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    <title>山形国際ドキュメンタリー映画祭 2023</title>
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    <updated>2023-10-22T10:09:08Z</updated>
    
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    <title>10/11「You may say I&apos;m a dreamer, but......」</title>
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    <published>2023-10-12T09:20:32Z</published>
    <updated>2023-10-22T10:09:08Z</updated>

    <summary>隈元博樹 結城秀勇 　Facebookに投稿されたMさん情報により、「らー麺 山...</summary>
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        <![CDATA[<p><a href="#kuma1011">隈元博樹</a><br/>
<a href="#yuk1011">結城秀勇</a></p>

<p>　<b id="kuma1011">Facebookに</b>投稿されたMさん情報により、「らー麺 山之助本店」。鶏白湯をベースにしたラーメンでこんなに美味いものを食べたのは初めてかもしれないと思うほどに美味。初日にプレスを受け取ったアズ七日町から目と鼻の先にあることにもびっくり。<br />
　『白塔の光』チャン・リュル。『柳川』に続き主人公のフードライターをシン・バイチンが演じているが、全編を通じて「影の生じないもの」として佇む白塔（原題は"Tha Shadowless Tower"）をはじめ、北京と北戴河との往来によるロケーション、またそうした空間から浮き彫りとなってくる人物たちの複雑な関係性が絡み合うことで、チャン・リュルならではのマジックリアリズムがいつもとは異なる質感によって体現されている。また主人公が入院先の病院で元妻に再会し、おそらく彼女の現在のパートナーと思しき韓国語講師から、去り際に「サラン」と発せられる場面。韓国語では「愛」、ウイグル語では「馬鹿」を意味するそうだが、上映後のQ&Aで「まるで正反対のような言葉ではありますが、馬鹿にならなければ愛にはならないということですね」と受け答えする監督にシビれた。<br />
　上映後は映画祭同行中のHくん、Kくんと百目鬼温泉で疲れを癒す。駅から車で15分程度。露天風呂から山形市内の夜景を眺められるのもオススメ。その後一度ホテルに戻ったあと、立ち吞み「円」に入って一献。東北芸術工科大学の文化財保存修復学科に通われているバイトの方とお話していたところ、映画祭の3回券を買ったものの1回分を残してしまった模様。翌日の受賞作の上映スケジュールをお伝えすると、すごく喜んでくれた。<br /></p>

<p>　さよならパーティの参加から最終地点のほっとなる横丁まで、この夜も多いに長かった。だけど今回の滞在でさまざまな再会と出会い（もちろんそれはすべてが幸福な瞬間だと呼べるわけではないけれど）を果たせたことに大きな感謝。「今まさにこの瞬間」を凝縮したくなるような山形だった。山梨から車で自走してくれたKくん、滞在中に刺激的な議論を展開してくれたHくんにも謝々。（隈元博樹）。<a href="108.html#kuma1008">前々々日へ</a></p>

<p>　<b id="yuk1011">『雪の詩』波多野勝彦</b>。厚く降り積もった雪が忘却を許すが、しかし忘却に覆い尽くされた中では生きられない。大笑いする子供がそっくり返りすぎて、そのまますってんころりんとひっくり返るシーンがあった。雪がクッションとなる世界では微笑ましい一コマだが、雪とともに生きることの困難さは、前日までの野田真吉特集でも繰り返し語られていたことを思い出した者は多かったのではないか。<br />　閉会式。受賞結果は<a href="https://www.yidff.jp/2023/2023.html#award">こちら</a>。映画祭の受賞結果について云々する気はないし、特にコンペの選考に関わるようになってからは、この作品に取って欲しかったなどということも減っている。それよりも一本でも多くより良い作品を紹介し、それがしかるべき人に届くためにどうしたらいいかを考え続けていかねばならない。ただそれでも、ジャン・モンチーの受賞は彼女と出会ったことのあるあらゆる人にとって喜びだ、とだけ言いたい。<br />　閉会パーティ、そしてその後のカラオケ大会と、受賞した者もしない者も監督も製作者も映画祭スタッフも関係なく入り混じる楽しい時間。この時間にはこの映画祭の核となる精神が流れている。<br />　翌日の新聞に、ロバート＆フランシス・フラハティ賞を受賞した『何も知らない夜』パヤル・カパーリヤー監督のコメントが載っていた。「歴史を消去し、書き換えようとする勢力が存在する今日の政治状況において、私たちが経験して目の当たりにした時間を記憶にとどめておきたかった」。忘却が、争いが、加害が、いまも我々の世界を覆い尽くしていこうとしている。この映画祭の存在だけでそれを止めることなどはできない。しかし私たちは、2年後またここに胸を張って戻って来れるようにこれからを生きるだろう。そしていつの日かあなたたちも私たちに加わるのを望んでいる。（結城秀勇）</p>

