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2009年10月12日

三日目
結城秀勇

毎朝10時からソラリスにて上映されている戦後の教育映画「ナトコの時間」というプログラムがおもしろいという噂を聞き、また同じ時間にかぶっているアジア千波万波部門の『されど、レバノン』という映画も気になる。が、(すべては前夜の深酒のせいだが)朝一の上映には間に合わず。とりあえず昼食を。「龍上海」駅前店にてからしみそラーメン。
合間にインタヴューの準備などしつつ、マルチン・マレチェク『オート*メート』へ。渋滞や、騒音や排気ガス、歩行者の通行を妨げる駐車が問題となっているプラハ。自動車に変わる交通手段として自転車の利用などを促進する運動「オートメート」の活動の記録である。監督自身がその活動のメンバーであるということが主な理由かと思うが、問題となっている対象とその記録の手法が首尾一貫したものとして作り手の中で関連づけられていないのではないかという気がした。劇中、市の役人による新設環状道路のプロモーション映像を暗に批判する箇所があるが、それを行うこの作品自体が、そのプロモーション映像と同じ仕組みのただのプロパガンダになりかねないという危険性に監督は気づいていただろうか。ましてここでの主張が、子供や老人たちのために、公害の原因となり歩行の妨げとなる自動車を削減していこうという「正しい」意見であるだけに、なおさらだ。最後に監督はその団体での活動から遠ざかり、外から活動を見守っていくことにするのだが、この映画はそこから改めて始められるべきではなかったのか。
上映後、すでにギー・ドゥボール特集は別会場で始まっている時間のため、『映画『スペクタクルの社会』に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁』は諦め、 2本目の『我々は夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』から。一昨日に見た処女長編から、最後の長編となったこの作品まで間を飛ばして見ると、当然ながらに大きな変化があり感慨深い。
上映後に行われた、マルセイユドキュメンタリー映画祭ディレクターのジャン=ピエール・レムの講演では、ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』やトーマス・ド・クインシー『阿片服用者の告白』などに触れながら、過去の体験の回帰というようなテーマが語られた。ナイーヴな感想だが、この『我々は夜に〜』は非常に好きな映画だ。ドゥボールが決して認めようとせずに嫌ったジャン=リュック・ゴダールや、あるいはフィリップ・ガレルというような固有名詞を想起させもするある種のメランコリー。それは、映画の最後に掲げられた「もう一度はじめから」という言葉が、陰鬱な堂々巡りを思わせるからではなくて、その仮の終わりがなにか清々しいものになり得ているからだ。講演で触れられていたように、戦場において前衛のさらに先を行く最前衛の斥候は「失われた子供」と呼ばれる。兵士ですらないただの人間。「自らが当然のように人間であると主張する人々を、私たちは常に批判する」というような言葉がつぶやかれもするこの作品にある、一見過激さとは裏腹な静かな怒り、真っ当な憂いもまた、ドゥボールの作品の魅力であると感じた。

投稿者 nobodymag : 2009年10月12日 02:07