(梅本洋一)

 

2003/11/6(thu)
『ブラウン・バニー』ヴィンセント・ギャロ

 

 

モード写真の現在を代表する男テリー・リチャードソン。彼の写真は一見ドキュメンタリー風(まあ写真なんてすべてがすべてドキュメンタリーでしかありえないが)に見えるが、しかし明らかな演出と、毒づいた笑いを誘うパロディックな意図がしっかりと見える。テリー・リチャードソンの父はかつての高名なファッションカメラマンであり、その父の作品(「VOGUE」などで見られたエステティック極まりない写真だ)をなぞるようでいて、軽くいなしながら笑い飛ばすような写真を、テリーは撮りつづけている。いや「軽くいなす」ではなく、かつて厳然と存在し時代を築いた父の写真から逃れることなど不可能だと、そしてその幻影が積極的に宿るように、自らの写真を撮りつづけている。それはもはや父と子との関係など超えた、もっと苦しげな系譜学をつくりだすだろう。露出狂でナルシスティックに見えるその写真は、そんな薄気味悪い意図が宿るゆえの必然なのだ。
「サイテーのオナニー映画だ」とか「ナルシスト野郎映画」だとか、あるいは「CUT」では「命賭けてオナニーしてるからすごいんだ」とか……諸説が唱えられている『ブラウン・バニー』だが、どうやらオナニーやらマスターベーション(ちなみに実際にオナニーしているわけではないが)などというのが大抵の問題点となっているのは確かなようだ。
しかしすぐにわかるはず。『ブラウン・バニー』をそんな文脈で語ってもほとんど意味はない。ギャロもまた、自らを俳優として世に出したシネアストたち、そんな父や母たちを背負うように、俳優「ヴィンセント・ギャロ」を撮影する。エイベル・フェラ−ラ、クレール・ドゥニ……。たとえば『ブラウン・バニー』はクレール・ドゥニ『ガーゴイル』と同じ物語を語っているように見えるだろうし、その幻影を宿らせるために「ヴィンセント・ギャロ」を露出せねばならなかっただけのことだ。
ゴツゴツとつながれたショットのひとつひとつが巨大で薄気味悪いブロックとなり、そのブロックひとつひとつに複数の「ヴィンセント・ギャロ」が住まう。その分裂具合と、しかしそれでもひとつに見えてしまう薄気味悪さ。そして、あるブロックは、感情移入させる直前で次のブロックへとつながれ、あるいはどこか別のフィルムへとつながれ、あり得ない物語へとあり得ない複数性を見せてしまう。ラストにくるクロエのフェラチオが、実際はいちばん最初に撮影されたというのも、それで納得できるはずだ。彼女のフェラチオは『ブラウン・バニー』という物語をたしかにつくりだしたが、だがそれはひとつの可能性がひょこっと実現されたにすぎず、『ブラウン・バニー』ラストに位置付けられることで、複数の物語の可能性を永久につくりだしてゆく。そこに映る「ヴィンセント・ギャロ」は、どこか現実味を欠いた、不気味な怪物性を獲得するだろう。
それはこのフィルムがデジカメで撮られ35にブロウアップされていることとも関係するはずだ。デジタルでのっぺりと捕えられた映像を、コマに分割する。その分割する過程にいくつかの「ヴィンセント・ギャロ」が紛れ込んでしまうような。その分割によって、ありえない「ヴィンセント・ギャロ」が生産され、複数の物語が生産される。単数の映像を複数にし、しかもそれがぼんやりと単数に見えてしまう。そして同じ意図のもと、クロエのフェラチオもラストに位置付けられた。『ブラウン・バニー』の「愛」とはそういうものだ。
この不気味さこそが「ナルシスティック」の一言を笑い飛ばし、そしてわれわれの「現実」を垣間見せる。うさぎ型の茶色いチョコレートは「愛」に至るひとつの武器なのだ。

(松井宏)

 

2003/11/3(mon)
『KEN PARK』ラリー・クラーク+エド・ラックマン

 

 

