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2004年01月31日

「旅をする裸の眼」多和田葉子(「群像」2月号)

近年の多和田葉子の小説は「ざわめき」のなかにある。そこでは能動的な聴取は行われず、いくつもの音がそれぞれ等価なものとして差異なく耳にまとわりつく。たとえばあなたが駅のターミナルに立っているような気分がするとしたら、それはただ汽車での移動が頻繁に行われるためだけではないのだ。「翌朝になると四枚の壁すべてから物音が聞こえた」。その(この)耳はそこにあるすべての音に晒されている。
サイゴンで暮らしていた「わたし」は、ある用事でベルリンに行き、さらには「事故」によってボーフムからパリへ行き着き、映画館で「あなた」と出会う。Repulsion、Tristana、Indochine……そんな章題を兼ねた映画の題名から、読者である私たちは「あなた」の名前を容易に思い浮かべることができる。しかし「わたし」の見る「あなた」は、私たちがいくつもの映画のなかで見てきた大女優ではない。ゆえに「わたし」が見る映画もまた私たちが見た映画と同じではない。
「わたし」は「あなた」の出る映画のことを、映画のなかの「あなた」のことを描写し続ける。そのとき、当然のようにざわめきは消える。それは、「わたし」が「あなた」を見るのが常に映画館であることや、「わたし」がフランス語を聞き取れないためだけではない。そこでは音の存在が消されてしまっている。まるで「わたし」が眼だけになってしまったかのように。
映画の描写は次第に増え続け(同時にそれは映画の描写でもなくなり)、そのことばは静寂のなかを踊り出す。しかし最終章はDancer In the darkという章題によって、「セルマはアメリカに亡命してそこで死刑の宣告を受ける前に、ベルリンで3年間暮らしたことがあった」という一文で始まる。盲目の女性がセルマにこう言う。「視力っていうのは裂け目みたいなものですよ。その裂け目を通して向こうが見えるんじゃなくて、視力自身が裂け目なんです。だからまさにそこが見えないんです。わたしはもう他人の人生話に興味がないんです。音楽、いいえ、雑音が好きなんです」。
「わたし」は眼だけになってしまったのでも、音を聴いていないのでもなかった。「わたし」は視力となり、すべての音のなかにいたのだった。つまり「わたし」こそが「映画」なのだ。だからこそ、私はこの「わたし」の物語(旅)から逃れがたく思うのだろう。

黒岩幹子

投稿者 nobodymag : 21:52

2004年01月27日

ラグビー トップリーグが終わった

今シーズンから始まったラグビートップリーグが閉幕した。優勝は神戸製鋼。この日は、東芝対サントリー、神戸対Cのゲームが同時刻にキックオフ。NECを除くどのチームにも優勝の可能性があった。僕らはスカパーのふたつのチャンネルをザッピングしながら経緯を見守る。だが、東芝対サントリーの解説をしていた小林深緑郎が「ゲームが終わるまでは優勝がどのチームに行くかではなく、ゲームに集中しましょう」と語るのを聞いて、深く同感。以後、ザッピングをやめ、神戸対NECはビデオに録画することにする。
モール、ラックではなく、立ってプレーをし、繋いでいく東芝のラグビーが全開。縦横無尽にパスが継続し、ラックからフェーズを重ねようとするサントリーを圧倒する。接点でボールの出が遅いサントリーがアタックに移るとき、東芝のディフェンス網は完全に形成されている。結果は50-10の圧勝。点を取られても、もっと点をとって勝つというサントリーにスタイルには、何度も苦言を呈しているが、大久保直也が欠場したとはいえ、これほどザルなディフェンスではダメだ。特に、小野澤、栗原がひどい。アタックには才能を見せても、ディフェンスは、愚鈍さが必要なのだ。対神戸製鋼戦以来、東芝の好調さが続く。東芝のスタイルには好感が持てる。
そして神戸対NEC。ラストに大原がトライし、神戸の優勝が決定した。でもゲームとしては見所の少ないゲームだった。モールを中心に攻める両チームは、「フレア」の破片もないプレーしかできない。神戸の再生──結局優勝は神戸だったが、東芝とサントリーに敗れている──には、ラグビーについてのコンセプトの変更が強く求められる。今は、伝統の力で勝っている──昔の名前──にすぎない。
トップリーグが成功に終わったかどうかは分からない。スタンドには閑古鳥が鳴いていた。好ゲームも多かったが、1勝もできずに終わったワールドカップのジャパンが原因だろう。人々のラグビーへの関心が低くなっていることは確かだ。だが今後、マイクロソフト・カップ、日本選手権と東芝に注目してみよう。このラグビーにはもっと延びしろがあると思う。

梅本洋一

投稿者 nobodymag : 21:50

2004年01月25日

『サルタンバンク』ジャン=クロード・ビエット

ジャン=クロード・ビエットと『サルタンバンク』についていくつかのことを書こう。
「カイエ」の批評家だったビエットは、文章家でもあったし、何本かの素晴らしいフィルムを撮った映画作家でもあった。それに彼は、ロメールの『シュザンヌの遍歴』からよくちょい役でフィルムにも出演した俳優でもあった。昨年の夏から続いた「カイエ」の危機は、ビエットとジャニーヌ・バザンという「カイエ」の精神的支柱になった人々の相次ぐ死によって始まり、そして「ルモンド」紙による「カイエ」への全面的な介入とジャン=ミシェル・フロドンのディレクター就任によって決定的になった。
ビエットが今の「カイエ」の状況についてどう思うかは彼がいなくなった今となっては分からない。だが「カイエ」にあって、ビエットにもっとも近い存在で、彼が結局完成することのなかった作品のためにともにロンドンまで旅したマリ=アンヌ・ゲラン──セルジュ・ダネーから「カイエ」に書くことを勧められ、イデックでのデプレシャンの同級生──は、もう「カイエ」にいない。彼女が最後に「カイエ」に書いたのはビエットの追悼文(泣かせる)だった。
そしてデプレシャンの『そして僕は恋をする』の3人の主要な女優のひとりであるジャンヌ・バリバールが『サルタンバンク』の主演をしている。『サルタンバンク』とは、このフィルムを見た誰でもが気づくように単なる駄洒落である。サルタン銀行=サルタン・バンク、サルタンバンク=サルティンバンコ。サルティンバンコとは、コメディア・デラルテを継承するイタリアのサーカス一家だ。芸能=芸術=金銭という「サルタンバンク」につきまとうコノテーションのすべてがこのフィルムの物語の全体だ。
サルティン・バンクの嫡男が支配人を務める劇場が経営危機におそわれている。サルティン・バンクを経営する弟は、もう資金援助はできないと言う。でも劇場では、ラシーヌの『エステル』とチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の稽古が進んでいる──かつてビエットは俳優として『ワーニャ伯父さん』を演じたことがある──が、ここでも問題が起こる。エステルを演じる女優が降りてしまった。
劇場支配人の姪ヴァネッサは才能ある女優だったが、今は女優をやめて、劇場用の小道具を作るアトリエで芝居用の靴を作っている──ヴァネッサを演じるのがジャンヌ・バリバールであり、ちょうどポール・クローデルの『繻子の靴』の上演を終えてからのことだった。「靴」を作るのは至極当然のことだ。
ヴァネッサの女優としての才能を誰もが覚えている。「エステル」を彼女が演じることを決心するのがフィルムのラストだろうと想像してしまう。事実、彼女は、ベルリンの劇場で上演されている『メアリー・スチュアート』の上演のために注文された「靴」をベルリンまで届けに行き、そこで会ったハンス・ツィシュラー──「おいしい」役だった──に誘われて、忘れかけていた劇場の誘惑と魔術を思い出し始める。
だが劇場の経営危機は軽傷ではない。満員の客を集めるには、ラシーヌの悲劇でもチェーホフの過ぎ去っていく一瞬を慈しむ「近代古典」でもない。それよりも無償の笑いだ。支配人は、稽古を中断し、コメディア・デラルテ風の道化のデュオを雇う。『エステル』を演じてみようを決心したヴァネッサは鏡の前で『エステル』の台詞をつぶやいてみる。
現実はまるでラシーヌやチェーホフが描く世界と同じだ。否、そうではない。コメディア・デラルテこそ現実の似姿なのだ。どちらも正しい。サルタン家のゴッドマザーを演じるミシュリーヌ・プレルは、そのふたつは対立なんかしないと言っていた。
僕らは、このフィルムを見て、イオッセリアーニやルノワールを思い出す。「どこで芝居が終わり、どこで現実が始まるの?」という有名すぎるフレーズを思い出す。ジャン・ルノワールの遺作が『ルノワール小劇場』だったことを思い出す。ビエットもそのどちらかを選んだ人ではない。とりあえず時は流れていく。その中で人々は出会ったり、再会したりする。日にちや日付や時刻についての台詞がとてもたくさん聞こえた。