<p>（追記）あ、ジョン・レノンでまとめた気になってたけど、今回した取材をまとめるまで映画祭は終わりじゃなかった......。ダミアン・マニヴェル、イレーネ・M・ボレゴ、そしてジャン・モンチーのインタビューが来月公式サイトにアップ予定です。山形の穏やかな空気のおかげか、なかなか充実した記事になるんじゃないかと。お楽しみに。<a href="1010.html#yuk1010">前日へ</a></p>
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    <title>10/10「ヴェテランの味」</title>
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    <published>2023-10-11T06:27:45Z</published>
    <updated>2023-10-22T05:22:06Z</updated>

    <summary>梅本健司 結城秀勇 　 2年に一回なら、あっこんな感じだったよなとペースが掴める...</summary>
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        <![CDATA[<p><a href="#ume1010">梅本健司</a><br/>
<a href="#yuk1010">結城秀勇</a></p>

<p>　<b id="ume1010"> 2年に一回なら</b>、あっこんな感じだったよなとペースが掴めるのだけれど4年ぶりの開催で、想像以上に映画を見ることに疲れてしまった。昨夜で終わってしまった新香味庵もちょっとしか顔を出せず。残念。<br />　最後のシメは恩地日出夫『蕨野行』。若い嫁と老いた姑の会話のボイスオーヴァーが全編を支配しているのだが、離れた場所にいるふたりがどのような方法でやりとりをしているのか、手紙を綴る場面などもないからよくわからない。魂で通じ合ってる？でも物語が進むうちに彼女たちには世代ゆえか、理解し合えない大きな隔たりがあることが明らかになり、若い嫁がそれを消化できないまま、映画は終わる。<br />　切り返しが全然なかった。気がする。市原悦子が生き別れた妹と再会する場面では、妹のクロースアップが撮られて、ここで切り返されるのかなと構えたが、対する市原悦子の寄りはなかった。ただ最後、老人たちが死後雪遊びをするという、物語においては感動的だけれど、演じている年配の俳優たちの負荷を考えたら穏やかな気持ちで見ていられない場面では、切り返しがこれでもかと使われていて、そこで彼らがもうこの世の人ではないんだなと強く納得させられる。<br />　上映後、アテネの松本さんにご挨拶したら、「いやぁ期間中行き来していて（東京と山形）」と軽い感じでおっしゃられていて、宿と市民会館を往復しているだけで疲れたとか言っている自分が恥ずかしくなった。タフはヴェテランたちを見た日。最後の夜はふくろでおでん。（梅本健司）<a href="109.html#ume1009">前日へ</a>
</p>

<p>　<b id="yuk1010"> 前日2時過ぎまで</b>餃子倶楽部で飲んでそこから3kmくらい歩いて帰ったら、まったく起きられず、遊びに来た甥っ子に起こされる。強い雨。家から出られない。<br />　名物辛味噌ラーメンを食べられる店はそこここにあるのだが、山形駅前龍上海なきいま、ガツンと魚介の効いた辛味噌ラーメンへの郷愁に駆られることがある。ラーメン自体のうまいまずいより、そうそうこれこれ、という感じ。<br />　雨も止んだので、映画も見ずにメシを食いに。駅脇の焼き鳥そね田。なにを食ってもうまく、雰囲気もすこぶる良し。名店。そこからハシゴして、山形に帰ったら絶対食いたい絶品麻婆豆腐のあじあんダイニングYOROZU.屋へ。駅前の五十番でも人気メニューの肉ラーメン、肉焼きそば（細切り肉のあんかけののった麺）は、東京で食べたくなっても意外と出してる店がない郷里の味。（結城秀勇）<a href="109.html#yuk1009">前日へ</a><a href="1011you-may-say-im-a-dreamer-but.html#yuk1011">翌日へ</a>
</p>
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    <title>10/9「繰り返す時間、流れ去る時間」</title>
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    <published>2023-10-10T04:34:53Z</published>
    <updated>2023-10-22T12:52:51Z</updated>

