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October 9, 2020

『オールド・ジョイ』ケリー・ライカート
梅本健司

[ cinema ]

 決定的なことが起こったのではないか。幼い頃から友人であるふたりの男たち、マークとカートの、山奥で演じられる、緊張間に満ち、どこかすり減ったような二日間の友情譚のなかで、そんな予感がよぎる瞬間がある。ひとりが、訪れた温泉の浴槽の縁から手を離すとき。もう一方が抱えた靴と赤いリュックを草むらに放るとき。このふたつの「手放す」身振りは、順序立てて見れば、なんら不思議なことはないが、しかし、ケリー・ライカートにとって、そんな当たり前な動作こそが特権的なアクションとなる。
 
 ライカートは「手放すこと」についての物語を編み、「手放す」という身振りによって作品を導いてきた。『リバー・オブ・グラス』は、警官の手元から一丁の拳銃が失われることによって、物語の幕が開き、それを拾った者が再び拳銃を投げ捨てることでそれを締めくくる。また、重要な場面で、この映画が、銃声によってある男の手からこぼれ落ちる懐中電灯を捉えていることも忘れてはならない。長編三作目『ウェンデイ&ルーシー』は、ウェンディがそれまで所有していたものを放棄せざるを得なくなるのを撮った映画であるし、次作『ミークス・カットオフ』において、馬車を繋いだ縄を手放し、坂から落としてしまうという事態によって登場人物たちの目的も目的地も人間関係もより混沌とし始めるということを改めて強調する必要はないだろう。はたまた、ジェシー・アイゼンバーグがずっと握り締めていたものを手放す瞬間を見逃して、『ナイト・ムーブズ』を見たといえるだろうか。『サーテイン・ウーメン』に関しては、それまでの作品ほど「手放す」というアクションを特権的に扱ってはいないものの、説話的にそういった話題は何度か登場する。「手放すこと」がライカートの作家性のひとつであることは明確である。その限りにおいて、彼女の登場人物たちは、ホームレスのウェンデイからローラ・ダン演じる弁護士まで、決して持たざる者ではなく、なにかを持っている者たちだ。しかし、彼女/彼たちは、そのなにかを持ち続けることはできない。そのなにかは必ずその人々の手からは離れていく。
 
 そういったライカートの関心ごとを経由して、くだんのふたつの「手放す」身振りを振り返ってみる。映画内において、これらの動作はともに終盤、連続したふたつのシーンのなかで行われる。まず、ひとつ目のシーンは、ふたりの顔を交互に映す断片的なショットとともに構成されているが、その連鎖の中に、不意に、浴槽の縁から離れ、湯のなかに沈んでいくマークの手のクロースアップが挿入される。その手に結婚指輪がついていることから、家庭生活から彼がひととき解放されたのだという象徴的な意味を読み取ることもできるかもしれない。しかしそれよりも、彼が浴槽の縁から手を離し、肩をマッサージしてくれているカートに身体をあずけるということこそが重要だ。ふたりは全く別の生き方をしている。家庭があり、なんらかのコミュニティの形成に取り組んでいるマークと流浪のカート。「それぞれのリズム」についての会話がそれ以前になされるが、その差異があるがゆえにふたりのあいだにはどこか壁がある。とあるシーンでは、カートがそのことを実際に吐露している。一方が相手の体に触れ、もう片方が、それまで自分を支えていたものから手を離し、相手に身を委ねるという身振りは、ふたりがその壁を取り払おうとする営みのように見える。他者に触れられて強張った身体から徐々に力を抜いていく過程において縁から離れていく手のクロースアップは最も重要なショットである。このショットのあと、お互いの顔の寄りが再び数回交換され、温泉の周囲を捉えたいくつかの実景ショットに移行する。すると温泉からは彼らの姿は消え去っており、続くショットでは、ふたりは服を着て山道を歩いている。このシーンにおいて、彼らの関係がどう変化したのかということを、「手放す」という動作以上に示すことはない。その山道を通り、続く二番目の「手放す」身振り、カートが靴と赤いリュックを手放すシーンに移る。
 これは先程とは違い、短いがワンシーンワンショットである。画面の中央に車が置かれ、ふたりはそれに乗りこもうとしている。それまでふたりが車を乗り降りしているシーンはいくつかあるが、基本的にふたりで協力して、車のドアを開き、荷物や犬を積んだり、降ろしたりしていた。しかし、今回はマークが自身の荷物を積み、連れてきた犬・ルーシーを放置したまま、早々に車に乗り込んでしまう。そのため、脱いだ靴と赤いリュックを抱えたカートは、犬が乗り込む補助のため、抱えた荷物を草むらに一旦放らなくてはならない。直前のシーンと同じように、この「手放す」身振りは、自立した行為ではなく、相手との関係において至ったものであるといえる。しかし、先ほど近づこうとしていた距離が、リズムが再びずれてしまっている。一度わずかに氷解したようにも見えなくない関係は次のシーンでは再び温度差のあるものに戻ってしまう。マークとカートのあいだにどのようなことが起きたのだろうか。あるいはふたりの心情にどのような変化があったのだろうか。『オールド・ジョイ』は、ふたりの動作と動作の関係から見えてくること以上に、それを明確にしようとはしない。 
 それでは「手放す」という動作、アクションは、ライカートにとって、とりわけ『オールド・ジョイ』にとってなんなのだろうか。所有され、所有する関係から解放されることのメタファーなのだろうか。たとえば、『オールド・ジョイ』の場合、それは友情関係の精算であり、ふたりの別れを指していると。いや、そうではないだろう。「手放すこと」に、その行為とそこからの帰結で起きる運動以上の意味を求めてしまうのなら、ライカートの映画の核心からは、ずれていってしまう。確かに、それきり、ふたりはもう会うことはないかもしれないが、その動作によって決定的な別れが描かれたかどうかは知る由もない。つながっているのかも、切れたのかもわからない関係をふたりは背負っていくしかないのだ。そこにこそ残酷ともいえるライカートの映画の真髄、魅力があるだろう。「手放すこと」は解放ではない。「手放した」ところで彼女/彼らは過去を精算することができない。むしろ「手放した」もの、あるいは者たちは、手を離したところで、そこから消えることはない。ライカート的人物はそうした「手放したもの」とともに生きなくてはならないのだ。
 マークと別れた直後なのか、いつなのかわからない宙吊りの時間のなかで、ただ街に投げ出され、なにを、あるいは誰を探しているのかも示されず、しかし見えないそれに囚われているようにさまよい歩くカートが映される。ライカートは幕切れで決まってこのような、籠から解放されたがどこへ飛び立てばいいのか戸惑っている鳥のように、不完全な別れと孤独に身を引き裂かれた人々をオープンワールドに放り出す。最後には、まさにライカート自身も、彼女の登場人物たちを「手放す」のだ。そして、彼女のどこへいくかも、誰に会い、誰と別れたのかもわからない主人公たちを見届けられないままに、暗闇に放り出されたわれわれもライカート的人物にほかならない。
 

Gucchi's Free School「秋の文化芸術週間2020 ケリー・ライカート監督特集」にて上映

聖蹟桜ヶ丘キノコヤでも 「Gucchi's Free School×肌蹴る光線 秋の文化芸術週間2020 キノコヤSpecial」 として、ライカートの『リバー・オブ・グラス』の上映が、10/17(満席)、24、31、に行われる