梅本洋一

投稿者 nobodymag : 21:49

2004年01月20日

『ミスティック・リバー』クリント・イーストウッド

復讐のための帰還、それは『荒野のストレンジャー』の亡霊としての回帰や、『アイガー・サンクション』の殺人家業への復帰など枚挙に暇がない。『ミスティック・リバー』において、復讐のために帰還するのは、まず「ただのレイ」と呼ばれる男だ。冒頭の少年時代のくだりと現在の間に広がる数十年の空白の時間、この決してフィルムに収められはしない暗黒の時間の中で、ショーン・ペン扮するジェミーに殺されて、河に沈められた男である。ジェミーの娘ケイティーは、レイ・ジュニアが持っていた父親である「ただのレイ」の拳銃の暴発によって殺害される。もちろん、それが暴発であったなどとは信じない。この一言も言葉を発しないレイという少年が、ジェミーへの復讐のために帰還した「ただのレイ」であり、より正確には、彼が復讐を遂行するために使う媒体だからだ。ある晩レイは、兄、ブレンダンの元へ、母親からのメッセージだとして彼女のことは忘れるようにと伝える。そのシーンが不吉なのは、そのメッセージは母からのものなどではなく、父親からのものだからだ。「ただのレイ」は、言葉を発しないこのレイの身体を使って復讐を遂行する。
しかしながら、「ただのレイ」の復讐譚はこのフィルムのひとつの傍流でしかない。彼は決してフィルムに登場することもなく、ジェミーや酒屋の店主、当時事件を担当した刑事らの証言によって、空白の時間のなかから浮かび上がる存在でしかない。もうひとりの、復讐のために帰還する者がいる。娘ケイティを殺害された恨みから、再び殺人家業へ復帰する、ジェミーそのひとである。ところで、ケイティが殺害されたあの日、彼女と友人たちが、デイヴも居合わせたあのバーへ入ってくる前に、河を横切る空撮のショットがあったのを覚えているだろうか。もちろんそれは、復讐のために帰還する「ただのレイ」の亡霊のまなざしに他ならない。そして、ケイティが殺害された後、ベランダで佇むジェミーが夜の街の風景を眺める下りに続いて、同様に、河を横切る空撮が挿入されていたはずだ。そこで、彼は復讐のための帰還を決意する。そして彼は、死体安置室に横たえられたケイティにその決意を告げる。ガラスブロックに覆われたのっぺり明るいその安置室へと向う、彼の顔は、それほど強い逆光でもないのに、影のように黒く塗りつぶされていた。そこでは、彼はもはや影そのものであり、復讐のために悪魔へと魂を売った亡霊なのだ。しかしながら、彼の復讐は成功しない。彼は、真犯人であるレイと友人ではなくて、デイヴを犯人だと思い込んで、ナイフで刺し、銃弾を打ち込み、河に沈めてしまう。彼の復讐を妨げたのは、もう一人の復讐者の意図であったのかもしれないが、ともあれ、『ミスティック・リバー』においては、帰還者が復讐するという単純な公式は二重化され錯綜したものとなっていて、些か戸惑ってしまう。
しかしながら、実のところこの錯綜もまたどうでもいいことなのだ。恐ろしいことに、このフィルムでは何も起こらなかったのだ。復讐のため悪魔に心を売ったジェミーも、妻によって「あなたには四つのハートがある」のだと言われて、一つを失ったがまだ三つあるという話になってしまうし、誤って殺害されたデイヴも、数十年前車で連れ去られた時に死んでいたのだという話になる。刑事であるショーンもそれと知りつつ逮捕もしないし、このフィルムに付きまとうもうひとりの唖である彼の妻も亡霊かと思っていたら、謝罪の言葉一つであっけなく言葉を発し彼の元へ帰ってくる。終わってみれば、何も起こらなかったのだ。あまりに空虚なパレードをやり過ごして、コンクリートに刻まれた三人の名前が映し出されたとき、ふとそれが墓碑に見えて、死者はジェミーとショーンの方で、ようやくデイヴも成仏したかと思ったりもするのだけれど、それさえよくわからなくなってしまい、ラストの河の流れとエンド・クレジットを見つめながら、今見たものが、空白の数十年という見えないものであったこに気づいて愕然としながら映画館を後にする。背中を詰めたいものが流れる。私たちは何も起こらず、何も見えないものを見てしまったのだった。

角井誠

投稿者 nobodymag : 21:46

『マリーとジュリアンの物語』ジャック・リヴェット

時計職人であるジュリアンは巨大な柱時計の修理に取り掛かっている。時計の大きさは、構造の複雑さ、修理の難易度には関係しない。ただその古さだけをあらわす。常人には聞き取ることのできない2種類のリズムの間で、薄暗い空間を埋め尽くす針の音に包まれての作業は、彼の手が「肉屋の手」と形容されるにふさわしく肉感的である。そしてフレームの隅にうずくまるマリーにズームアップして、あるいはダウンして再びふたりを収める、滑らかなギア・チェンジによって、(ちょうど「ジュリアン」「ジュリアンとマリー」「マリーとジュリアン」「マリー」という章立ての形式と同じように)二人の物語は進行してゆく。
時計の解体と再構成というジュリアンの作業にも似て、すべての部品ははじめからそろっていて、部品の微調整と順序の組換えによって完成する。例えば冒頭とラストにおいてふたつの正反対の行為が同じく2度反復されるわけだが、出会いはジュリアンにとってだけ2度幻視されるが、別れはマリーによってのみ知覚されるだろう。始めはジュリアンの家の中の一部屋にあった騒音のもとは、のちには子供たちのそらぞらしいはしゃぎ声として家の外におかれる。どちらも玄関のドアという境界を越えることはなく、ただ訪れる順序が変わるのみだ。
時計仕掛けを下から上へ駆け上る猫、快感に身を垂直にそらすマリー、階段状の踏み台の上に腰を降ろすマリー、多くの物がマリーの宿命でもあるような宙吊りの反復を目指して上昇しようとする。宙吊りという極めて不安定な状態はジュリアンが共有できるものではなく、ここでもまたズームのアップ・ダウンに似た不可逆なギアが用意されており、彼が彼女の行為を反復することによって起こる決定的なねじれを避けるために、マリーは己とジュリアンとをつなぐ歯車自体を取り外す。ジュリアンは彼女を認識できなくなる。
もっともすべての部品はあるべき場所に返さねばならない。再びふたりをつなぐ歯車の出現をもたらすのは、マリーの目からあふれた涙の落下、そして底から連鎖されるかのような手首から流れ落ちる血によってである。このとんでもない「オチ」によって宙吊りへ向かっていた私たちは一気に突き落とされる。もちろんただの落下ではない。突き放され、どこまでいっても着地の気配がないこの落下に身をゆだねることは、恐ろしいほどの快楽である。

結城秀勇

投稿者 nobodymag : 21:41

『ココロ、オドル。』黒沢清

そのタイトルとはうらはらに、踊っているのは人々のカラダだ。婚礼の儀式、太鼓と手拍子の中、輪になった3種類の人々はまぎれ入り混じり、「融合」する。融合とはいくつかのものがひとつになることだろうが、その力点はひとつになることにあるのか、いくつかのものがそれとは見分けがつかなくなることにあるのか。遊牧民のような格好の村の人々、ダウンベストを纏った街の人、レインコートを着た水辺の草原の人。次第にその外見から凹凸が失われつるんとした表面に近づいていく様は、進化とか段階とか過去・現在・未来のような3分割とかを思い浮かべるとしても、いずれひとつになるものはもともと同じものであったに違いない。後戻りの効かない変化はその後で来る。
食器か何か硬いものがぶつかり合う音、人々の足音。街の倉庫のような食堂のような建物の中、音が反響し右耳と左耳には違う音が届いているような錯覚を覚える。とりわけ手前の部屋遠くの部屋をつなぐスノコのような通路のうえを人が歩くと、ひときわ強く空気の震えが伝わる。しかしそれまで奥の部屋で黒い置物のようだった浅野忠信がスノコの上を通り手前の部屋にやってくるとき、彼のブーツはこつこつといたって控えめな音をたてるに過ぎない。村人を旱魃から救い、撃たれた街の人間を救い、人々を先導する羊飼いのごとき浅野忠信が異様なのは何も変わることがないからだろう。右へ左へ後ろへ、うごきまわる人々の中で微動だにせぬ黒い影。不変=普遍の人。投影される背後の雲や木や山は右から左へと流れていくのに、正面からあたる風を顔に受けてピクリともしない彼の顔は、揺れる長髪によってできる影の変化によって、顔がぶよぶよと変形していくかのように見えた。

