10/14「水、星、砂(に埋まる頭蓋骨)」

 本日より奥羽本線が運転再開。車内でスケジュールをみていたら、たまたま向かいに座った方も映画祭に参加する方で声をかけていただく。旭川で上映活動をされているとのことで、先月されたという『阿賀に生きる』の上映会の話などを伺う。
 今日は一日『死霊魂』。それぞれ3時間ずつくらいの「明水Ⅰ」、「明水Ⅱ」、「明水Ⅲ」とタイトルの付けられた、3つによって本作は成される。明水とは、1957年に始まった反右派闘争により反対分子とされた人々が送られた再教育収容所のあった場所の名前だ。この3つを反右派闘争がどういうものか、そして生きている者と亡くなった者とを分かつものとは何か(途中挿入される、生存者だった方の葬儀と収容所跡を訪れたカメラが映す遺骨の対比は、ずっと本作の中に響き続ける)ということを考えされる「明水Ⅰ」。「明水Ⅰ」のテーマをさらに立体化させてゆく「明水Ⅱ」。本作の制作期間である2005年から2017年という時間(10数年を経て2回登場する人物が出てくる)までもが前景化してくる「明水Ⅲ」というふうにみることももしかしたら可能なのかもしれない。
 坂本安美さんが詳しく暖かく 書かれているように、ひとりひとりがいかにその時代を生き、どう生き延びたのかを各々の方法で語っている。生きて帰ってくることができた者たち、夫を信じて待ち続けた妻たち、そして看守として関わった者。収容所から食べるものがなくなっていく中で、妻から苦労して送られた物資のおかげだという者もいれば、炊事係だったので人より多く食べることができたという者も、また技術があったために他の再教育収容所に移ることができたからという者もいる。そのことをある者は運命だったのだと語り、またある者はあの時ああするしかなかったのだと語る。
 弔われることなく収容所があった場所に居続けている多くの犠牲者たち、またここで証言している方の中にも亡くなっている方もいる。『死霊魂』の中で、それぞれの声はずっと生き続けている。(渡辺進也)

 あっという間に滞在最終日。昨日分の日記として書いていた『これは君の闘争だ』についての文章は長くなりすぎてしまったので、別の形で改めて。
 結果として今回の滞在で見た作品はコンペ作品が8割。ちょっと乱暴な言い方だけれど、いわゆる「ドキュメンタリー的」な作品があまり多くなかったように感じる。たとえばボスニアの難民女性たちを主人公に据えたクローディア・マルシャル『約束の地に』や、スーダンの映画人たちが屋外映画館を再興するために奔走する『木々について語ること』はほとんど劇映画といっていいような手つきで一つひとつのショットが構築されているようだったし、『十字架』や『それは君の闘争だ』でも真に問いが生起していたのは、すでに撮影された映像の再構築においてであったように思う。映像それ自体を生のままに提示することが優れたドキュメンタリーである保証などなく、逆にどんな素材を目の前にしても、適切な方法を判断し選択する......熟練の寿司職人のような仕事に今回の滞在ではたくさん出会った。
 そんな中、今年のコンペにおいて最も先鋭的なセレクションであろう牧野貴監督の『Memento Stella』を。牧野作品を見るのはけっこう久しぶりだったが、今作の印象に最も近いのはもう随分昔にバウスシアターの爆音上映で見た『The World』。2年に及ぶ制作期間中に、牧野監督が映画祭などの滞在先で撮影した様々な具体的な映像が、その輪郭を保ったまま作品に持ち込まれている。雨の粒子、木々、人の目や唇、あるいは都市の風景といった様々な像がふっと視界に浮かんでは消えていく。光の映像の物質性をめぐる極北のドキュメンタリーでありながら、牧野監督の旅の記録を見つめるロード・ムービー的な側面が確かに受け取れる。牧野貴映画の中でも最も親しみやすい作品ではないかと思う。
 そして最後の作品に「リアリティとリアリズム:イラン60-80s」からカムラン・シーデル監督の短編集を見る。場内はほぼ満員。『女性刑務所』『女性区域』『テヘランはイランの首都である』に映し出される1960年代テヘランの目を覆うばかりの現実に圧倒されるのだが、しかし最後に上映された『雨が降った夜』で目眩を覚える。雨の夜、線路の橋が崩れているのを発見した少年が自分の衣服を燃やして列車を止めた、という美談をめぐっての、当事者・非当事者たちの異なる見解のぶつかり合いが延々と映し出されるのだが、そのうちに「待てよ?」と思い至る。いかに映像において少年が誠実に見えようと、新聞社の社長がうさんくさく見えようとも、その美談の真偽をめぐる決定的な証言など、実はほとんど映し出されていない。本作後半での目まぐるしいモンタージュは、どのような順番でどんなリズムでどの証言映像を見るか、という映画の話法の問題を右往左往するが、結局そこに答えは導き出されない。そのようにして本作は終わりに至るまでに『雨が降った夜』という美しいタイトルを見出すことに留まる。そのような思考がシーデルという映画監督に通底する態度であるとすれば、では先の3作品において陰惨な「現実」として提示されたものは、いったい何だったのだろうか。より本格的なシーデル監督の特集上映がいつか実現したのなら、ぜひ改めて考えてみたい。
 出発前の遅い昼食にあえてのドムドムバーガー(初めて行きました)。油が少し強い気がするが、ポテトがサクサクで美味しい。昼頃に運転を再開した山形新幹線だが、私の乗った16時台は空席もちらほらと。映画祭関連のメモをまとめているうちにいつの間にか大宮に到着。関東でも秋の風が吹き始めていて、肌寒い。帰宅後、お土産に買った芋煮を妻と食べてから、泥のように眠った。(田中竜輔)