    <summary>斗内秀和 結城秀勇 　 今日も泊まるが、明日は帰るだけになるので実質最終日だ。　...</summary>
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        <![CDATA[<p><a href="#tou1009">斗内秀和</a><br/>
<a href="#yuk1009">結城秀勇</a><br/></p>

<p>　<b id="tou1009"> 今日も泊まる</b>が、明日は帰るだけになるので実質最終日だ。<br />　『キムズ・ビデオ』。キムズ・ビデオというビデオレンタル店が廃業後にどうなったかというのを映画オタクが探る。マフィアまで出てきてほとんど探偵映画のようになっていく。会場がとてもいい雰囲気でキムさんの「ゴダールは神様だから許すよ」と言うところはみんな笑っていた。個人的にVHSに只ならぬ思い入れがあることは自覚しているが、あまり関係がなかった。<br />　『富山村の御神楽祭り』。個人的にまったりとしてしまって完全に寝てしまう。体力も限界なので途中で出る。<br />　『あの島』。映画のある一場面のようなものが延々と繰り返される。音楽までずっとリフレインされていたのが印象的だった。個人の内側にあるものを見たという感触があった。<br />　『ターミナル』。グスタボ・フォンタンを強く勧められたので時間がきつかったがなんとか見た。バスターミナルに靄がかかったような映像が映って、音はリバーブしていたように覚えている。時折、誰のものか分からないが思い出のようなものがぽつぽつりとヴォイスオーヴァーで語られる。郷愁のようなものを強く感じさせられた。画面を見ていると夢の中のようであまりに心地良かったのでうつろうつろとしながら見た。<br />　『ゆきははなである：新野の雪まつり』。映画から少し離れるが、映画祭も終盤だからなのか、みんなでテレビを囲んで見ているような雰囲気があって見ているだけで心地良かった。2時間に渡って延々と祭りの紹介が続くが、いつまでも見ていられるくらいゆったりと作られている。<br />　最後に『言葉の力』、『火の娘たち』も見たがあまり言葉が出てこない。最後にあるクリス・フジワラの解説がとても面白かった。<br />　終わってから香味庵で飲んだ。クリス・マルケルの年になんとなく行っての2回目。仮眠を取ったら映画を見る夢を見てそれが面白かった。（斗内秀和）<a href="108.html#tou1008">前日へ</a></p>

<p>　<b id="yuk1009"> 蕎麦処みねた</b>で昼食、肉中華+ミニ丼セット950円はお得。せいろ系を頼むと自分ですりおろすわさびがついてくるし、山形名物牛だしの普通の中華そばもオススメ、地元で愛される名店。<br />　そしてジャン・モンチー取材。作品を分割する、二十四節気と西暦のふたつの日付の表記は、季節の移り変わりとともに循環する時間と、世界共通のパンデミックの記憶と結びついた時間という、二重化した時間を示しているとのこと。通訳の秋山さん、撮影の佐藤さんとともに、フレンドリーな空気の中でのインタビュー。オフィシャルサイトにて公開予定。<br />　香味庵にて、朝10:00から上映されていた『キムズ・ビデオ』デイヴィッド・レッドモン、アシュレイ・セイビンへの熱いコメントを複数聞く。この映画が届くべき人たちに届いたような感じは、今年のセレクション一番の手応え。こんな窮屈な「ルールを守りましょう」社会には「キムズ・ビデオ」が必要だ！（結城秀勇）<a href="108.html#yuk1008">前日へ</a><a href="1010.html#yuk1010">翌日へ</a><br /></p>
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    <title>10/8「断片化した身体として甦る思い出」</title>
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    <published>2023-10-09T08:39:22Z</published>
    <updated>2023-10-22T12:51:59Z</updated>