結城秀勇

投稿者 nobodymag : 21:27

『マリーとジュリアンの物語』ジャック・リヴェット

緑がまぶしい公園の木陰、一人の男(イエジー・ラジヴィオヴィッチ)がベンチに寄りかかり上を向いてまどろんでいる。目を開けて視線を下げ正面を見遣ると、白いスーツを纏った女性(エマニュエル・ベアール)がふと通り過ぎる。「マリー」と呼びかければ、彼女は「ジュリアン」と答えて振り返る。かくて、二人は再開を果たすのだけれども、続くショットでにおいてブラッセリーで目覚めるジュリアンを見るに及んで、わたしたちはそれが夢であったことを知らされるだろう。そして、店を出た彼が通りを横切ろうとすると、今度こそ現実において、マリーとすれ違う。「ジュリアン」と呼び止められた彼は、マリーに「今君の夢を見ていた」と伝える。
かくて、ジュリアンの夢によって幕を切って落とされたフィルムは、「ジュリアン」、「ジュリアンとマリー」、「マリーとジュリアン」、「マリー」という四つの章を追って展開され、マリー自身へと至る軌跡を描き出す。彼女はシモンとの間での、互いの美しさの虜となって愛憎の円環に囚われてしまう狂気の愛の果てに、すでに半年ばかり前に首吊り自殺を遂げた死者である。その彼女が、シモン以前に付き合いのあったと思しきジュリアンという中年の男のもとへ現われたのだ。彼女が彼の元へ戻ってきたのは、彼が夢の中でマリーを呼び止めたから。マリーは、ジュリアンの夢想に囚われるように回帰する。ジュリアンの家で暮らし始めたマリーは再び囚われの恋を演じる羽目になるのだろうか。彼女に与えられた選択肢は二つ、かつて自殺をした部屋を屋根裏に再現して再び首を吊り自殺するか、それとも両手を自らの顔の前で交差させる身振りによってジュリアンの中から自分の存在そのものを抹消するか。かつて自分を捕らえていた姉の元へと帰還したアドリエンヌの方には和解という解決もあるが、ジュリアンのもとへ戻ってきてしまったマリーには二つの選択肢しかない。彼女はその二つの解決ならぬ解決策を最初から知っているわかではなく、夢や謎の啓示から少しずつ理解してゆき、悲劇的な選択を迫られるに至る。
このフィルムには、生々しいと同時にこの上なく幻想的で美しくもあり、それぞれ独創的な愛戯のシーンが五つある。それは、互いの肉体を直に触れ合わせるからこそ、二人の関係をまた直接に表現する。最初のそれはマリーの家で、彼女に覆いかぶさるジュリアンと、彼から見られたマリーの顔という2ショットからなる短いもので、動作も喘ぐ声も極力抑制され、ジュリアンの幻想かとさえ思わせる。事実、目覚めるとマリーは姿を消している。二つ目のそれはジュリアンの家に来た最初の晩のこと、洗面所で両腕と顔、首に水を浴びて濡れた彼女が、ジュリアンの手を取ってベッドへと導いて、彼に乗りかかりマリーの主導で行われる。ちょろちょろと流れる水の音がどこからか聞こえはすれ、これまたとても静かに快楽の叫びを押さえた静かなものだ。三つ目と四つ目では、森の中で迷子になった少女の話、男と闘う少女の話を囁きあう二人の声が、快楽へと導く。三つ目は優しく囁きあいながらそっと互いを愛撫しあうが、四つ目は獣のように激しく互いをまさぐりあう二人がクローズ・アップで捉えられる強烈なものである。互いの存在に囚われつつも言葉ばかりは二人の間の深淵を表すかのようだ。そして四つ目は、ジュリアンがマリーの自殺という事実を知ったその晩のこと。眠ると自殺の再現という第一の選択肢を達成するように命令する夢を見てしまうからと、「私を眠らせないで」と繰り返し叫ぶマリーと、ジュリアンが抱き合うのがシルエットになって美しく浮き上がる。けれども翌日、何としてもマリーと一緒にいるために自殺して自分も死者となろうとするジュリアンを止めるため、彼女は第二の選択肢を選び自らの存在を抹消する。いまや透明人間のごとき彼女はソファに座って彼の傍らに止まり続ける。カメラがゆっくりと彼女の顔によってゆくと、痛ましくも無力な彼女の呆けた眼からふと涙が零れ始める。頬をつたう涙はやがて手首の傷口へと達し、涙は血に変わる。それまで血の流れていなかった彼女にちょろちょろと血が流れ始めるのだ。翌朝、目覚めたジュリアンは全く見知らぬ人となったものの、しかし確かにそこに存在しているマリーを見出すだろう。カメラは見つめあう二人を対等に、至極単純な切り返しでとらえる。今ここから二人の日々が始まってゆくのだ。

角井誠

投稿者 nobodymag : 21:25

2004年01月18日

ラグビー 大学選手権決勝 関東学院対早稲田

結果は33-7。これだけ見れば関東学院の圧勝。前半の0-0のゲームは忘れられる。確かに前半は0-0というラグビーには滅多にない展開だった。ハーフタイムに春口が言ったとおり、早稲田のディフェンスが良かったことと、スカウティングが完全だったことが原因だ。スクラムとラインアウトというセットプレイで優位に戦うにはこうしろというゲーム運び。前者にあっては伊藤雄大、後者にあっては両ロックの踏ん張り。そして高校ラグビー決勝の啓光学園のようにモールになる前に低いタックルを見舞う。だが、完璧だったディフェンスに対し、アタックは不発に終わる。ゲームが拮抗するのは当然の成り行きだ。
そして後半、早稲田のゲームメイクは前半と同じ。だが懐の深い──個々人の能力が高いという意味──関東学院はラインアウトでもスクラムでも拮抗してくる。ラインアウトでは的を絞らせないようにスローインし、スクラムはゆっくりとセットする。これでセットプレイはイーヴン。当然、早稲田は前半よりもディフェンスに割かれる時間が長くなる。ここで関東学院はライン・ブレイクから一気に霜村のトライ。何度も書いた早稲田の弱点が露呈する。ハードタックラーのいないセンター、スピードのないシャロー・ディフェンス。ラインの凹凸を見た霜村が池上と今村の間を一気に抜ける。決して集中力が切れたわけではないが、太田尾が焦り始める。シャロー・アウトの関東学院のディフェンスにボールを転がせば、ディフェンスの誰かに拾われるに決まっている。一発逆転を狙うしか選択肢がない状況だったかどうかは疑わしい。関東学院のもうひとりのセンターがボールを拾い一気にトライ。ゲームは決まった。
前半ポゼッションに上回りながらもトライを取れない。後半も何度かライン・ブレイクしながらもゴール・ラインの前でミスが出る。原因は明瞭だ。まずなんと言っても後藤の球離れが悪いこと。ボールが出てから周囲を見回す。順目順目に振れば十分にチャンスはあった。清宮も後半にようやくこのことに気づき、矢富に代えるがもう遅い。原因の第二。太田尾の頭の悪さ。このSOは大成しないだろう。長いパスを放らない太田尾などただのスピードのないSOにすぎない。水野や北川の餌食になってもチャンネル3で一気に勝負すべきだ。両センターとフランカーはあくまでフォロワーとして大外に走るべきだった。そして第三にディフェンス時におけるライン全体の前に出るスピードのなさ。首藤を欠いても同じ作戦で勝負すべきだったろう。
これからカップ戦。まだシーズンは終わっていない。

梅本洋一

投稿者 nobodymag : 21:24

2004年01月17日

中平卓馬展「原点復帰-横浜」 横浜美術館

例えば何か感動を覚えるような景色に出会い、カメラのレンズを覗き込み、シャッターを押す。やがて時をおいて印画紙にプリントされてくるグラフィックは、それが写真機で撮られたものであるということを理解している人にとって、<真実性>という性質を帯びた<特別なもの>であるように(そのグラフィックに自分が感じ得た感動が記録されているかのように)感じられる。選択する写真機やレンズによって、またはフィルムによって、あるいはその瞬間の光の状態によって、同じような手順で作成されたグラフィックが時には大きく違うこともあるという事実を知りながらも、写真が<真実性>を感じさせてしまう、ということはいかにカメラという機構が優れた技術であるかということの証であるのだけれど、写真家と呼ばれる、カメラという機構の探求者は、誰もが感じたことがあるであろう<不気味ににやけた自分の写像に対する違和感>なんて低級な発想ではなくて、多分、世界の<真実なるもの>と対峙せんと格闘している。それはつまり、いかに世界の<真実なるもの>を記録するかという格闘であり、「カメラのレンズを覗き込み、シャッターを押すこと」でも表象されることが困難である<なにか>をそれでも記録しようとする探求である。/中平はその著書である『なぜ、植物図鑑か』(一九七三)において、カメラが優れて近代的なロジックであること、つまりカメラこそが「人間中心的な世界との関係のあり方(世界の私物化)」を示してしまっていることを喝破し、人間の世界という存在に対する敗北を認め、世界をありのままに記録することのロジックにひたひたと迫りよる。/中平がそれを記述した一九七三という時間から三〇年ばかりが経っている。あるいは多くの写真家の探求は「カメラのレンズを覗き込み、シャッターを押すこと」による表象の幅を拡張しているようにも私は感じていた。なぜならいくつかの写真やフィルムに写し出されたものは、<<私>という視点の外側>、を認識させるものであったからだ。しかしここで再び中平のテキストを再読し、迫り寄るロジックに身を浸すと、あるいは私が感じていたのは、<私が投射する<<私>という視点の外側>>であったのかもしれないとすら思われてくる。/中平の最新の写真群は100ミリというレンズで全てカラー写真で撮られている。100ミリというレンズが持つ世界と人間との関係は、人間の眼球という機構では決して獲得のできない関係でもある。その無造作に現像された写真に写っているタケノコや猫や神社の旗や寝ている人は、だからどこでも見たことがあるもののようでもまるで見たことがないもののようでもある。中平は、どこにでも存在しているような事柄、それは植物であろうと動物であろうと人工物であろうと関係なく、を非人間的な視点を選択した上でカメラという機構に記録させることを選んだ。自らを世界を凝視し続けるカメラという機構に埋没させることを選んだ。/『きわめてよいふうけい』(ホンマタカシ、2003)に記録されている(あるいは記録され得なかった?)、マイクでは拾うことができない中平の発声する音の群ととユラユラと動き続ける中平の一連の所作が想起させるのは、まるで植物のそれであり、中平が<植物図鑑のように撮ること>ではなく<自らが植物図鑑という機構>であることを選んだようにも感じられ、背筋に寒気を覚えた。/こうして中平は世界に同化し、何かを語りかけ続けている。/今求められているのは、中平を世界から取り戻すための新たなロジックによる世界の止揚である。

藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)

投稿者 nobodymag : 21:22

『運命のつくりかた』アルノー&ジャン=マリー・ラリユー

「映像に映像を重ねる技術は何ていうの?」、マチュー・アマルリック扮する映画監督、ボリスが撮った企業PR映画を見た後で、マリリン(エレーヌ・フィリエール)はさりげなく質問する。「オーバー・ラップ=surimpression」と、ボリスは答える。マリリンが「オーバー・ラップ」に関心を持ったのも当然、二人の社員が恋に落ちるという筋書きを持つおよそ企業PRには似つかわしくないその映画では、ボリスとマリリンのショットに、暗闇の中で正面から向き合い次第に「重なり合う」男女の肉体のショットがモンタージュされていたのだから。「オーバー・ラップ」、それは、映像編集の一形式であると同時に、一つの感覚的表面上に複数のイメージの印象が重なり合うことでもある。登場人物たちがよく名前を間違えるのは、他の誰かのことで頭がいっぱいで、目の前の人物にその誰かの映像をオーバー・ラップしているからだ。マリリンのことを考えているボリスは、ジョセファのことをマリリンと呼んでしまうなど、彼らはもう「オーバー・ラップ」の世界を生きているのだ。そして彼らは自らを、映画監督から、主夫、そしてマッチョな髭面登山ガイドへ、あるいは、平凡な通信会社の社員から、出来心で女性と寝てしまうキャリアウーマン、そしてアメリカ人観光客の通訳へと次々変遷して、その度ごとに、自分のイメージをオーバー・ラップさせてゆく。その過程で映画そのものが、企業PR映画からミュージカル映画、メロドラマ、登山映画に、動物映画へと様々に重ねあわされてゆく。このフィルムは、次々変遷してゆく人物たちやジャンルがその度ごとに重なりあい、オーバー・ラップの中で溶け合ってゆくのだ。目眩めく自由奔放さ。
ラリユー兄弟は、ギロディーらを含む自分たちの世代にとって、ヌーヴェル・ヴァーグはすでに「祖父」であると言う。デプレシャンやアサイヤスの世代にとってヌーヴェル・ヴァーグは「父親」であり、を大きな問題であったが、彼らにとってはもうおじいちゃんだ。そのことが、逆説的にヌーヴェル・ヴァーグの持っていた一つの側面を彼らに与えている。いわく、「自分の好きなように、自分ができるように、撮影するという側面」。ボリスとマリリンがオオライチョウの求愛行為を見つめる感動的なシーンも、オオライチョウと、それを見つめる二人は別々に撮影されたという。彼らは、レアリスムにがんじがらめになることもなく、自由に様々な要素を重ね合わせてゆく。
さまざまなものがオーバー・ラップの中で溶けあってゆくこのフィルムにあって、やはりラストのミュージカルのくだりは濃密で魅惑的だ。マリリンがボリスの部屋に入ろうとする時、暗闇の中に浮かび上がる横顔の頬の線がふっと緩んで微笑む瞬間にはっとしたかと思うと、画面が切り替わって、すでに全裸となった彼女が同じ場所に立っていて、ボリスに問いかける。「私のパジャマ見なかった?」、もちろんそこで二人が出会ったあの日、全裸のボリスが彼女に同じ台詞を言ったシーンがオーバー・ラップする。ここでは、プレイ・バックで撮られた他の二つミュージカル・シーンと違って、風呂場に隠れたカトリーヌが生演奏し、二人が実際に歌っている。ボリスがマリリンの周囲をゆっくり回りながら、やがて抱擁し合い、ベッドの上で重なり合う。そして、この魅惑的なワンシーン・ワンショットに惜しげもなく、翌朝の様子がオーバー・ラップされてゆくのだ。過去と、現在と、未来が一緒に重なり合う。この卑猥なまでに自由奔放に重なってゆくオーバー・ラップに休息はない。

角井誠

投稿者 nobodymag : 21:21

『1980』ケラリーノ・サンドロヴィッチ

ジョン・レノンが殺された翌日(1980年12月8日)という日付から始まり、12月31日にビルの屋上から夕暮れの「トウキョウ」を見渡すという行為で終わる、という要素だけでも、この作品のつくり手のなかに「80年代」ではなく、「1980」、あるいはむしろ「~1980」という意識があったことは想像に難くない。無数に登場する「1980的」アイテム(YMO「ライディーン」、山口百恵『蒼い時』、蓮實重彦『シネマの記憶装置』などなど)もすべて「80年代」のものである一方で、同時に徹底して「~1980」のものである。
にも関わらず、「懐かしのTV番組」「あの人はいま」といったテレビ番組を目にするときに感じる薄ら寒い懐古感覚(厳密に言えば「懐かしい」のではなく、「懐かしいような錯覚」に過ぎないもの)しか覚えないのは、なにもその手のテレビ番組がいつも以上に垂れ流された年末に私がこの作品を見てしまったからというわけではなく、むしろ2004年の夏に見ても、おそらく2000年の年末に見ても、きっと同じような薄ら寒さを感じるに違いないからだ。もちろんそれを不変的と言ってしまうことなどできるわけもないのは、たとえば80年にウォークマンで聴いたYMOといまi-podで聴くYMOの間には同じものでありながらも絶対的な距離が存在するはずだからで、その距離に無頓着なのはそれこそ「ザ・ベストテン2003」の黒柳徹子の無節操ぶりと実は大差がないのではないか。

黒岩幹子

投稿者 nobodymag : 21:19

2004年01月16日

「1st Cut 2003」

今年も「1st Cut」の季節がやってきた。1月にはいって、すっかり寒くなった東京の冬のただ中で「1st Cut」が公開される。去年も確かそうだった。部屋を出るのが億劫になる季節に、渋谷駅を降りて白い息を吐きながらユーロスペースまでの坂道をのぼる。「1st Cut」はそんな記憶と結びついている。
「1st Cut」が冬の記憶をともなうのは、それが季節との関係抜きには見られないからだろう。画面には初夏と呼ぶにふさわしいさわやかな空気が広がっている。冬のただ中で見る初夏の光景は、少しだけぼくたちを励ましてくれる。季節のサイクルを思い出させ、しばらくすると冬が終わり、春がやってきて、寒さは徐々に和らいで暖かな空気があたりを包み込んでいくだろうということを思い出させる。それがちょっとした安らぎになるのかもしれない。
おそらくそのどれもの公開時期があらかじめ決まっているからだろうが、「1st Cut」の諸作品は、5月か6月ぐらいの春と夏のあいだ、つまり初夏と呼ばれる季節に撮影されていると思われる。夏の蒸し暑さが到来する前の、清々しい風が通り過ぎる季節。制服が夏服に替わり始めるそんな季節に撮影されているに違いない。まだ梅雨入りを迎えてはいない、過ごしやすい季節。実際、「1st Cut」の諸作品にあっては、そのような季節の風景を捉えた画面がもっとも素晴らしい。今回上映される作品でいえば、一面に広がる雑草に水を撒く姿(吉井亜矢子『如雨露』)や、澄みきった青空を背景に走るふたり乗りの原付(小島洋平『海を探す』)などだろうか。青山あゆみ『春雨ワンダフル』での木陰に腰をおろしているだけのシーンも忘れられないシーンになるだろう。隈達昭『緑色のカーテン』が不穏な物語を語りながら、そこに漂う雰囲気がどことなく穏やかなのもそのような季節に撮影されたということに関わっているのだろう。
映画は、それがいつ、どこで撮影されたのかという具体的な事柄から逃れることはできない。フィクション第6期初等科によって制作された4作品を見ながらそんなことを思った。4人の監督の中には、ほかの時期に撮影したいと思っていた人もいるのかもしれない。ある作品はそこに雪を降らせていたし、またある作品は室内シーンを多用していた。そうして季節が失われていく。自分の思惑に合致しない季節に撮影をしなければならないとしたら、それは監督たちにとって不幸でしかなかっただろう。しかし、映画はその外がわに広がる具体的な事柄の数々から逃れることはできない。それをおおらかに肯定すべきではないかと映画を見ながら思っていた。雨が降り出す前に外に出て、太陽の下で大きく深呼吸する。初夏にはそんなさわやかさがふさわしい。