男子高校生なら泣いて喜ぶような薄っぺらなビートのパンクな曲でこのフィルムは始まり、カメラはスケートボードの動きにあわせて滑走する。主人公であるケン・パークの、「オッオッオッ」という掛け声にあわせて拳を突き上げる動きに興奮して、僕も16歳のパンク・キッズのつもりで拳を突き上げようとするのだけれど、どうも入り込めないくらいに音楽は薄っぺらい。その薄っぺらさは曲そのものよりも、その処理の仕方にある。ケン・パークの聞く小さなイヤホンから流れるその音楽は、スクリーンのごくごく手前までしか響かない。スケボーの疾走も、エンジンの空転に近い。
走査線の走りまくったアレアレの画面でケン・パークの自殺の瞬間は捉えられるのだが、その彼の顔には夥しい数のソバカスがある。彼のスケボーが鮮やかに滑走するスケートボードコースの表面は歪に隆起している。このアレアレで薄っぺらで歪な表面が「現代の若者」だと言ってみればそうなのかも知れないし非常にわかり良いが、そんなことどうでもいい。ケンの自殺の理由が全くわからず、他の登場人物の行動の動機などわからないように、彼らの凶暴さや欲望がどんなに過剰なものであったとしても、それはスクリーンの手前ギリギリで留まっている。このフィルムの主要な登場人物5人が一堂に会するのは、冒頭にたった一度出てくる写真の中だけである。ピーチーズはどう見ても彼女自身にしか見えない彼女の母親の写真をそっくり模倣することを強制される。悲劇は、荒んで歪んだ表面それ自体にあるのではなく、彼らの過剰さをそこに無理やりに閉じ込めてしまうことにある。
だから彼らはそこからなんとか這い出ようと、表面をまさぐり続ける、中に入ろうと指やペニスを突っ込む。でもその中でさえもひっくりがえされた表面に過ぎないのだし、それはえんえんと続く。僕らに必要なのは、もうひとつの表面なのだ。
それはスケボーが滑走する地面の隣に突如として出現する。テートが捕らえられたパトカーのフロントガラスを叩くのは、地響きかと思う程太い雨音だ。彼らを包む世界は、うすっぺらなんてもんじゃない図太さの音で、彼らの表面を叩くだろう。そのふたつの表面の邂逅によって、『KEN PARK』は非難とも同情とも無縁な場所で、肯定する。
もっともこのフィルムの終わりは形式的な終わりに過ぎない。むしろSAGGESの「WHO’S PARENT」が流れ出し左右から襲い掛かる声の層の中でこそ、画一化し同一の平面に閉じ込めようとする巨大な何かへの、我々の「もうひとつの表面」の闘争は始まるのだ。

(結城秀勇)

 

2003/10/31(fri)
『ティアーズ・オブ・ザ・サン』アントナン・フークア

 

 

そういえば本日の大学の授業で習ったのだが、環七の地下には巨大なトンネルが通っているらしい。「防災地下河川トンネル(調整池)」と称され、大雨時に河川が溢れそうになると雨水をそこに流す。只今も拡張工事中とのことだが、直径12.5mで、まあなかなかにでかい。即座に『ダイ・ハード3』を思い出しながら、『踊る大捜査線』あたりもここでアクションをやってほしいなーなどと考えてしまう。あるいは工事のドキュメンタリーでもいい。仄暗い地下トンネルでのチーム作業をひたすら撮りつづけてラストで地上に出てみるとそこは環七……。これはとてもいいのではないか。
と、そんなことはどうでもいいのだが、ナイジェリア内戦からのアメリカ人女医脱出作戦を試みる『ティアーズ〜』は、その大作っぷりにもかかわらず非常に良質な小品である。やたらとでかく見えるシネスコに大佐ブルース・ウィルスと女医モニカ・ベルッチのアップを映し出すが、期待されるふたりのドラマはまったく生起しない。ドラマは完全にここで排除される。女医に頼まれ、難民たちも救出する羽目となるのだが、それもまた大したドラマではなく、ただ単に乗り越えるべき試練として、彼らのチームプレイを見せるため、そこに提出されるだけだ。アントナン・フークアが見せるのは特種訓練を受けた七人の侍たちであり、行動する機械と化したチーム、黙々と作戦を実行するホークス的なチームだ。たしかに、彼らのサインプレイの正確さといい、戦闘シーンの規律と正確さといい、こんなに正統的な戦争フィルムがいまどきあっていいのかなどと思いもするが。ただ一方でこれは『キプール』のような、非−アクションへと至る泥沼を思い浮かばせもする。
とにもかくにも「いろいろな可能性をすべて考えることなどできない」とブルース・ウィルスに語らせる『ティアーズ〜』の、ある種の潔さと愚直さ、そして、大作の体裁を取っておけば後は何やってもいい、という演出の太々しさは、やはりときに存在していいし、存在すべきだと思う。だから次回作は、ぜひ環七の地下トンネルで。