 山形滞在四日目。
 毎朝恒例の女将トーク。どうやら女将さんは普段着が着物らしい。理由は「女将らしいから」。
 昨夜の初香味庵での深酒が響き、昼近くに宿を出る。今回初の中央公民館上映を観に行くので、上映まで残り30分をきる中、よせばいいのに宿同室の山本英監督と近くの喫茶店「煉瓦家」にモーニングを求めて入る。周りが珈琲だけで出て行く中、自分たちは「玉葱とベーコンバジルと辛しバター焼きサンドセット」と「ピザトーストセット」を頼む。そうこうしている間に上映時間になる。半ば映画を諦めていたところにバケットに入ったサンドとトーストが届けられる。一口食べた瞬間、山本さんが一言「これは映画を諦めても食べる価値のあるトーストですよ」と絶賛。焼きサンドは香りが高く、ピザトーストに乗っているトマトは甘い。二人とも大満足で店を後にする。中央公民館近くに来た際はオススメです。お店は店主お一人で切り盛りされているので、ぜひ時間に余裕を持ってのご来店を。店内の雰囲気も素敵でした。
 『誰が撃ったか考えてみたか?』『水、風、砂』『イザドラの子どもたち』を観る。
『水、風、砂』。出稼ぎを強いられた少年が、干ばつに見舞われた故郷に残した家族を心配して帰郷し、井戸を掘る話。ただそれだけの、シンプルな話。それゆえに力強い。吹き荒れる砂嵐の音。砂嵐でほとんど見えない少年が、向かい風を一身に受けて進んでいく。神話のような、一度見たら一生忘れない映画体験をナデリ監督は提供してくれる。過酷な現実は容赦なく、映画が進んでいくにつれ、状況は悪化していく。身体がボロボロになりながらも少年は諦めない。そして、ラストシーン。昨年フィルメックスで観た『期待』同様、大笑いした。欲望や衝動、感情が全て混ざり合い、爆発する。これでどうだ、と言わんばかりの清々しいまでの直球勝負を受けると、こちらも胸がいっぱいになる。イラン・イラク戦争で荒廃した街で撮影していて、砂漠に埋まる魚、馬、牛までもが本物。出演者も「最悪、帰って来れなくても誰も心配しない人を募集した」とナデリ監督は言う。撮影142日間。ご飯を食べるお金もなく、病気になり、倒れたりしながらもなんとか完成に漕ぎ着けた。正真正銘の本気。「目的があると何年も頑張って、目的に辿り着けなくても、頑張る」この映画のテーマを真っ向から体現したという、ナデリ監督。その真っ直ぐな眼差しは映画の中の少年そのものだった。
 夜、香味庵で、ドランク状態になったナデリ監督を見かけると「なんでだ〜」と笑顔で叫んでいた。なんでだ。(池添俊)

 『ノー・データ・プラン』ミコ・レベレザ。カリフォルニアからNYへと乗り継ぐ列車の車窓の風景に、母親が不倫をしたという物語が文字で重なっていく。乗客の会話、友人のエピソード、母親が語るかつてのフィリピンでの暮らし、そうした音声が被さる中に、IDを持たずに暮らす者の感じる恐怖が忍び込む。
 単純に映像や音声の使い方そのものに好感を持ったし、上映後に出てきた監督本人の人柄にもなぜだかわからない共感を覚える。クリス・ワトソンの音楽にも言及していたり。監督がこの作品の録音に使ったというスマホのイアホンタイプになってるマイク、欲しいなと思った。
 おそらく、過去のnobodyの山形国際ドキュメンタリー映画祭日記に一回もかかすことなく登場していた龍上海駅前店が惜しくも閉店。しかし気合いを入れればバスで山大医学部前店までいける。(結城秀勇)

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