須藤健太郎

2004年1月24日(土)~ユーロスペースにてレイトショー
詳しくは、http://www.spritenum.com/firstcut2003/

投稿者 nobodymag : 21:15

『コール』ルイス・マンドーキ

父と母とその娘はまずそれぞれの場所で個室に監禁される。閉められた窓にはカーテンが掛けられその外を深い夜の闇が横たわり、二重のヴェールが個室空間を包み込む。その個室に偶然誰かが訪れても誘拐犯はしたり顔で追い返す準備ができている。その密閉されたかのような個室空間を打ち破ることになるのが、娘の咳である。彼女は喘息症なのである。
父と母が誘拐犯と携帯電話で交渉し、叫び声と怒声をどれだけ響かせて犯罪の完成と崩壊を争ったとしても、それらは娘の喘息だけで吹き飛んでしまうのだ。咳き込んだとき娘は話すことができない。だが、話された言葉よりも直截的で透明な「言葉」を娘の咳は語ることができるのだ。
喘息の発作を境に、個室を包んでいたヴェールが透きとおり始めたかのように、空間は外に向かって広がり出す。四角い鏡やTVモニターのような「内部の窓」はしだいに消え失せ四角い枠だけが残り、それが移動する車や飛行機の窓枠となって風景を切り取り始める。たとえばそれは、夫婦が密かにメールを交わし合うモバイルの四角い液晶画面でもある。思い出そう。犯人が愉快な誘拐ゲームの始まりを告げたのは、口紅で窓に書かれた「BAD IDEA」の文字だったし、そのあと不覚にも彼が娘の病気について知るのも薬瓶に記された「asthmatic」の文字によってだ。つまり、そうして手で書かれ印字されていた文字までが、娘の咳をきっかけに、明滅し移動するe-mailの文字に変貌し始めるのだ。
最後に3人の人質たちは一カ所に集結することになる。それは誘拐犯たちの失敗を意味する。というのも前回の犯罪において犯人たちがその成功を確認しあったのは狭い車の中だったから。それとは逆に、今回彼らが集まってしまった場所は、自動車が転倒し窓が砕け散り炎の上がる路上、それもフリーウェイという遮るもののない交通の空間であったのだ。画面に映る文字や四角形がなめらかに流動化してゆき、そしてそれが注ぎ込む終着点において、私たちは再び娘の咳を聞き、そのアクションとしての明瞭さを知るだろう。

衣笠真二郎

投稿者 nobodymag : 21:13

『ミスティック・リバー』クリント・イーストウッド

クリント・イーストウッドは旅をする。サン・フランシスコ市警でハリー・キャラハン刑事を演じたり、西部の開拓地で名もないプリーチャーを演じたり、スペインの地で早撃ちのガンマンを演じたり、アフリカで像撃ちを躊躇する映画監督を演じたりするために旅をする。だが、彼自身の聖なる身体をフィルムの表層に晒すことを選ばないとき、彼は、それほど大きくない場所に留まることを常にしている。ニューヨークの小さなジャズクラブ(『バード』)だったり、南部のジョージア州の沼沢地に開発された美しい街(『真夜中のサバナ』)だったり、マサチューセッツ州の州都の中心を流れる川沿いの地域だったりする。
 私たちの知っているマサチューセッツ州の州都ボストンを流れる川はチャールズ川という名前で、東部のリッチで知的なこの街(ハーヴァード大学もこの街にある)にふさわしく、この川にはヨットが浮かんでいる光景を思い出す。古き良きアメリカの知的な伝統。寒いけれども空気が透明で、良く晴れた秋の午後には紅葉がチャールズ川に反射している。
『ミスティック・リバー』のリバーとはチャールズ川のことだ。だが、チャールズ川から「ミスティック・リバー」にこの川が名前を変えると、ここがボストンであるという記号は一切姿を消してしまう。サバナならいかにもその街らしい19世紀の邸宅を惜しみなく見せてくれたイーストウッドが、このフィルムではボストンをまったく見せてくれないのだ。否、見せてくれているのだが、そのボストンは、私たちの知っているボストンの姿とは異なっている。空気はどこまでも濁っていて、透明な青い夜の代わりに、底なしの暗さが支配している。チャールズ川にかかる鉄橋を見せてくれはするが、その下には何も見えない。それにこのフィルムが映し出す季節はいったいいつなのか。夏でも冬でもないだろう。光を欠いた空はほとんど常に曇天だ。だが、私たちが季節を知ることになる植物の色合いや、衣服の肌理がこのフィルムには不在だ。まだメジャー・リーグ・ベースボールの放送が聞こえる季節だから夏が過ぎた秋かも知れないが、ストリードの子どもたちが興じているのは、ベースボールではなく路上ホッケーだ。ティム・ロビンス演じるデイヴが息子に「おとうさんは79年から82年に高校野球の良い選手だったんだ」という台詞から、このフィルムが現代のことだと分かるのだが、そのこととクルマの型以外、このフィルムが現代のことであることを示す記号は登場しない。つまり、ここは確かに川の流域にあるそれほど生活レヴェルが高いわけではない街の一角でしかなく、時代も現代なのだが、それが現代であることはまったく重要ではない。このフィルムにはほとんど何も見えないし、途切れ途切れの言葉以外、ほとんど何も聞こえない。マサチューセッツ州警察の刑事の妻は、今は離れて暮らす夫に毎日電話をかけるが、彼女は何も語らない。
つまり、このフィルムにあって重要なのは、見えないという事実であり、聞こえないという事実だ。このフィルムが示すのは、見えていない過去や、聞こえない隠された何かがあって、それらが、登場人物たちを今支配しているということだ。実際には見せてくれないデイヴが年少児に受けた性的虐待や、このフィルムのブラックボックスになっている19歳の娘の殺人事件こそ、3人の主人公をその存在そのものから支配している出来事なのだ。すべての過去の集積の後に生きる人たちにとって、その時間の澱は、現在、振り払おうとしてもあまりに重すぎてますますその重みを実感するだけだ。デイヴが殺され、事件が解決したとしても、生き残ったふたりの主人公は、これからもますます重みを増す過去の時間の澱を背負うだけだ。イーストウッドがこれほど抽象度の高いフィルムを撮ったことはないだろう。そしてこうした抽象性は、アメリカ映画の彼岸にあるものだ。

梅本洋一

投稿者 nobodymag : 21:11

2004年01月15日

『LIFE GOES ON』高橋恭司

もし明日写真集を作れと言われたら何を考えるだろう。いや、写真を撮れというのではなく、写真集を編集してくれと言われたらの話。はい、と答えて、じゃあどんなものにしたいか尋ねられたら。ぼくはきっと「小津のように作りたいです」と答えるだろう。
『晩秋』の、壺のシーンはシンポジウムでも話題になっていたが、あの京都旅行中の清水寺のシーンの直前、なに山かの稜線が斜めに画面を横切るショットが挿入される。たしかその前が旅館で笠智衆と原節子が歯磨きするショット。で、茂々の稜線がきて、つづいて清水寺。
ストーリーの意味の連なりとは関係ないショットをグサリと並べるさまは、小津の特徴としてみなが指摘することだ。あの稜線のショットも、それから壺のショットも、それからショットの並べ方も、その裏に意味はない。それはいいのだけど、おかしな言い方になるが、その直後には何かがある、とぼくは思う。もちろんその直後には次のショットがあるのだが、そうではない、もっと違った「直後」もあるのではないか。逆に言えば、小津(厚田)のショットはいつも「直前」の状態にあるということだ。
それがいったい何の「直前」かはいままだわからない。でもその「直前」というさまは、小津が好んで語る物語や、たとえば原節子の身体にも当てはまるだろう。肉が溢れる直前のさま。それが原節子だ。
高橋恭司の『LIFE GOES ON』は97年に2000部限定で発売された。古本屋で見つけたそれには1103/2000と記されている。渋谷、恵比須、目黒という、当時きっと写真家本人の近所だったろう場所で撮られたカラー写真。それらが15枚、クリームの画用紙に適当に貼られている。8×10で撮られた15枚は、どれも鮮明極まりない。人工的に作られた色合いは明らかに狂っている。ガールフレンド、本人、木、花、カーテン。それぞれのショットは、これもやはり何かの「直前」のさまだ。光が溢れる直前。それから、そこに写る花が花であることの直前。もしかしたらガールフレンドと別れる直前、結婚する直前。これらに裏はないが「直後」はある。そしてその並べ方もまた、裏ではなく「直後」というさまを生み出す。高橋恭司とともにAD角田純一が、この「直後」をつくり出している。写真もまた、映画と同じく時間を扱うものだ。
「小津のように写真集を作りたい」とは何とも恥ずかしい考えだけど、『LIFE GOES ON』を見ると、つい、そう言いたくなるのも事実だ。こんな写真集を作ってみたい。何かの「直前」の断片を並べて。そして、それでも、人生はつづく。