    <summary>松田春樹 安東来 板井仁 結城秀勇 隈元博樹 斗内秀和 鈴木史 　ダミアン・マニ...</summary>
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        <![CDATA[<p><a href="#matsu1008">松田春樹</a><br/>
<a href="#ando1008">安東来</a><br/>
<a href="#itai1008">板井仁</a><br/>
<a href="#yuk1008">結城秀勇</a><br/>
<a href="#kuma1008">隈元博樹</a><br/>
<a href="#tou1008">斗内秀和</a><br/>
<a href="#fumi1008">鈴木史</a><br/></p>

<p>　<b id="matsu1008">ダミアン・マニヴェルの『あの島』</b>が彼のフィルモグラフィーにおいて異色を放つのは、それが手持ちショットで撮られているからに違いない。言わずもがな、彼はFIXショットの名手であり、いかに俳優を捉えるかと同じくらいに、いかに背景にある自然を捉えるかを考えてきた監督である。それにも関わらず、『あの島』ではピントの定まらない荒々しい手持ちカメラが採用され、俳優の、いや主人公ローザの身体を隈なく至近距離で捉えることによって、彼女を取り囲んでいるはずの自然（それは島に押し寄せる波であったり、マジックアワーの光であったり......）がよく映らないのだ。<br />　だからだろうか。あの島での映像とスタジオでの映像が何の違和感もなく繋がっていく。フィルムの編集点が場所でも時間でも光でもなく、俳優の身体にあるかのように。ロケーションがなくとも、俳優の身体さえあれば、映画を作ることができると高らかに宣言するかのように、俳優の演技だけがラディカルに追求されていく。特に、ローザの身体中をアルコールが支配し、彼女が痙攣するような演技をスタジオ内で見せる瞬間はひとつのクライマックスであり、今作の試みが何か別の大きなフィルムへと繋がっていくような予感さえする。個人的には今後より一層、ダミアン・マニヴェルは演技を探求することに比重を置いた映画を作るのではないかと勝手に予測しておく（サロンでのQ&amp;Aで、手持ちショットの理由について聞いてみたところ、撮影のMathieu Gaudetは当初FIXでの美しい撮影を試みたという。しかし、ダミアンはすぐにそれがこのフィルムにとって間違いであることに気づいたのだという）。<br />　帰りの新幹線の中でこれを書いているが、再来年の山形に向けてのいくつかのメモを残しておきたい。駅からアズは意外と遠いということ。フォーラムの上映は混むということ。天候が不安定であるということ。山城屋の朝飯が美味いということ。一日に四本見るのはキツいということ。思いもよらぬ出会いがあるということ。東京に帰ったら、ジェームズ・べニング特集に行く予定です。（松田春樹）<a href="107.html#matsu1007">前日へ</a><br /> <br />　<b id="ando1008"> 3日目は晴れて</b>よかった。初日から馬見ヶ崎川河川敷でテントを張って寝泊まりしていたのだが、昨晩から今朝までは寒すぎて辛かった。加えて左足を痛めてしまい、タクシーで中央公民館に向かう。<br />　ダミアン・マニヴェルの『あの島』を見る。スタッフと若い役者たちが共に脚本作りからリハーサルまでを過ごした時間、それを映した映像は本来作品になる予定ではなかったという。経済的な理由によって没になった企画にとって、潜在的であるはずの「ハードディスクに眠っていた」それらのイメージたちが再構成されて蘇る。室内でのリハーサル演技、海辺のロケでのリハーサル演技、そしてほとんど本番に近い演技は、同じシーンを行ったり来たりしながら、またそれらの演技自体、監督自身の指示も挟まれつつ何度も繰り返す。語られようとするのは、「あの島」と呼ばれる岩場が象徴する、主人公ロザの過ぎ去った思い出の物語だと言える。けれどそれを演じようとする身振りという不完全な断片、役者同士の演技のセッションと触れ合いが、物語とは無関係にその都度輝きを放つ。そしてラスト近くになると、その思い出のかけがえの無さが、演技のなかにいる彼らと役者たち自身の見分けのつかないイメージに至って終わる。繰り返し演じ直すという身振りが、あるいは不完全な断片の再構成が、思い出や記憶を確かな手触りのようなものとして描くために必要なのかもしれない。<br />　無茶をして予定より早く東京に帰ることになったけど、こんなに素晴らしい作品にいくつも出会えると知ったからには来年もまたきっと来る。（安東来）<a href="107.html#ando1007">前日へ</a></p>
<p>　<b id="itai1008"> 紙月書房でカレー</b>を食べる。何冊かの本も購入した。会計時まで気づかなかったのだが、店内の古書はすべて半額ということだった。店主の方曰く、11月末で閉店されるとのこと。<br />　ダミアン・マニヴェル『あの島』は、浜辺を走る主人公ロザを追いかける手持ちカメラの映像から始まる。留学のために地元を離れる主人公が、夕暮れ（朝焼け？）の浜辺で仲間たちとお別れパーティーをしている。浜辺には大きな岩があり、それを友だちどうしで「あの島」と呼んでいたのだという。ロザを中心にして展開される映像は、稽古やリハーサル時のフッテージ、そして少しの絵コンテや画像などと混ざりあい、それが異なるカメラ位置や動作によって反復されるのだが（「répétition」には「リハーサル」と「反復」の両方の意味がある！）、それらは同じところもあったり、違うところもあったりする。仲間たちと触れ合いながらタバコやお酒を分けあうとき、切り返しショットは用いられず、それが苦しいほど親密な関係をつくっている。みんなで模索しながら共同で映画を作っていく様子が、やがて夜が明けていく浜辺や、仲間と離れて地元を旅立っていく主人公と結びついている。一度頓挫したプロジェクトだったが、それまでに記録していたさまざまなフッテージを組み合わせることで一つの作品となったらしい。（板井仁）<a href="107.html#itai1007">前日へ</a>
<br /> <br />　<b id="yuk1008">『ヘルマン・スローブ　目の見えない子ども2』『ベッピー』ヨハン・ファン・デル・コイケン</b>。いやあとにかく『ヘルマン・スローブ』がよかった。年寄りは若者の音楽に合わせなきゃいけないとか、「ウォーカー・ブラザーズが自分たちで作曲するのは理由がある」など、なかなかイカした趣味を持つヘルマンくんのDJっぷりやカーレースの音を再現したマイクパフォーマンスが最高。<br />　その後ダミアン・マニヴェルにインタビューするが、『あの島』については他の人たちも書いてるので、またの機会に。<br />　夜ごはんは高校の同級生とすずらん街「わかしょう」にて。市場が休みで魚系がなかったのは残念だが、ナス田楽やまいたけ天ぷらなど美味。（結城秀勇）<a href="107.html#yuk1007">前日へ</a><a href="109.html#yuk1009">翌日へ</a>
</p>