(松井宏)

 

2003/10/20(mon)
『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』リティー・パニュ

 

 

カンボジアのクメール・ルージュ政権下、民主カンプチア共産党のための絵を描かされていたひとりの絵描き。彼は、党による大量虐殺が行われた収容所のたった3人の生き残りのうちのひとりである。当時行われていたことの情景を絵画にし記録しようとしている彼は、その情景があまりに恐ろしすぎるため、本当にあった事なのかどうかわからなくなったのだという。忘却や抑圧以前に、彼らの記憶はあまりに危うい場所に立たされている。死や恐怖の記憶を留めておくために必要なのはなんなのか。告発だけではあまりに不十分だ。
その絵描きは言う。「他にもたくさんの絵描きが絵を描かされていた。中には私より腕の良いものもいた。なぜ彼らでなく私が生き残ったのか」。幸運などという言葉とは、まるで縁のない響き。もうひとりの生き残りは言う。「党に私が捕らえられたときに、家族さえ無事であれば頭を丸めようと毎日神に祈った」。だが捕らえられた彼は生き残り、残された家族が殺された。なぜ「彼ら」でなく「この私」が、その問いが峻厳に繰り返される。
収容所の当時の看守がもらす、「我々は党の命令に従っただけであり、我々もまた被害者である」という紋切り型を単純に告発するようなことをこの作品はしない。「時代が」「党が」「皆そうしていたのであり」「そうしなければ私が殺されていた」。彼らが自分ではない「彼ら」について語ろうとするのをカメラは静かに捉える。そういったシーンは最小限に抑えられており、そうではなくて監督が彼らに要求するのは、彼らが当時書いた報告書を読むこと、それについて思う所を述べること、そして現在虐殺博物館として保存されている収容所の誰もいないだだっぴろい空間で当時の振る舞いをそのまま再現して見せることだけだ。「彼らは一般論としての当時のことならば、様々なメディアに対して流暢に語る」、リティー・パニュはそう言う。
虐殺された膨大な被害者の中からひとりの人物を探す絵描き。積み上げられた写真の山の中から一枚の写真を見つけ出すが、20数年の時を経て写真は互いに付着しており、引き剥がす際にべりっと音を立てて肖像の真中を深い傷が走る。
「静かにしないならば、棍棒を食らわせるぞ!」、広い部屋でただひとりそう叫ぶかつての看守は無数の亡霊に囲まれている。「静かにしないと棍棒だ!と、言って鍵をかける」「さっさと寝ろ!と、言って脇腹を蹴る」、言語化され映像化されたその行動が、生き残った者たちや後から来る者に、当時の記憶をわずかながら返却する。「我々は党の命令に従っただけであり、我々もまた被害者である」、この言葉の真偽を問うのはもはや意味を持たないだろう。『クメール・ルージュ』に映し出されるすべての人物がこの問いを逃れられない。なぜ「彼ら」でなく「この私」が。

(結城秀勇)

 

2003/10/8(wed)
『座頭市』北野武

 

 