松井宏

投稿者 nobodymag : 21:10

2004年01月13日

『ブルース・オールマイティ』トム・シャドヤック

「群像」12月号での保坂和志×阿部和重の対談の中で、保坂氏は、『シンセミア』は個の視点から世界を描くのではなく、出来事を並べ立てていくことで世界を捉えている、という発言をしている。だが、『シンセミア』の場合、神町という一つの町の仕組みやそこで起こる出来事を書くことに専念しているため、神の視点のような超圧的な存在が登場することはない、と。更に、保坂氏は自身が先日行った創作学校での石川忠司とのトークショーで、石川氏がした発言を取りあげている。石川氏は、小説の書き方は個を書くか大きい世界を書くかどちらかだとした上で、最近の学生たちの問題は、大きい世界を書けないことにあると指摘する。大きい世界を書こうとすると、どうしても超越者が出てきてしまう。それを克服するために、石川氏は学生たちに、藤沢周平を読むことを勧めている。藤沢周平の世界のサイズは藩に留まっている。藩は個人の力が及ぶ一番広いサイズであり、超越的な視点を導入することなしに世界を書くことが可能となる。
『ブルース・オールマイティ』はバッファローという町が舞台となっている。神の力を授かったジム・キャリーが、人々の祈りの声の多さに悲鳴を上げた時、モーガン・フリーマンは、これはバッファローの人々だけの声であり、まだ世界の人々の声は聞こえていない、最初は数を減らしてあげたのだ、と言う。そして、ジム・キャリーが(自分のものも含め)願いを叶える範囲、そしてそのために暴動が起こる範囲も、最後までバッファローの町を出ることはない。トラックに轢かれたジム・キャリーは、最後に心からの祈りを口にしようとする。「すべての人々に平和を・・・」という彼の祈りを、モーガン・フリーマンは静かに却下する。本当に望んでいることを言えばいい、という言葉に、ジム・キャリーは自分の恋人への祈りを唱え始める。個人的な、極めて具体的な対象を持つ祈りは即座に叶えられる。
世界を考えるためには、取りあえず、個人の力が及ぶ範囲内で考えることから始めればよい。神という超圧的な存在、そして超圧的な力すら具体的な現実へと還元される。テレビの中では、バッファローの外部で起こってしまった事件(月の位置の変化によって起こった日本での洪水)が伝えられている。神の力は、結局世界全体に影響を与えてしまう。それでも、映画はバッファローの外へは決して出ていこうとしない。大きな世界は、小さな世界から生まれるのだ。

月永理絵

投稿者 nobodymag : 21:08

2004年01月11日

ラグビー 大学選手権準決勝 早稲田対同志社 関東学院対法政

勝敗の行方が決定してから気を抜き法政に反撃を許した関東学院はまだしも、早稲田は法政戦に続いて薄氷の勝利を拾った。38-33。しかも前半は31-14というゲームである。それに一時は31-33と逆転を許した瞬間もあった。トライ数は共に5、ひとつのコンヴァージョンとPGの差で本当にかろうじて早稲田が逃げ切り、17日の決勝戦に臨むことになった。
前半に一時31-7と決定的に差が開いた時期があったがその直後に一気に切り替えされたことが競ったゲームになった原因だろう。だがアルティメイト・クラッシュを繰り返した昨年のチームに比べて今年のチームが危なっかしいのはなぜなのか? メンバーは今年の方が揃っているし、曽我部の怪我でゲーム・プランに狂いが生じているとは言え、大学選手権の今まで5ゲームを通じて立て直すことができない。前回、私は、フランカー陣、SH、そしてセンターが原因であると書いたが、今日のゲームを見る限り、もっとも大きな原因はSHだろう。後藤の判断が遅い。パス・マシーンでよいとも前回書いたが、このゲームを見ても、ますますその確信は強くなった。ターン・オーヴァーも何度かされたが、ボールが見えているのにパスを躊躇する後藤が原因だ。(もちろんそれを同志社のオフサイドだと言えるかも知れないが、一瞬の躊躇で相手に絡まれるのだ。)
今の早稲田に必要なのはボール・ポゼッションだ。それができれば、両センターのタックル力のなさも顕在化しないはずだ。池上も今村もよくタックルに行ってはいるが、相手を仰向けに倒すジャスト・ヒットが少ない。ライン全体──これは太田尾のリードだろうが──が前に出て行くスピードも遅い。
関東学院は大学チームの中で一番安定しているし、力も早稲田よりもずっと上だ。だが、それに勝たないことには、2連覇はない。どうすればいいのか? もう解答は書いたように思う。まずポゼッションを心がけ、そのためには後藤の判断を1秒ずつ速く。もちろん常にポゼッションを続け、ボールのリサイクルを反復できないだろうから、相手ボールになったら、徹底したシャローのディフェンス。抜かれてもいい。カヴァー・ディフェンスよりも一発のヒット。だが、その2点ができても関東学院にはやっとイーヴンだろう。去年のようには勝てない。

梅本洋一

投稿者 nobodymag : 21:06

2004年01月10日

『ニシノユキヒコの恋と冒険』川上弘美

ニシノユキヒコという一人の男の名前が何度となく登場する。「西野君」「幸彦」「ニシノさん」「ユキヒコ君」呼び方や文字はそれぞれ違っていても、音としての「ニシノユキヒコ」は常に存在する。それが本当に同一人物の「ニシノユキヒコ」であるかどうかは明らかではない。ただ「ニシノユキヒコ」というひとつの音がそこに存在し続けるというだけだ。
一方、女たちの名前は次から次へと変化していく。夏美、みなみ、カノコ、マナミ、例、愛・・・。ここに書かれた人々には、律儀にみな名前が与えられている。だが、ひとりひとりの身体的特徴はほとんど描かれていない。場所や時間を限定する具体的な言葉も見当たらない。パフェ-を食べたレストラン、タイサンボクの生えた空き地、海岸の近くにある旅館。どこにでもあるような、けれどくっきりとした輪郭を持たないぼんやりとした情景。通天閣、江ノ島、具体的な名称が登場するとき、それらの言葉は、固有の場所を喚起すると言うよりも、ツウテンカク、エノシマという言葉の響きが繰り返されるだけなのだ。言葉の運動だけがそこにはある。
「もう、終わったでしょ」幸彦はあたたかな声で、言った。
「もう、終わったんだっけ」ばかみたいに、あたしは繰り返す。
「もう、終わったんだよ」幸彦も、繰り返す。
                      (「ドキドキしちゃう」より)
二人の男と女がいて、抱き合って、会話をして、それでも男は、セックスはしない、と言う。なぜなら二人はもう「終わった」のだから。このうえなく明確な答えだ。全く反論の余地の無いほど。“そんな簡単に終わってしまっていいの?もっとドロドロしたところまで突っ込んだ方がいいんじゃないの?そんな風に担当の方と揉めたりもしたけれど、私は「ニシノユキヒコ」という男を徹底的に不実な男にしようと思った。”というようなことを、川上弘美は「ダ・ヴィンチ」での一青窈との対談の中で言っている。「終わる」ということをあっさりと断言してしまう「ニシノユキヒコ」に、「好き」なことと「好きではない」ことが簡単に判明してしまう彼らに、現実はそんな簡単じゃないよ、と言いたくもなる。しかし、「別れるよ」と言えば「終わり」だし、片方がどこかへ言ってしまえば「終わり」、そして死んでしまえば「終わり」なのだ。「ニシノユキヒコ」は決して像を持っていない。いくつもの名前を与えられた、よく似通った女達も同様に。すべては言葉によって、音によって決定される。ドロドロした関係など必要ない。言葉の運動は淀みなく続けられるのだ。

月永理絵

投稿者 nobodymag : 21:05

2004年01月09日

『パリ・ルーヴル美術館の秘密』ニコラ・フィリベール

青い服を着た男たちの集団が絵画や彫刻を運び込んでいく。遠目には制服のように見える青い作業着も、近づいて見ればそれらが様々なヴァリエーションをとっていることがわかる。三つ釦ジャケット風、ワーキングジャケット型、ガウンめいたベルト付きの服、オーヴァオール、デニムシャツ。丈も様々。彼らが巨大な絵を運ぶ。画布の巨大さに木枠が軋む、黒板を爪で引っ掻くような音。磨き上げられた床にゴムの靴底が音を立てる。1歩ごとに「ギィ」と「キュッ」が重なる。彼ら異なる細部を持つ青い単一体によって淡々と搬入・設営はこなされていく。もちろん貴重な芸術作品が相手のこと、扱いはぞんざいであってはならない。ロール状になった巨大な画布が壁にすれないよう気を使う。だが対象の価値ゆえに恐れを抱くこともない。何本もの手によって広げられていく絵の、その作業にためらいはない。敬意と手と材質との親和がある。
この仕事の質は彼らだけのものではない。展示品の修繕補修を行う者や収蔵品の管理をする者はいうまでもなく、ルーヴルの所蔵品には直接手を触れることのない者、調理人や清掃夫にも、その質は行き渡っている。レンジのダイヤルを回し、鍋の底をかき混ぜる。窓に浮いた汚れた泡をワイパーで掻き取る。
極めてメガロマニアックなルーヴルという舞台では、内部の活動が表に出ることがない。と同時に全体に影響しないような細部など何ひとつない。冒頭で展開されるローラースケートの猛スピードの交通網によって、ルーヴルは、青の、黄色の、紺色の、白亜の、マーブル状の単一体になる。

