山形国際ドキュメンタリー映画祭レポート

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October 7, 2007

知識人の役割

本日見た2本はどちらも立ち見。かなりの盛況ぶり。メイン会場である中央公民館ホール以外は朝から席を取らないと座れない。なので朝この日記を書いていると、間に合わない。でも人がたくさん来ることはいいことだ。自分が見たい(聞きたい、食べたい)ものは、ひとりでも多くの人間に見せる(聞かせる、食べさせる)こと。資本主義社会の基本ストラテジーだ。
ということで、アジア千波万波の1本、ユフィク『溺れる海』。インドネシアのスガラアナカン潟は、年々陸地に浸食されていっている。風に乗って運ばれてくる成長の早い植物の種が沈泥(シルト)を形成し、海が陸になる。そこで漁業を営んできた人たちが、農業に転職したりしていく。
かつてあったものがなくなること、その結果の記録である作品は同時に、なかったのにできたものをどう扱うのかという問題に直結する。海の消滅という現象は人為的なものではない(はずだ)が、その結果新しく出来上がった土地は、所有と管理という極めて人為的な問題を呼ぶ。海の住民が陸の住民になっていくと同時に、家の登記やよそものの存在といった限られた土地に対する争いが生じる。その入り組んだ事象に対する監督の距離感と人々に向けられるまなざしにはだいぶ好感が持てた。それと事情はよくわからなかったが、人々の口から「刑務所の役人」という単語が漏れるのが印象に残った。
その後、ワン・ビン『鳳鳴ーー中国の記憶』。ひとりの女性がその半生を一息に語る。フィックスで据えられたカメラの前で淀みなく語られる物語は、時に淡々と、時に情熱的になりながら、聞く者の耳を捉えてやまない。上映後のティーチインで監督が語っていたのは、「彼女が語ることを、ある事件の証言として撮りたかったのではなく、彼女が物語るという行為も含めた彼女自身を撮りたかった」ということだった。夕暮れ時のだんだん暗くなっていく室内、もうほとんど何も見えないくらいぼんやりとした薄闇の中で、彼女の言葉が目の前にスペクタクルを展開させる。誰もが思い浮かべるのではないかと思うが、まさにジャン・ユスターシュ『ナンバー・ゼロ』を髣髴とさせる。私がその映画を見たのは、ワン・ビンの『鉄西区』が上映された年のこの映画祭でだった。
「彼女の世代のアーティストは最も重要な存在であり、他の世代はその足元にも及ばない」、「彼女と話すことで、知識人がなすべき役割について考えさせられた」。そう語る監督の言葉は力強い。これまで見たコンペ作品の中では別格の感があるが、この作品と競合しうる作品をもっと見たいというのが正直な感想だ。

投稿者 nobodymag : October 7, 2007 11:22 AM