2003/09/10(wed)
写真展「ghost flowers」鈴木親

 

 

彷徨う奴を捕えるなんてできるかい? 時間を押し戻すなんてできるかい?
nyc ghosts&flowersの中で、君の声が聴こえる、僕は君の名前を呼ぶ。
nyc ghosts&flowersをくぐり抜けて、僕らは出会えるのか?
もういちど動き出すために?

 「若手」写真家というだけで、ホンマタカシやら佐内正史やら蜷川美花やら誰や彼やと一緒に並べられるのは、鈴木親にとって不幸以外何ものでもない。まあ当の本人はそれすら鼻で笑い飛ばすだろうゆえ、僕もとりあえず笑っておく。
 そういえば『カンバセイション・ピース』(保坂和志)のカヴァー写真は佐内正史だ。作中に登場する「世田谷の家」が前景に新緑を携え、そして白血病で死んだという「チャーちゃん」らしきトラ猫が光を浴びてセーターにくるまる。この写真は、まったく見当違いも甚だしいのである。『カンバセイション・ピース』は「チャーちゃん」というゴーストの存在を認めるために400ページも書かれた小説。ここで言う間でもなくその存在とは、いわゆる「ある」「ない」とは異なる存在の仕方を持つ。それはこの小説が、ちぃっとも映像を喚起させないこととも関係がある。僕たちは怠惰のなかで、ほとんどの認識を映像的に行っているのだ。その「映像」というのを「言葉」としてもいいが、とにかく『カンバセイション・ピース』は映像=言葉という怠惰な関節を丁寧に外しながら、別種の存在様式を言葉によって探るのである。これはたいへんだ。そして佐内の写真が怠惰な映像=言葉のうちに住まうのは、これまたとても明白。「世田谷の家」ゴーストと「チャーちゃん」ゴーストをいとも簡単に映像化させるこの写真家は、いついかなるときも、言葉とストーリーでしか写真を撮れない。彼にゴーストは訪れない。
 ということで『カンバセイション・ピース』のカヴァーには鈴木親の写真が使われないといけない。きっと鈴木は言うだろう、写真というのはゴーストを甦らせるものだと。事物をゴーストに変容させるものだと。 彼の写真は、引き延ばされるギターとともに自らと対象をゴーストとして響かせる。怠惰な関節への異物である。花々は暗闇へと親密に歩み寄る。穏やかに狂う響きのなかで、人物は時間・空間を彷徨う。彷徨うゴーストを捕えるなんてできるかい? 時間を押し戻すなんてできるかい?
 ソニックユース「nyc ghosts & flowers」を聴く僕らは、鈴木親の写真を見ながら確実にゴーストへと変容してゆく。映像=言葉ならざるものを映像によって垣間見るのだ。
 
*鈴木親写真展「ghost flowers」は恵比須のギャラリー「trees are so specials」にて。終了間近ですのでお早めに。

(松井宏)