2003/09/23(tue)
「ヴォイツェク」ベティ・ナンセン劇場 ロバート・ウィルソン演出

 

 

ボブ、ではなくロバート・ウィルソンという名前に、例えばハイナー・ミュラ−やら、あるいはフィリップ・グラス、ルー・リ−ドなどといった名前を(蛇足として坂本龍一や高田賢三なども)付け加えれば、それはそれで演劇におけるひとつの結節点を浮かびあがるだろう。68年直後にデビューを果たしたこの演出家(かつては「ボブ・ウィルソン」と名乗った)は、テクストを使わずに演劇の根本的なマチエール(装置、光、色、身振りetc)を最大限に活かして舞台をつくり上げてきた。それは明確に「68年」以後に相応しい政治性を持っていたはずだ。コンテンポラリー・ダンスやオペラへの傾斜、そして映画や絵画の引用を駆使するその舞台は「コンセプチュアル」と呼ばれ、ウィルソンはやがて70、80年代の重要な演出家として広く名を馳せる。
今回(といっても初演は2000年だが)そんなロバート・ウィルソンが組んだのはトム・ウェイツ。既に発売されているアルバム「ブラッド・マネー」は、このウィルソン演出「ヴォイツェク」のために作られた。とはいえウェイツ&ウィルソンコンビは今回が3度目。「ヴォイツェク」にウェイツにウィルソン。Wつながりでそれはもう誰もが異論の余地ない組み合わせだろう。
では観客はこの舞台に何を見たのか。新解釈の「ヴォイツェク」か? 否。見え聴こえるのはウェイツのサル真似(!)を続ける俳優であり、演出家の完成された手管だけだ。ビュヒナ−という「エキゾチック」作家の代表作「ヴォイツェク」は確かに演出家の多様な解釈を開く戯曲ではある。「ビュヒナ−」その人の特異性や上演史をとってみてもわかることだ。「西欧(戯曲)」の行き詰まりと「演出家の時代」の到来とともに発見された「東欧(戯曲)」は、歴史の肥大に悲鳴を上げる「西欧」への有効な視座としてかつて機能したはずだ。だが「東欧」も「西欧」の一部でしかなかったこの平面的世界で、ではいったいウィルソン版「ヴォイツェク」は何を見せたのか。それは自らの手管と戯曲に幻想のように取り憑く「エキゾチスム」。そして危険な「美」である。
われわれはこの「美」にため息をもらすべきなのか? そんな暇はない。いま必要なのは断じて「美」でもないし「ヴォイツェク」でもないし、ましてや日本向け大物演出家でもない。トム・ウェイツの代理(=ルプレゾンタション)でしかない俳優によって強化される表象世界を喜悦と居直りで弄ぶ演出でもない。もちろん表象を打ち破るなどという安易な幻想も捨てるべきだ。では何が必要なのか? そう、演劇への失望である。複製芸術になり得ないこの出来損ないを、貧しい風景のうちに蹴り飛ばすことだ。至極当然。「Misery is the River of the World」。無表情にウェイツを口パクする猿の人形。演劇を見るわれわれはあの猿の人形でしかないことを悟る必要がある。劇場には哀しみばかりが溢れている。

(松井宏)