<p>　<b id="kuma1008"> 10年ぶりの山形</b>。山梨在住のKくんから車を出してもらい、Hくんと八王子で合流していざ出発！と思いきや、久々の参加に高まる気持ちが二度寝の夢をもたらし、30分以上の遅刻をかましてしまう。幸先の悪いスタート。<br />　七日町に着いてプレスパスを受け取り、1本目はソン・グヨン『ナイト・ウォーク』。前情報を一切入れずに見たせいか、一見、時折画面上に施されるドローイングやさまざまな古詩の一節からの引用も相俟って、まるで個人の<span>Instagram</span>を見せられているような感覚に陥った。しかしこれがロックダウン下に捉えられた夜景、そこに蠢く生き物たち、水面の反射なのかもしれないことをイメージすれば、目の前に提示されたさまざまな夜の様相も一段と変わって見えてくる。そして現場の音を一切排した試みによって、何とも得がたい静けさのほか、暗闇にかろうじて見えるもの、あるいは見えないもののがもたらす映像の淡いがそこに体現されていたように思う。<br />　次に見たのは野田真吉『まだ見ぬ街』『ふたりの長距離ランナー』『くずれる沼 あるいは 画家・山下菊二』『水谷勇夫の十界彷徨』。どれもとてつもなく面白かった。前職のフィルムアーカイブで働いていた時にはこの作家の名前をしばしば見かけていたものの、その全貌を知ることはなかった。しかし企業PRを目的に制作されたわけではない今回の4本を見ただけでも、闊達とした自由な表現方法、実験性、反復の妙、またフォーカスした題材や人物の輪郭がそれぞれの作品を通して際立ったつくりになっている。嵐のような作品群であり、まだまだ他のフィルムも見なければ。<br />　夜は<span>H</span>くんのリクエストにより「ほっとなる横丁」で一献。その後、終了15分前の新・香味庵へと駆け付け、麦茶で皆様と乾杯する。恒例？となった香味庵前の「ダベり」のひとときでは、国立映画アーカイブの岡田秀則さんから山下菊二の絵画をはじめ、東宝争議に参加した経緯などを詳しく教えてもらい、二次会では大木裕之さんに初めてお会いし、ご本人が向けたビデオカメラを前にして恥知らずの酔狂な身をさらけ出してしまったのだった。（隈元博樹）<a href="1011you-may-say-im-a-dreamer-but.html#kuma1011">翌々々日へ</a>
</p>

