10/11「モンロヴィア、日常の光、そして色彩」

 フレデリック・ワイズマンの新作『インディアナ州モンロヴィア』には面食らう。一見、アメリカの片田舎ののびのびとした普通の人々の暮らしを追った本作だが、その節々に潜む陰惨さというか薄気味悪さは、『ニューヨーク、ジャクソン・ハイツへようこそ』や『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』といった近作には決して感じられなかったものだ。土地に根付いた伝統や風習を大事にし、保守的な政治傾向を有した街が舞台であること自体に違和があるわけではない。しかし、そこでの穏やかな日常にふと紛れ込む、ほんのささやかな歪みがどうしても気になる。まるで自分の自慢話のように自校のスターについて誇らしげに語る教師への、あるいは信じがたいほど退屈で中身のない説教を続ける牧師への、その姿を見透かすように冷ややかな視線を送る子どもたちのしらけ方。決して反抗するわけでもなく、後ろ向きな現状維持をただたんに受け入れているといった無為の表情。それに重なる話かはわからないが、たとえば流麗なパン・ショットが終わりきらない実に中途半端なタイミングでのカット繋ぎ、画角を変えているというよりは同一構図のトリミングをつなげているかのような画面解像度の違和を感じさせられたモンタージュの選択には、映してはいけないも何かがそこに映ってしまったのでは?という疑いを喚起させる何かがあるような気がする......が、考えすぎだろうか。(田中竜輔)

 金長本店で昼食。そば屋のラーメンではかなりの有名店。みんなにはラーメンをすすめ、自分はげそ天もり。客の大半がラーメンを頼んでいるようにうかがえる。(結城秀勇)

 この日は、4作品見た。どれもインターナショナルコンペティションの作品である。『インディアナ州モンロヴィア』、『ユキコ』、『光に生きるーロビー・ミューラー』、『自画像:47KMの窓』。『ユキコ』は、冒頭を少し見逃してしまったが、この映画にとっての最も重要な場面は見逃さずに済んだと思う。ひとりの女性が自身の祖母の思い出について語るシーンなのだが、話が一人称で語られる。彼女はまるで祖母に取り憑かれたかのように喋るわけだ。ただ、祖母の憑依は完全ではないのか、時折彼女は語尾に詰まる。それ故に、ひとりの、というよりは、長い時間を経て何重かに塗り重ねられたような記憶を聞いているかのようで、ちゃぶ台と、草木が窓から覗くその一室は異様な空間になっていく。
 『光に生きるーロビー・ミューラー』は、彼がカメラマンを勤めたヴェンダースやジャームッシュの作品の抜粋と共に、ミューラーが撮りためた映像が使われている。「Living the Light」なんて、ヴェンダースやジャームッシュの師であるニコラス・レイの『夜の人々(They live by night)』と真逆みたいなタイトルではないか。最後に、「彼は記憶と映画の中で生き続ける」という言葉が添えられる。レイが「夜」と呼んだものをミューラーは「光」と呼んだのではなかろうか。
 映画を通して四角い光の枠がひとりの老人を通り過ぎ、色合いを奪っていく。対照的に、ひとりの少女が村の老人たちの失われた色を発見し、同じく四角の枠の中でそれを取り戻していく。『自画像:47KMの窓』はそんな映画だ。「47KMの窓」とはまさにその少女のことである。その窓を通し村人たちのの歴史が、光として、あるいは影として往来する。別の日上映される『自画像:47KMのスフィンクス』への期待が高まる。
 映画を見ている間に、新幹線の運行予定がサイトに上がる。ゼミ生の半数が来られなくなりそうだ。仕方がない。宿泊予定の旅館や引率の教授に連絡を入れ、いろいろと対応を行う。山形は盆地だから、台風はあまり心配ないそうだと聞いた。ほんとかな、ほんとだといいと思いながら眠りにつく。(梅本健司)