2003/09/26(sat)
『I heard the ground sing』倉地久美夫

 

 

倉地久美夫の音楽は限られたところでしか聴かれていないだろうし、常に特異な存在として捉えられるものかもしれない。確かに彼が紅白歌合戦に出場することなど万が一にもあり得ない話なのだが、出場すべき人ではある。レコ大やミュージック・ステーションでは駄目で紅白こそふさわしい。ただし現在の一瞬の余裕もない紅白では意味も無意味もない。仕方がないので今年の大晦日は私的紅白リストをつくり、我が家で音楽を聴くことにしよう……。
つまり私が言いたいのは、倉地の音楽が古くも新しくもないということだ。変と言えば変かもしれないが、変であることに価値があるんじゃない。彼の音楽を変だから聴く人なんてひとりもいないはずだ。確認を取ったわけではないけれどそれは断言できる。
倉地の音楽は500年前からあるものと5秒前からあるものが隣合わせているかのようにある。それはもちろん歌や誰も書かないような歌詞によるところもあるだろう。が、彼のギターの音もかなり大きな要素かもしれない、新譜『I heard the ground sing』を聴いてまずそう思った。ギターの音が正しいのだ。正確な音ということではなく、間違いない音であるという意味で。音の数(量)という点では幾分多すぎになるところもないではないが、それが決して主張されることはない。それぞれのものがそれぞれの時間を持ってじっとそこにあるように、それぞれの音があるように聴こえる。
この新譜はトリオ演奏(倉地のギターの他に菊池成孔のサックスと外山明のドラム)が基本となっているが、ギターインストの曲が1曲入っている。もちろん倉地はまず歌手として存在するのかもしれないが、その曲もまたすばらしく、「中央公園」というそのタイトルがまた正しい。季節を感じる公園でどの季節に聴くにもふさわしいような。

(黒岩幹子)

 

2003/07/19(sun)
『MUSICAL FROM CHAOS』DCPRG

 

 

『アイアンマウンテン報告』が出たのが2001年。あれから2年。その間に行われたライブの模様が収められたのが本作である。デート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンはDCPRGとジャケットでのバンド名の表記が短くなり、大友良英が脱退し、新たに4名加わった。菊地成孔はここ1年間、精神分析に没頭し、アメリカ(ペンタゴン)とイギリス(ロイヤル・ガーデン)はイラクを攻撃していた。
『アイアンマウンテン報告』の1曲目である『CATCH22』のライブ音源が5つ入ってるのが本作のDisc1で、Disc2にはジミ・ヘンの『hey joe』を除く1stからの曲と2曲が収められている。『アイアンマウンテン報告』の中で聴ける『CATCH22』の「何か」が起こるまでの緊張感、そして何かが起こった時の衝撃があった。ここでいう何かが起こるの「何か」はゆるいフレーズの反復から突然テンポが上がり、狂いだしたかのように音が噴出してくることだ。Disc1に収録されている5つの『CATCH22』は、ベースであれ、ホーンセクションであれ、ギターであれ、ドラムであれ、それらが反復することで作り出される、ゆるくも張り詰められた緊張感は次第に増していくのだが、日によって(アルバムだから曲によって)その緊張を留めたままであったり、これでもかといわんばかりにブレイクをはさみつつ畳み掛けるように音が溢れ出していたりもする。 Disc2で聴ける楽曲は、Disc1で聴けるような緊張感を持ち合わせつつも、その上に被さってくるギターやホーンセクションの自由なサウンドは体を揺り動かす。
 本作における緊張感が生み出しているグルーヴはより自由に、よりアグレッシブに観客を「ダンス」させる。そしてブレイク中に聞こえる歓声はグルーヴを作り出しているDCPRGに対する最大級の賛辞だ。そして、パリで録音されるはずであった神経分析に没頭していた男が率いるデート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンの次のアルバムが待ち遠しい。それまではこのアルバムと『アイアンマウンテン報告』とライブで我慢するしかないのが痛いところだ。