<p>　<b id="tou1008"> 今日だけ友人と </b>相部屋で寝たり起きたり話したり話さなかったりを繰り返してあまり寝れていない。
<br />　まず、『ヘルマン・スローブ　目の見えない子ども2』。印象的なのは、ヴォイスパーカッションで車の走行音を再現する場面で、ヘルマンという少年が音に対していかに敏感で器用であるかが分かる。
<br />　『ベッピー』。『ヘルマン〜』と異なっているのは、質問の内容だろう。パーソナルな事柄ある恋愛や死、またはお金について聞かれて、10歳の少女が赤裸々に語る。表情が豊かなのが印象的だった。
<br />　続けてコンペティションの『訪問、秘密の庭』。構成がまず特徴的だ。前半部は彼女の日常生活が映され、後半部は一転して監督の彼女に対するインタビューが行われる。撮影に段階を踏むことで監督が彼女に対して手続きのようものを踏んで撮っているように思えた。まず、外面である生活の様子を撮ることで関係性を築いてから、内面に踏み込む。ある意味で原一男のドキュメンタリーと方法は似ているが、とても丁寧で何よりも距離感のようなものを大切にしているように感じた。前半はカメラポジションも正面から撮らず斜めから撮っているものが多い。
<br />　後半部のインタビューは「彼女がどういう人物だったのか」に対する禅問答のようなもので、いまいち噛み合わない。しかし、逆に芸術家として大先輩にあたるイサベル・サンタロの監督に対するある意味で説教が始まるとまた関係性に変化が生まれる。「この撮影は極めて不快だが、自分は芸術を支援しているから撮影に応じている」。「本当の怒りは静かなもので、甘ったれて他人に寄りかかるものではない」と。セルフ・ドキュメンタリーのようだが、下品な感じは全くない。これまでの積み重ねがあるから出来る会話でもある。
<br />　最後はとても潔い。インタビューの後に彼女の創作活動を撮影したらヴォイスオーヴァーで監督自身がイサベル・サンタロに礼を言ってあっさりと映画が終わる。しつこくインタビューを繰り返すのではなくこれ以上彼女に踏み込めないと感じたら映画自体を終わらせる。被写体を見せてこそということに趣を置くドキュメンタリーでは意外だが、個人的にこの部分が一番好きだった。
<br />　最後に『ルオルオの青春』。コロナ渦でカメラは一切室内から出ず、家族との日常生活や、若い頃の日記を読み返す姿を捉える。監督自身が撮ったポートレートのように見えた。
<br />　終わってからおでんの出汁割りなるものを初めて飲んだ。帰ってすぐに寝たが、寝過ごしてしまう。（斗内秀和）<a href="107.html#tou1007">前日へ</a><a href="109.html#tou1009">翌日へ</a>
</p>