突然だがターミネーターはかなり強いほうなのではないか。『T3』では、ターミネーター同士のカーチェイスが繰り広げられていた。そこでは彼らの強さは、お互いをいかに傷つけるかではなく、周りにあるものをどのように破壊するかで見て取れる。彼らは両方ともちょっとやそっとでは壊れないのだから、壊れやすいものから順に壊れていく。女性型の最新モデルTXは腕からビームを出せるにもかかわらずクレーン車で街を破壊する。シュワルツネガーも負けじとクレーン車を縦転(?)させる。トイレの便器を壊す、壁を壊す。あたりを壊滅させておきながらも、シュワルツネガーよりはるかに強いらしいTXの体は、たとえ傷ついてもすぐ元通りだ。
座頭市も相当強いかもしれない。短いショットが積み重なる殺陣シーンでは、動きのプロセスを目撃することができぬほどに彼は速い。その場所はどこか、何がどこにおいてあるか、空間構成はすべて彼の動きの止まった後にわかる。さらに、彼の刀は障子や襖はもちろんのこと、石灯籠や人体すら貫通して滑らかに切り裂く。それは刀が尋常でなく鋭いとかいう問題ではなく、この世界の彼以外のすべての物質がとてもやわらかく滑らかな材質でできているかのようですらある。速く、硬く、強い。刀についた血は赤黒く凝固するまもなく振り払われ、はじめからなにひとつ斬らなかったかのようなきれいな刀身が光る。
疵ひとつないメタルボディ。強いはずだ。それにしても、市に唯一傷をつけることのできる浅野忠信のあの弱さは何だろう。市=たけしの言う通りにやって、負ける。まるで相手にならない。それでも彼が市につける傷だけが、唯一の傷なのだ。刺青を描いたさらにその上の表面に浮かぶ赤いデジタルの点灯は血などではなく装飾的な記号に過ぎない。撃たれたら死んだ振りをするのと同じ原理の「お前はもう死んだ」ことをしめす赤いバッテン。もしあの始終浮かべた薄笑いの下で、市=たけしがあれだけ多くの人を斬ることのどこかに苛立ちがあるのだとすれば、あらゆる敵のふがいなさ、世界全体のもろさ、滑らかさに対してではないだろうか。だとすれば彼は相手を間違っている。
家が焼けたことや親が殺されたこと、不当な苦しみを受けたこと、それらのサイドストーリーが収束して祝祭になってしまうような世界のなかで強さを誇ることほどむなしいものはない。『T3』では、壮絶なカーチェイスの後、のどかな郊外の住宅街を破壊しつくしてターミネーターたちは去っていくが、物語の最後にわかるようにこの破壊は決して修復されることはなかったのだ。
家の周りをぐるぐる回っている村の若者の言う通り、いまは戦時下だ。この程度で最強を名乗られては困る。言うまでもないが、いつもいつも深い傷を負い続ける世界最強の男はもっと強い。

(結城秀勇)

 

2003/10/1(wed)
エリア・カザンの死

 

 