(茂木恵介)

 

2003/05/12(mon)
『one word extinguisher』PREFUSE 73

 

 

 久々に痛快なアルバム。テクノとは違うし、エレクトロニカとも違う。ヒップホップでもなく、リミックスでもない。このアルバムはこれらの要素が当てはまらない。テクノ、エレクトロニカ、ヒップホップ、リミックス、現在のエレクトリックいや今の音楽シーンを牛耳るこの領域にはこのアルバムは当てはまらない。ただただ痛快の一言であります。
 しかし、このアルバムは、というよりもこのPREFUSE 73なるアーティストはこの現在のメインストリームと全く縁の無いものではない。むしろメインストリートのど真ん中をものすごいスピードで突っ走ってる奴だ。このものすごいスピードというのがキーワードである。普通のスピードなら先に上げたジャンルにつかまってしまう。そして、他の領域に飛び出していくことももう無くなる。昔、『紅の豚』で、豚が言っていた「飛べない豚はただの豚だ。」とほぼ同義である。しかし、驚くべきことはこのものすごいスピードを生み出しているのが一人の人間になされているのが何よりもまず挙げなければならない。普通、こうしたことをするのはバンド、ユニット、そして一人でやっていようとも後ろ側にはプロデュ−サーがいる。しかし彼はリミックスを用いたり、だれかとコラボレーションをしていても、作業をしているのはスコット・へレンただ一人だ。そして群れを成すことで生まれる速さによってメインストリートを猛スピードで突っ走るはずなのに、彼はたった一人でそれを成し遂げる。
 では、それは何故か?それは彼の現在地、つまり彼の現在生息する環境を挙げなければならない。彼の本拠地はアメリカではなく、スペインだ。父親の故郷がスペインなのだそうだ。これがどう先の疑問とかみ合うのか?それは、彼の作り出す音楽が一定のスタジオでしか出来ないという場所的な制約がない。というよりむしろ彼自身がどこにいようがPCさえあればそこがスタジオになってしまう。これはもう、時代のなせる業というべきかブロードバンド万歳とでも言いましょうか、もう以前のように一つのスタジオに何時間もこもることはなくなってしまうのだろうか?完全にはなくならないが、こうした動きはどんどん増えてくるだろう。この情報伝達スピードの飛躍的な発展が彼をこれほどまでに気持ち良いくらいにメインストリームを駆け抜けさせるのだろう。

(茂木恵介)

 

2003/04/11(Fri)
『Chamber orchestra in CHING-DONG Stadium』
本田祐也+Theatre PRODUCTS
(「現代の音楽展2003 室内オーケストラの領域V」@上野文化会館小ホール)

 

 

 小さい頃、母に連れられて行った酉の市は、記憶の中でとても賑やかだ。夜の闇に浮かび上がる提灯の波、叫び狂うテキ屋、巨大な熊手ばかりの店店店・・・、目にしたり耳にしたりするものどれもがあまりにも唐突であまりにも過剰で、私はただただあっけにとられ、それは「賑やかさ」というような体験として記憶に残っている。

