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November 24, 2021

『夢のアンデス』パトリシオ・グスマン
川瀬恵介

[ cinema ]

mainA.jpeg 雷鳴なのか、地鳴りなのか、遠くから響いてくる音と共に画面は白んでいき、やがて雲を抜け山脈が姿を現す。チリ出身で彼地の歴史と記憶にまつわる作品を手がけてきたパトリシオ・グスマン監督の新作『夢のアンデス』はこうして始まる。太平洋を前にして、チリはその背をアンデスの峰々に預けている。そびえ立つ山脈は、それぞれに地層を持ち、人々がまだいない頃の記憶すら留めている。グスマンは、自らの作品の随所に人間の歴史感覚を超えた時間軸を差し込み、近現代チリの経験を揺さぶり問い直すことを仕掛けてきた。『光のノスタルジア』ではアタカマ砂漠の強制収容所の記憶と、世界有数の天文観測所の星々の歴史がドキュメンタリー映画にしかできないやり方で交差していたし、『真珠のボタン』では植民地以前の先住民たちと、軍政期に海に葬られた政治犯たちが「真珠のボタン」という同一のモチーフによって忘却の中から掬い上げられていた。アタカマの砂漠やパタゴニアの海といった自然をひとりの証人とし、そこへの問いかけを通じて、社会主義政権―軍政―民政移管の動乱のゆえに「記憶がない」とされる共和国の忘れえぬ、そして語られぬ近現代史が再び現れる。
 本作ではアンデス山脈が登場するものの、これまでの作品の砂漠や海のように実際にそこが何らかの政治的出来事の舞台となったわけではなく、証人としては、より間接的だといえる。例えば、首都サンティアゴの人々がアンデスを見るのは地下鉄の駅に掛けられたフレスコ画によってであるとか、グスマンが初めてアンデスを見たのはマッチ箱のパッケージであったとか。いずれもチリの表象として用いられる、描かれたアンデスである。山脈の間接的な記憶に比して、はっきりと証言するのはVHSやハードディスクに残された記録である。グスマンの『チリの闘い』以来の盟友であり、亡命することなくサンティエゴに残ったパブロ・サラスは、警察や治安部隊に放水され、催涙弾を投げられ、警棒で打たれ、連行されながらも弾圧に抵抗する市民たちを撮り続けてきた。劇中にはサラスがピノチェト将軍統べる軍政下に撮影したデモの様子が何度も挿入される。ある場面で、デモ隊の人々は投石もせずプラカードも持たず、両手をあげて非暴力を示しながらスペイン語で《歓喜の歌》を歌っている。警官たちは戸惑うように見えて、次の瞬間には歌う市民に容赦なく催涙弾を投げる。別の場面では「同志は増え続ける!」と繰り返し、繋いだ手を掲げる人々が映され、その音声がこれ以上ないほど高まったかと思うと、画面は白い大きなアンデスに変わる。観るものの耳に残るじんわりとした残響は山脈の谺となる。
 作品冒頭の山々に轟く遠い音が想起される。あれは人々の確かな意志の声ではなかったか。雷鳴のように聞こえていたのは、実は人々が声に出して願ったその響きわたりだったのではないか。文脈を持たぬものたちにはその音節も単語も判然としないが、確かに聞こえてくるあの音を声として聴く経験がこの八十五分なのだ。砂漠や海、山脈といった自然に語らせてきたように思えるグスマン作品の別の側面が明らかになる。語っているのはいつでも人間なのだ。だが時に語ることの非常な困難に立ち会うのもまた人間である。グスマンは記憶を人間だけのものにしてしまうのではなく、チリの風景を見つめ耳を澄ますことでその困難を解いてきた。それでも『夢のアンデス』は、人間の語る可能性に賭けるグスマンの遙かなる呼び声となって聴こえてくる。

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