結城秀勇

投稿者 nobodymag : 21:03

2004年01月07日

『ファインディング・ニモ』アンドリュー・スタントン

息子ニモを探し助け出す父親マーリン。物語はたったそれだけだ。そしてここには語りの効率性と、それを異化する距離とが見事に存在している。ガス・ヴァン・サントの『ファインディング・フォレスター』(邦題『小説家を見つけたら』)と同様、1本のフィルムは現在分詞のなかで特異な何かへと変容してゆく。
ピクサー・スタジオの魅力はそのアニメーションテクノロジーにあるのではない(でも確かにものすごい)。その魅力は、何を見せるか、見せないかという演出の確かさと語りへの意識にある。『ファインディング・ニモ』にはコメディの良質さと、そしてヒッチコック的なサスペンスがちりばめられつつ、しかし砂漠のような風景を目の前に提示してくれる。現在の子供たちはそのようにあるべきだ、と言わんばかりに。
『シュレック』『モンスターズ・インク』を見てもわかる通り、ピクサー・スタジオの語る物語はつねに同型だと言ってよい。まずかならずふたつの共同体がある。前2作であればモンスターと人間の共同体。異形の主人公はグッドパートナーとチームを組み、異質の世界(=人間の世界)へと自らを横断させようとする。そして今作にもまたふたつの世界が登場する。海の世界と人間の世界。
人間に囚われたニモを救出する父親マーリン。しかし『ファインディング・ニモ』で重要なのは、その救出劇ではない。もちろん子供の脱出劇でもない。ふたつの対立する世界は便宜上あるだけだ。そのふたつの侵犯や横断も便宜上あるだけだ。実際、人間に囚われたニモが住むのは小さな水槽、つまり海と同型の世界だ(もちろんそこは貧しいが、しかし豊かさと貧しさの対立もまたここでは便宜的でしかない)。
ここで真に示されるのは、そうした物語が生まれる直前の、いや、そうした物語が発生する過程としての時間と空間のみだ。「ニモ」という記号がマーリンの口からサメへと伝達され、それがカニへと、海鳥へと伝達され物語へと生成する。それはマーリンという個人(魚)の意志から出発し、その意志を追い越してマーリンをも包み込む「世界」という何かの姿でもある。
もっとも素晴らしいのはマーリンのパートナーであるドリーの存在だ。女性であり、数分前の事柄を記憶できないというドリーの設定は、そのまったくの無意味さとアナーキーさとでもって、物語と伝達を中断させる。彼女は海に脱出したニモと最初に出会うのだが、彼がニモであることも、そしてそれまで自分がマーリンとニモを救出しようとしていたことすら忘れてしまっている。しかしある事柄をきっかけに彼女はそれまでの記憶を一挙に思い出す。それはまるでこの「世界」の記憶そのものが一挙に訪れるように、ドリーがドリーでなくなる瞬間でもある。無意味な個体のなかに海が一挙に流れ込む。伝達によって生まれた「世界」や物語は、そのようにして我々に訪れる。記憶が甦るフラッシュバックの連続には、たしかドリーが見ていないはずのシーンすら含まれていたはずだ。「世界」はそうやって我々に伝染する。つまり、近頃のクソガキはまったくとんでもないものを見せられているわけだ。合掌。

松井宏

投稿者 nobodymag : 21:01

2004年01月06日

『男性誌探訪』斉藤美奈子著(朝日新聞社)

「十人十色」というように、人にはそれぞれ個性があって、ひとりひとり別々の顔があり、別の声を持っていて、ひとりとして同じ人はいない。雑誌もまた、それと同じように、大まかなグループ分けはできても、それぞれが別の個性を持っている。本書には、それぞれの男性誌の備えるそういった「たたずまい」が記されている。たとえば、「文藝春秋」は「保守でオトナな日本のセレブ」であり、「サライ」は「家庭で、病院で愛される高齢者雑誌」であり、また「『なんとなく、クリスタル』の世代が、いまや四十代の立派な中年になって」読む雑誌が「ブリオ」であり、「最後のナンパ誌」である「ホットドッグ・プレス」は「妄想全開」である、などなど……。対象となる31誌の男性誌のなかには知っているものもあれば、読んだこともなければ、聞いたことすらないものもあって、知識を補うことができた。しかし、本書に魅力があるとすれば、それは些末なヘェネタの数々ではなく、ここでとられている著者の一貫した態度によって雑誌そのものが孕む性質がほの見えることだ。
本書のあとがきである「編集後記」にはこうある――「男性誌に限らず、雑誌というものは一種のサークルみたいなところがあって、常連の読者からすると美点も欠点も知り尽くした旧知の間柄、あうんの呼吸だけでわかりあえる空間である」。雑誌がその個性を提示し、読者がそれを受け入れることでそのような閉じられた空間が生まれる。雑誌を読むことは、その空間へと一歩足を踏み入れることなのだ。斉藤はその閉鎖性を告発することはしない。ただ「それぞれの雑誌の『たたずまい』を記す」だけだ。興味深いのは、その「たたずまい」が当の雑誌のものなのか、それともその読者のものなのかいまひとつはっきりとしないところである。雑誌についての記述がその読者についての記述に重ね合わされている。
ぼくは10代のころ雑誌を読んで、そこに「東京」を夢見ていた。自分の思い描く理想的なイメージをそこに投影していたのだろう。大晦日の夜、実家に帰っていたぼくは、歌合戦とは名ばかりの「紅白歌合戦」の流れるリヴィングを抜けて、自室でこの本を読みながらすこし郷愁に浸っていて、いつのまにか年が明けていた。かつてのぼくのように雑誌を読むのなら、本書は格好の入門書になるのかもしれないと思った。このなかから自分のイメージに合致するものを選ぶだけでいい。

須藤健太郎

投稿者 nobodymag : 21:00

「息子のまなざし」ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

「距離を感じる」「距離を置く」「距離を縮める」人と人との間にある距離を操作することは、いつもふたりの人間間でしか起こらない。一対一で向かいあった時、ふたりの間には直線が引かれ距離を測ることが出来る。それは決して概念としての距離ではなく、数値としての距離である。
一枚の紙を一心に見つめながら、「オリヴィエ!」という声に顔を向け走り出す。オリヴィエが少年の存在を知るのは紙に書かれた名前からである。少年の姿を目にするかどうか、映画は彼の決断によって始まる。オリヴィエは、少年を自分の担当するクラスに入れることを一度は拒む。自分のクラスは既に定員オーバーだから、と正当な理由をもっており、必ずしも個人的な問題を持ち込んでいるわけではない。しかし、自分のその行動が、少年の名を以前に知っていたせいなのか、あるいは元からそうするはずだったのか、彼は悩む。少年を受け入れるべきか否か、という問題ではなく、少年を生徒として認めることと認めないことと、どちらが公平であるか、という問題である。もちろんそこに少年の姿を自分の目で確かめたい、という欲望が含まれていたとしても。少年にとって、罪の償いは年月によって執り行われる。だが、オリヴィエにとっての償いは、時間ではなく言葉なのだ。それは、「後悔している」というようなメッセージではなく、言葉によって戯れることであり、コミュニケーションの成立へと至る過程である。教師と生徒という、オリヴィエが頑に守ろうとした社会的関係は、ふたりの会話や共同作業によって別な関係へと発展していく。少年の口から少しずつ事実が積み重ねられていった時、オリヴィエは初めて自分の言葉を投げかける。行為を模倣する(息子にした行為を少年に対して行おうとする)ことは、単なる模倣にしかなりえない。完璧に繰り返すことなどできない。少年が息子を殺したことと、オリヴィエが少年を殺すことはそれぞれが孤立した行為であって、そこに何らかの関係が生まれることはない。
オリヴィエと少年との間にある一定の距離は、その正確な数字を測ることで徐々に縮められていく。オリヴィエの元へ近づいていく少年の身体を、オリヴィエは拒否しようとする。時間と共に変化するのは二人の関係ではなく、少しずつ緩和していくオリヴィエの身体である。彼を見つけること、彼に見つけられること、二つの事柄は断絶し対立したまま、ただオリヴィエの視線だけが変わらずそこに在る。これらが同等に扱われた時、映画は終わりを迎える。