 とても丁寧に、しかし何か震えるようにか弱く始まったその出だしから、妙な胸騒ぎが止まらない。だいたいにおいて、指揮台の上に本田裕也本人がいないことがどうもおかしい。TVショーに出てきそうな「いかにも」な年輩の男性指揮者が指揮棒を振り、ファッションの基調はあくまでブラックパンツスーツかブラックロングドレスな「いかにも」優秀そうなオーケストラが良質な音を奏でるその風景が普段にも増してやけに軽薄に感じられてしまうのは、会場内に場違いなまでに不穏な気配が充満していたからだったようにも思う。すでに曲が始まっているのに、まだ何も始まっていないかのような緊張感・期待・予感が場内を満たしている。
 ふいに前方の客席に座っていた女性が立ち上がり、来ていた黒いコートを儀式的な慎重さで脱ぐや、コートの中からはオーケストラの面々とは対照的な、レースを基調として金や黄色をその上にあしらった驚くほどに派手で自己主張の強い衣装があらわになる。女性はそのままおもむろに壇上にあがると、そこにゴロリと転がっていたスピーカ(スピーカ!いったいいつからそこにあったのか!)にごく自然に腰掛けた。オーケストラは何事もないように丁寧な演奏を続けている。一呼吸。二呼吸。その女性がいきおいその腰掛けたスピーカを打楽器のように激しくリズミカルに叩き出した瞬間に、その原始的で高揚感のある音を合図に不穏な何かがズルリと動きだしていった。ゆっくりと2人が客席で立ち上がると、儀式的な慎重さと確実さで、一様に地味なコートを脱ぎ捨てる(ご丁寧にコートを脱がす役回りの人もいる)。コートの下からはやはりレースを貴重としたやけに色とりどりな衣装があらわとなり、ゆっくりと先ほどの女性と交代で壇上に上がる。「いかにもな」指揮者の背中、つまり客席から見て壇上の手前に立ち、深くゆっくり一礼。一呼吸。はじけるように演奏を始める。ふと気づく。いつの間にか前方の客席の中に、本田裕也が立ち上がっていて、裸電球のスタンドを手元灯に客席から壇上を斜めに見つつ虚空をひっかくように指揮をしている。その指揮に導かれるようにして、あるいはその指揮とは全く無関係なように、一人また一人と立ち上がる。彼らはやはり儀式的な慎重さで一連の「しぐさ」を行うと、ゆっくりと壇上にあがり、荒削りでエモーショナルな演奏を断続的に続けていく。一連の儀式的な慎重さと演奏の生々しさとの荒々しいバランスに、いつのまにか唾を飲み込むのにも気を遣うほどに私の身体は緊張を強いられてしまっている。ふいに、何人かが会場の中廊下に純白の布を転がし始めた。敷き詰められた白い布の上に、いくつか裸電球のスタンドを置いていく。いつのまにやら十数人にもなった「派手な」楽団員は一人また一人と、会場に敷かれたその布の上を「派手な」身振りで闊歩していく。演奏という名を借りたファッションショー?音楽とファッションのコラボレーション?。それはそんな美しくもなく単純でもなくオシャレでもない。ワンカットで撮り続けた無編集のフィルムのように、無駄なもので溢れているし、恐ろしく冷静な構築と恐ろしく適当な思いつきとが同居し、素晴らしい装飾も創意もありきたりの表現も特に関係なくまぜこぜになっている。遠ざかる音、近づいてくる音、ちらつく派手な色彩、すれ違う人影、派手な身振り、大人しく佇むオーケストラ、重なり合う音の固まり、なすすべなく巻き込まれてしまった観客達の息をのむ姿、裸電球のスタンドが照らし出す場内、スポットライトが照らし出す壇上、会場の壁を彩るコンクリートの模様、全てを指揮しているような指揮していないような本田裕也のしぐさ、オーケストラに指揮を続ける指揮者、もはや正面性もなにも失ってしまった劇場空間。いつの間にかどうしようもないくらいに「壮大に」賑やかになってしまった場内で、私はただただ痺れ、続けば続くほど「賑やか」になるこの時間が少しでも長く続くことを願った。

あるいは、オーケストラとは「賑やかさ」のことではなかったか。

http://www.chanchikitornade.net/

(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所))

 

2003/03/24(mon)
ローリング・ストーンズ@東京ドーム(3/16)

 

 

