10/13 昨日が100年前より近いとは限らない

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  • 結城秀勇
『チルカレス』マルタ・ロドリゲス、ホルヘ・シルバ。煉瓦工という意味のタイトルを持つこの作品は、その通り煉瓦工として凄惨な環境で働く人々の姿を映し出す。土地を持たず、資産も設備も持たない彼らは、朝から晩まで幼い子供を含めた家族全員で働く。売り上げの大半は土地の所有者に搾取され、雨が降ればそれまでの労働が無駄になり、工場主への借金は膨らむばかりで、クビになれば住処も職もなにもかも失って即刻出て行かねばならない。
この作品に好感を持つのは、ごくごく当然のことなのかもしれないが、彼らの姿を映し出す映像が、彼らの生活の悲惨さを語るナレーションを単に補強し裏付けるだけのものではないからだ。救いも希望もない状況に、ふとした瞬間それを超えたなにかが映り込む。儀式のために真っ白いドレスに身を包んだ少女の美しさにハッとする。

昼に困ったら、とりあえずそばかラーメンを食っておけば、山形の店はだいたいうまい。ということで「龍上海」にて辛みそラーメン。生涯でおそらく一番多く喰ったラーメン。味が微妙に変わった気がするし、若干キャベツが堅いのでそれほどオススメするわけでもないが、とはいえ自分にとってはソウルフード。

『かつて私たちが抱いた思い』トム・アンダーセン。『シネマ』の序文で、ドゥルーズは、この研究は映画史ではなく、分類学だと記している。しかしその意図にも関わらず、この書物は避けがたく不可逆な流れとしての映画史を記述する書物になっている、そしてむしろ積極的に歴史としての『シネマ』を読み込まねばならないと、廣瀬純は語っていた。そうした意味での不可逆な流れの記述は、『シネマ』を出発点とする『かつて私たちが抱いた思い』にはない。だからこの作品は『シネマ』と同じ構造をしてはいない。
逆に私がこの作品に一番興味を持つのは、むしろ不可逆な事物の記述としての歴史の欠如というか、その平面的な配置なのかもしれなくて、100年も前のグリフィスの映画は高解像度の塵ひとつない鮮明さで映し出されるにもかかわらず、2001年のホウ・シャオシェンの映画がDVD程度の劣化した画質として見えてしまうという事実だ。習慣というか、染み込んだ身体感覚として、なんとなく漠然と、昔の映画は傷やスレが最近の映画よりも多いという先入観がまだ私には残っているが、これはもはや今後も自明なものとして存在する感覚ではないのだろう。余談だが『映画史』をすべて劣化したビデオ映像によって構成するゴダールの感覚の先鋭っぷりにあらためて感服する。
『ミレニアム・マンボ』で、髪を揺らしながら不思議なリズムのステップでカメラの前を歩くスー・チーは言う、これは2001年の出来事で、もう10年も前の思い出だと。『かつて私たちが抱いた思い』を見ていると、作品自体の趣旨とは関係のないところで、このスー・チーのような不思議な時間感覚に陥る。
最新作『真珠のボタン』に至るまで、1973年のチリ・クーデターを繰り返し繰り返し描き続けるパトリシオ・グスマンは次のように語っている。「その出来事を私は忘れることができない。私にとってそれはつい昨日のことのようなのだ。時間の流れ方は人によってまちまちだ」。
もはや、昨日が100年前より近いとは限らないのかもしれない。

『天津の一日』フォン・イェン。天津に住む、鉄道員やバイオリン職人、CAや芸人といった人々の生活を一日の出来事として描く。正直、まったく良いと思わない。実際には絶対一日では撮影できない複数の人間の生活をあたかも一日の出来事であるかのように構成するのは、それらが日々繰り返される普遍的な出来事だとして見せたいからなのだろうが、あくまで任意に選び出された光景にしか見えない。タイトルはこの作品が天津という街を描こうとしたことを示しているのだろうが、全然この都市そのものが見えてくる気がしない。上澄みとして掬い取られたこれらの映像の下に、もっと澱んだものがいくらでもあったのではないのか。