月永理絵

投稿者 nobodymag : 20:58

2004年01月04日

ラグビー 大学選手権2回戦

関東学院対同志社、早稲田対法政を最後にラグビー大学選手権2回戦が終了した。同志社が明治、帝京を連覇したほか番狂わせはない。だがその同志社も関東学院に完敗。12トライの猛攻を受けた。対する早稲田は、法政に19-12の辛勝。曽我部を欠いた早明戦から早稲田はゲームプランにもたつきが出て、昨年のようなアルティメイト・クラッシュを一向に見せられない。
準決勝は関東学院対法政、早稲田対同志社とマッチアップになった。関東学院は前半こそ法政のディフェンスに苦労するだろうが、後半になればFWの差で法政を突き放すだろう。早稲田は? この2回戦の3ゲームを通じて同じことだが、接点の激しさをもう2倍、ミスを2分の1にしなければ、関東学院はおろか同志社にも危ない。曽我部の故障以外にも早稲田の不振の原因はいくつかある。まず接点でのスピードのなさ。上村、羽生らの卒業で、フランカー陣のボールへの寄りが一歩遅いこと。ついでSHの後藤の球離れが悪いこと。後藤個人に、去年の田原以上の運動能力が備わっているためか、パスマシーンに徹する凡庸さが足りない。すべてを太田尾に託すくらいの機械に徹する凡庸さが彼には必要だろう。そして、何よりも──このことは誰よりも清宮が理解していると思うが──センター。ハードタックラーがひとり欲しい。2回戦では多様な人材を試し、結局、池上=今村に落ち着きそうだが、今村の才能は認めるし、池上のクラッシュも認めるが、前へ出るタックルがこのポジションには不可欠だ。そして、もう1点。蹴れるFBが欲しい。落ち着いたゲームメイクのできるFBはいないのか? 内藤慎平のアタックとディフェンスは買うが、キックがない。
同志社には、キックを封印してパスプレイに徹すること。5トライはいけそうだ。そして、3トライ以下に押さえること。だが、関東学院に勝つには、キックによるゲームメイクも絶対に必要になってくる。関東学院の完成度は去年よりもずっと高い。だが、FWで崩して山本貢でトライするパターンのラグビーはジャパンの取る道ではない。つまり、今年くらい、早稲田の勝利が必要な年はないのだ。フランスよりもワイドなラインでトライを取り、そして勝つ。それがジャパン・ラグビーの将来像と重層されるはずだ。

梅本洋一

投稿者 nobodymag : 20:56

『阿修羅のごとく』森田芳光

4姉妹のうち3人は、過去の森田作品で主演を飾った女優たちである。それを、スタジオ全盛時代を経験したヴェテラン俳優たちが支えるという編成である(本作は仲代達也と八千草薫が、『模倣犯』(02)では山崎努)。いわばここ10年の「森田組」の華がそろったというわけだ。物語の舞台は昭和54-55年。時代考証は微細なところにまで施されていて、電話ボックスには黄色い電話器、食卓の牛乳パックは森永の懐かしいデザイン、そして居間にあるTVは木製の箱形だ。では、屋外に広がる風景を見てみよう、とすると、それがない。べつに厳密な歴史的再現云々を指摘するつもりはないから、そこに何が映り込んできてもかまわないのだけれども、フレームの内に見えるのは選択と排除の意志ばかりなのだ。杉並区の路地の奥行きは上り坂でふさがれていて、浮気現場の公園は木々で囲われている。花やしきのシンボルタワーや鳳名館別館がフィルムに映ったのも、それが東京のささやかなモニュメントだからというより、「いまも変わらぬもの」によってフレーム内を安心させたかったからではないだろうか。明確な時代設定のなかで昭和54-55年の徹底した内部空間を作るわけでなく、またその外部も映らないこのフィルム。同じようなことは他のフィルムにもあるとか、24-25年前は再現するような過去ではないとか、そういったことはここでは問題にならないだろう。つまり、森田にとって昭和54-55年とは1979-80年なのである。このときすでに自主映画監督であった森田の、とりあえずの結節点をつくっていたのが他でもないこの2年間だったのである。それ以前に『水蒸気急行』(76)『ライブイン茅ヶ崎』(78)などを8mmで撮り、その後『の・ようなもの』(81)で彼はいきなり35mm処女作を撮る。フィルムの幅が変わっても、そこに映っていたのは間違いなく同じ時間の東京だった。都内を走る国鉄、深夜の歌舞伎町、川向こうの下町。フィルムはすこぶる活き活きと都市の空気を呼吸していた。もうすでに、あのときのように東京を見る眼は失われてしまった、そうつぶやいて、『阿修羅』は1979-80年の東京を見つめる。この作業はきわめて倒錯的だが、しかし森田はなおも冷静だといえよう。というのも、彼はある距離を自覚しているのだから。1979-80年のあいだに監督とキャメラマンとの兼任をやめてしまい、それによって『の・ようなもの』で生まれてしまった監督の眼とキャメラのレンズのあいだの距離。8mmキャメラを手放した彼は、文字通り世界に飛び込む必用がなくなっていったのだ。そしていま彼は倒錯的に「Paradise Lost」を宣言した、これは言い過ぎではないだろう。

衣笠真二郎

投稿者 nobodymag : 20:45

2004年01月03日

『A Talking Picture』マノエル・デ・オリヴェイラ

船出を飾るエンリケ航海王子の像やアクロポリスの神殿やピラミッド、イスタンブールの港で船を迎えるホテルの直線的な矩体と色彩。移動と時間が積み重なれば積み重なるほど、被写体は単純な幾何学的図形に還元されていく。それはオリヴェイラ自身の歩みにも重なるなどとも言えそうだが、だとすれば彼自身が「長生きする事がそれほどめでたい事だとは思わない」とつぶやいていたような意味でのある種の憂鬱が、目に映るものの持つ途方もない明証性の裏にへばりついている。それは達観とは違う。船の舳先が海を切り裂いていく、しぶきを上げる波で画面を横切る斜線が、その都度異なる形に乱れる。港からの引きのショットでは荒れ狂う海で船がぐらりと揺らぐ。この極めて不安定なものたちをオリヴェイラは完全に強固な形象に変えてしまう。それを支えているものはタイトルの通り「Talking」なのだが、しかしそれは聞き手のわかる言葉で語る、あるいはわかってもらえるように話す、そういう個人の能力や技術によってもたらされているのではない。各々が違う言葉で語りなおかつ各々がそれを理解可能である、という船上に展開されるつかの間のユートピアは、会話の主導権を握っている話者の言語能力ではなく、聞き手によってこそはじめて生まれる。この決定的な断絶を乗り越えて強固な関係を築いたうえで――それ自体が辿り着くことが極めて困難なものであるにもかかわらず――オリヴェイラはいとも簡単にそれを崩壊せしめる。イレーネ・パパスの歌と同じ位に果てしなく爆発がリフレインする。絶望に限りなく近い。だが、彼女の歌は永遠に続くかに思えた爆音の後にもまだ響いている。沈みゆく船の上で、新たな船を建てねばならない。

結城秀勇

投稿者 nobodymag : 20:01

天皇杯決勝 ジュビロ磐田VSセレッソ大阪

サイドの出来がチームの攻撃力を左右する。セレッソ大阪は明らかにそんなチームだ。3-5-2の右サイド酒本がジュビロ(こちらも3-5-2だ)左サイド服部に詰め寄る。センターラインを越えた辺りで奪ったボールを中央前線のバロンへ。ワンタッチで落としたところに走りこむ森島はシュート!ではなく逆サイド大久保へダイレクトパス。シュートこそ打てなかったものの、開始早々のこのシーンが、セレッソ唯一最大の攻撃パターンであり、そして今試合における最大のチャンスだった(もちろんこれは<ゴール>ではない。あくまで<チャンス>だった)。
中央に司令塔を持たないセレッソには、つまり高い位置でボールを奪うこと、しかもそれをサイドで実行することが重要となる。そして、サイドから裏を狙うにせよ、中央に当てるにせよ、ゴール前の勝負どころでは必ず大久保、バロン、森島が絡むこととなる。
だがふたつのことがセレッソの攻撃を失速させる。まずひとつ。中盤におけるプレス勝負に真っ向から立ち向かったこと。藤田のいないジュビロにかつてほどの中盤力はないにせよ、やはりセレッソに比べれば一枚も二枚も上手だ。均衡した時間帯もあったが、逆にいえば均衡が精一杯。もしセレッソが勝ちたかったのなら、右サイド酒本(あるいは後半から投入された徳重)をもっともっと高い位置に固定させるべきだった。守備はスリーバックと両ボランチに任せておけばよい。攻めは上記の3人と、サイドアタッカーをプラスした4人。難しいことは考えずにそれで勝負すべきだった。ふたつめ。前線のバロンの出来が悪すぎ。これは決定的にまずい事態。つまり、たとえ高い位置でボールを奪ったとしても、次の選択肢は、一直線に大久保を裏へ走らせるしかなくなるからだ。彼がすべきだったのは、とにかくディフェンス2枚(鈴木と田中)の間に位置すること。そうやって自ら相手ディフェンスをコントロールし、大久保と山西とのマッチアップの状態を作らねばならなかった。
以上のふたつは、敗因であるとともに、もちろん逆にいえばチャンスでもあった。ジュビロは、西(彼の動きはこのチームのバロメーターだといってよい)を酒本にぶつけることでサイド勝負に勝利し、鈴木を大久保につけ、そしてバロンにできるだけ低い位置(つまり全くの無危険地帯)でボールを持たせることに成功する。
このバロンと大久保とのコンビネーションは、少しばかり日本代表を思い出させた。そしてこの試合の<MVP>名波を見たわれわれは、とにかく彼を日本チームに必要としていることに気づくのだった。

松井宏

投稿者 nobodymag : 10:22