「4回目のドームだぁ」
『Brown Sugar』を歌い終わったミック・ジャガーは開口一番こう言った。その瞬間、ドーム内の比較的年齢層の高い観客からの歓声がこだました。ここに来る前日、テレビのニュースで北朝鮮に拉致された人が来ていたと取り上げていたが、この日もその人と同い年ぐらいの人達が多かった。そのせいかビールの売り子はあくせくビールを配っていた。会場時間になってもドームのゲートは開かない。雨の中ただただ待つ。徹夜明けの体には身にしみる寒さだ。中に入りだだっ広いドームは徐々にひとで埋め尽くされ、30分遅れで照明が落ち、キース・リチャ−ズの歯切れの良い変なリズムのカッティングの音が耳に入り、ステージ上は照明に照らされ後ろのスクリーンは徐々にステージ上のメンバーの姿を映していく。ミック・ジャガーはくねくねと腰を振り、チャーリ・ワッツは黙々とリズムを刻み、ロン・ウッドは笑みを浮かべながらギターを演奏している。大型スクリーンの画面が徐々に広がっていくのとほぼ同時にミックもサイドに伸びたステージを移動する。CDで何度も聞いた『Itユs only Rockユn roll』の入りを間違えた瞬間、スクリーン上に映った女性に「今晩どう?」と聞くミックを見ると、目の前には写真や映像でしか見たことないローリング・ストーンズがいるのに気づく。
 ステージ中央50mほど離れたところにこじんまりとしたステージがある。キースが歌った曲が終わり、そのステージの真ん中にすっぽりと空いた穴からドラムセットが浮かび上がってきた。そしてゆったりとしたジャズがかかる中メンバーが花道を渡り演奏を始める。そこでは何か演奏したかわからないくらい演奏しているはずのマディー・ウォーターズの『Manish Boy』を演奏していた。
 『Sympathy For The Devil』の時ステージは赤と青の照明が交互に照らされ、スクリーンも同じく映像の上に赤と青の画像処理を施したような映像が映し出されているのを見た瞬間、『One Plus One』を想起させた。映画の中には若かりし頃のメンバーの姿や今は亡きブライアン・ジョーンズもいた。それから35年経った今、彼らは髪を短く切り、顔には無数の皺をたくわえ東京ドームにいて、その中に35年の間に生まれた20歳の私がいる。35年間の中で何回やったかわからないこの曲を私も何回聞いたかわからないが、今日のこの曲はこの瞬間しか聞けないものであって決してCDでこの曲を聞いても同じようには聞こえはしない。

(茂木恵介)

 

2003/02/21(fri)
ソニック・ユース@赤坂BLITZ(2月18日)

 

 