エリア・カザンが94歳で亡くなった。新聞には追悼記事が溢れている。多くは『エデンの東』『波止場にて』『欲望という名の電車』など「名作」を挙げると同時に「赤狩り」で共産党員の仲間の名を証言した「裏切り」に触れ、そのことで彼を批判する言説が多いが、彼の代表作はそうした裏切りによる苦さに溢れているという倒錯した結論を記している。特に川本三郎などは、自らの立場とカザンの「苦さ」を重ね合わせたような追悼文を書いている。また50年代のハリウッド映画は、カザンなしには語れないという文章も散見した。
私は、その同時代ではないにせよ、上記の「名作」を見たが、正直、「名作」である理由がまったく分からなかったし、今でも分からない。もちろん『アメリカ、アメリカ』は傑作だと思うし、「赤狩り」以前の『影なき殺人』は素晴らしいと思う。そして『草原の輝き』のボリス・カウフマンのカメラも称賛しないわけには行かない。だがアクターズ・スタジオ流のスタニフラフスキー・システムを背景にしたマーロン・ブランド、ジェイムズ・ディーンなどの演技は、(映画でも舞台でも)我慢できない。一挙手一投足が、しかるべき感情の「表象」になり、そのしかるべき感情によって台詞のトーンまで決定されて行く有様は醜悪であるとさえ思う。50年代に大人として映画を見ていたわけではないので、事後的に考えたり感じたりしたことにすぎないが、50年代のハリウッドならば、ニコラス・レイやサミュエル・フラーの方が「映画的」才能に溢れていると信じているし、「裏切り」の「苦さ」ならば、カザンではなく、絶対にロバート・ロッセンだ。『身も心も』や『ハスラー』の底抜けの暗さ、「裏切り」から10年を経てやっと撮影された『リリス』の「苦さ」と「みずみずしさ」の混在はカザンのフィルムには見られない。蓮實重彦がかつて書いたことだが、50年代の苦さと暗さはジョン・ガーフィールドの身体にこそ刻印されていて、だからこそ彼が主演した『身も心も』はフィフティーズの最高傑作かもしれない。そして何よりも非米活動委員会から告発されたガーフィールドは、その翌年に心臓発作で亡くなった。またブランドやディーンと同じアクターズ・スタジオ出身でも『ハスラー』のポール・ニューマンの演技はより決定不能な感情を見せてくれており、それは後にベン・ギャザラや、もちろんジョン・カサヴェテスのそれに繋がることになるだろう。つまり、カザンは、現在の映画にとって何かを残したのだろうか?

(梅本洋一)

 

2003/10/1(wed)
『ドッペルゲンガー』黒沢清

 

 

役所広司演じる早川の前に彼のドッペルゲンガーが現れる。早川は、頭の中でやりたいと思っていても、実際にはその意志を行動に移すことができない。そんな彼の前に、彼の意志を実際に行動に結びつけてしまうものとしてドッペルゲンガーが現れる。早川は彼の意志を体現していて、ドッペルゲンガーはその行動を体現している。一方に意志があり、他方に行動がある。早川とそのドッペルゲンガーの関係は一見こういう風に見えないでもない。早川が開発に取り組んでいる「人工人体」を完成させるためには、人間の意志と行動を別々に取り扱って、その上でそれらを結びつける作業が必要なようでもある。中に座った人間はあれをする、これはしないという意志だけを働かせ、「人工人体」はその行動だけを担う。『ドッペルゲンガー』では、意志と行動とが別々に扱われているかのようなのだ。
しかし果たして本当にそうだろうか? 目で見ることもできず、耳で聞くこともできない「意志」ではなくて、映画が記録するのはあれやこれやの単なる「行動」でしかないということが言いたいのではない。おそらくそうかもしれないが、『ドッペルゲンガー』の提示するのは、それほど単純には図式化できない、もうちょっと複雑な世界なのだ。
つまり、早川は想像上の世界で思いを巡らすだけではなく、当たり前のようにいろいろな行動をとるのだし、彼のドッペルゲンガーもただ動いているだけではなく、何かを考えたり、あるいは何も考えていなかったりする。早川が意志を強く働かせて、消えるように念じたとしても、ドッペルゲンガーは消えたりはしない。それは、変わらずそこにあり、早川もドッペルゲンガーもそこにいる。ふたりが戦って、どちらかが勝って一方が残ったということは、だから、意味をなさない。早川もいて、そのドッペルゲンガーもいる。それらはときには自分の意志とは無関係に行動し、自分なしでも動きつづける。そして、「人工人体」も純粋に行動だけを担うのやめて、自動に動き出し、自由に腕を回して前へと進んで行く。そうして崖へと向かった「人工人体」はそこから転落するだろう。
「おれがお前を認めているように、お前もおれを認めろ」。ドッペルゲンガーは、早川に向かって、あるときそう発言する。それは、自分の意志が生み出した物をではなく、そんなものとは無関係にとつぜん存在してしまったものを認めろということだ。私たちもそういった世界に生きているはずだ。

(須藤健太郎)