 昼過ぎまで降っていた雨が止み、家を出たのだがさすがに寒い。そのせいでバイクのエンジンのかかりも悪い。横浜でバイクを停めて東横線で渋谷まで行く。渋谷について表参道から地下鉄に乗ろうと思っていたので表参道へと赴いたわけだが、駅を出たとたんに小雨がぱらぱらと降ってきたので急ぎ足でキャットストリートを抜け、表参道駅へと向かう。赤坂ブリッツに着くと会場の周りには観客がもう列をなしている。最後尾についてチケットの番号が呼ばれるまで待つ。中に入り、トイレに行こうと思いトイレの方へと向かうと女子トイレと男子トイレの間でキム・ゴードンが雑誌か何かの撮影をしていた。
 前座の女性二人の演奏が終わり、ステージがソニック・ユースのセットへ変えようとスタッフが忙しそうに右へ左へと動く。電気が落ち、サーストン・ムーアが一人ステージに現れた。その後ろからリー・ラナドル、スティーヴ・シェリー、ジム・オルーク、最後にキム・ゴードンが登場し自分達の機材を持ちカウントが入る。一曲目は昨年出たアルバムからの少しメロウな曲だった。曲が進むにつれ、徐々にメンバーの動きも大きくなっていく。ジムとキムは曲ごとにギターだったり、ベースだったりとめまぐるしく楽器を変えている。両サイドにいるリーとサーストンも同様に曲ごとに機材を変える。途中、曲のイントロを間違えたサーストンがステージ上ですっ転ぶ以外目立った行動は見られず、終始淡々と演奏していった。
 ジムの加入で音圧や、ギターの本数が増えることでバッキングに専念しなくていいのか、両サイドのリーとサーストンはバッキングから離れ、ノイズを出したりフィードバックを生み出したりと自由にギターと戯れていた。反対にジムは仕事に徹するかのごとく黙々とバッキングを弾いていた。そんな中、曲の間奏部分でリー、サーストン、ジムがノイズを出している時があった。キムとスティーヴは淡々とリズムを刻んでいる。ギター三人は無茶苦茶に演奏しているのか意図的にしているのか判別がつきにくかったがジムはノイズを出している時、彼は髪を振り乱し頭を上下に振っていた。スティックやスライドバーを使って演奏している時の彼は薄ら笑みを浮かべながら演奏していた。弦を無理やりスティックで引っ張ったり、擦り付けたりして出される音は単体で決して丸い音ではない。キュイーンとかグワーンなどといったいかにも硬質な音なのだが、その三つのノイズやフィードバックの音は重なることにより太くなり、音と音との衝突による残響でノイズの持つ鋭角的な部分が薄れていく。そして残響は音と音とがぶつかり合う度に増幅していく。気づけば曲は終わり、残っていたのは彼らの作り出した残響だけだった。
 そして、アンコールが終わり、メンバーがステージ裏へと戻っていく時、会場には残響と歓声が混じりあいながら出来た残響が拡がっていた。

(茂木恵介)

 

2003/02/21(fri)
オーディオスレイブ@ZEPP東京(1月30日)

 

 

 寒空のもとZEPP東京に到着。開場は6時だったので30分ぐらい早く着いた。着いた時にはもう会場の周りには長蛇の列。中にはTシャツ一枚で震えながら待っている客もかなり見えた。自分もその列の中で会場を待つ。大体観客の年齢層は10〜20代という感じなのだが、40〜50代ほどの夫婦の方などが結構多く見受けられた。会場の中に入って開演を待つ間に夫婦で来ていたおじさんが南部せんべいをぼりぼり食べていたのはちょっと驚いてしまった。
 会場が暗くなり、ステージ左端からメンバーが入場して来て各々楽器・マイクを持ちドラムのカウントからステージは始まる。リズム隊が激しく体を揺らしながらも太く重いリズムを刻む。そのリズムに合わせて、ディレイ、ワウ・ペダル、トレモロ、リバーブといったエフェクターを駆使して奇妙な音を次から次へと出しながらもこのゲバラみたいな格好をしたトム・モレロは機敏に動く。クリス・コーネルはそんな元レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの演奏陣に囲まれ力強く歌っていく。そこにはレイジやサウンドガーデンの残像がフラッシュバックしてくることはなく、目の前で演奏しているオーディオスレイブというバンドだけがいるだけだった。
 レイジの時、彼らはMCや歌詞の中に人種差別、アメリカに対する批判を曲の中やコンサート、抗議活動といった事をしていた。トム・モレロは今でもアメリカのイラク侵攻をばかげた行為だといっているのでMCとかでそういう事をいうのかのなと思っていたが、MCはクリス・コーネルが一言二言「元気、東京?」と言うだけで、取り立てて客を相手に論じたりはしなかった。その後ろで行われていたギターとベースの交換のための時間稼ぎ程度に話すだけ。そして次の曲へと繋がっていく。そして全ての曲が終わりメンバーはそそくさとステージ裏に戻っていった。
 ただアンコールの時、曲の間奏のところでクリス・コーネルが観客の持っていたダンボールを手に取り一度メンバーに見せた後観客の前に示してきた。「NO WAR」と描かれたそのダンボールを観た時、トム・モレロはうっすら笑みを浮かべていた。

(茂木恵介)