<p>　<b id="fumi1008">ホテルに早めに</b>帰ったのに結局寝坊で朝の回は見逃す。もう劇場の中にいる勤勉な人々に遅れをとり、急に知人・友人がまばらになった山形の街路を歩いて寂しくなっていると、向こうから深田隆之氏がやってきた。「蕎麦でも食べましょう」ということで、市内をぷらぷら歩いて天せいろを食べ、白十字という喫茶店でケーキを食べた。田舎街にぽつんとある喫茶店という風情だったけど、ほんとにとろけるレアチーズケーキが食べられて満足。野菜や果物の直売所で、シャインマスカットと枝豆をお土産に買って、大ホールに移動。イレーネ・M・ボレゴ『訪問、秘密の庭』を見る。端正で静かな画面の連なりを見ていて、良さそうな気がしつつ、ここ数日の原稿追い込みやら展示ことやら自作の映画の企画のことやら、あらゆることが重なってしまってたことと、昨夜の狂乱の疲れがどっと出てほぼ寝てしまったので、内容については何も言えません。すみません。
<br />　小ホールに移動して、野田真吉特集で、『海と陸をむすぶ』と『オリンピックを運ぶ』を見た。どちらも日本通運のPR映画。ひとつひとつのカットが本当に凝っていて、『海と陸をむすぶ』は、浮かぶ船を他の移動する船から捉えたゆったりとしたカメラワークが心地よかった。『オリンピックを運ぶ』は松本俊夫との共同監督で、長大なトレーラーをとらえたシーンなどは、本作から5年前に松本が『300トン・トレーラー』を撮ったときの経験なども活きてるのかなぁって思う。ごくごく普通に日本通運のPR映画としても成立していて、「勉強になるね〜」とぼんやり見てしまいつつ、外国人オリンピック選手に向けるカメラのまなざしや、当時の日通のオリンピック実行委員会や労働の現場にほぼ一切女性がいないことには意識が向いた。「ほぼ一切」と書いたのは、日通オリンピック実行委員会の200人くらいの黒いスーツの群衆の中に、ただ一人スカートを履いた人物を発見したから。むしろ、昨日見たこれより以前の野田の作品『京浜労仂者 1953』や『1960年6月：安保への怒り』は女性の集団が前面に出るシーンが多いのだけど、この2作のPR映画では「そもそもその場にいない」ということによって画面から女性が消えてゆく。だからこれは時代の問題というより、労働形態やそれを支える家族の在り方の問題なのだと思う。この2本だけ見て、このあと上映の大好きな野田作品『くずれる沼 あるいは 画家・山下菊二』（最高のフクロウ映画）はスケジュールの都合であきらめる。
<br />　フォーラムに移動し、小森はるか、橘川由江、小川直人による「トークセッション：それを知らない世代と分かち合うものを探して」を聞く。小川さんは、せんだいメディアテークの方で、私も参加しているメディアテークのwebサイト向けの連載企画を担当してくださっていて、先日宮城に用事で行ったときはお会いできなかったので、今回ご挨拶ができてよかった。学校教員の橘川さんによると、学校教育の現場でも震災体験を記憶していない世代が生徒となり、彼ら彼女らの意識がどんどん移り変わっていることなどのお話があった。小川さんも、最近になって震災の記憶がほぼない子どもたちがそのとき何が起きたかをむしろ滔々と説明してくれて、不思議な感覚になることを語られていた。私は宮城県出身ということもあって、2011年当時の自分や身の回りのことをなんとなく思い出しながら、お話を聞いた。ほぼ満席で、お客さんの層も他の上映と比べるとおそらく地域の方々が多くて、隣に座っていた年配の男性も熱心にメモをとりながら聴いていた。この映画祭の魅力は、過去の歴史的なドキュメンタリーから先鋭的な作家の作品まで見られること以外にも、このように地域に根差したトークなどもあることだから、なるべくいろんな催しを見たいと思う。もちろん小ホールで旧作の特集を見続け、過去の作家を体系的に知るのもとても重要な態度だ。でも数年前までのわたしは、そのようにしたいという欲望が自分のなかに沸くと、異様なまでの自己否定感に囚われていたような気がする。だから、なるべく多様な作品に触れるようにしていた。ところが不思議なことに、今になってみると、「小ホールにずっといます。体系的に見ないとよくわかんなくなっちゃうからね」とはにかむ人と話していると、「そうなんですね」となんだか笑顔になり、この人を尊重しようと思う。ヘンにドキドキしたりもして、その高揚と同時に自分や他人、あるいは自分の身体や、世界そのものが消滅していく感覚がする。自分でもわけのわからない心理だと思う。どうしても見る必要を感じていた『アンヘル69』の大ホールでの上映の時間が迫っていたため、橘川さんのお話を一通り聞いてからそっと劇場を出ると、休憩タイムで劇場を飛び出してきた小森はるか氏が、「ふみさ〜ん」と言いながら、足元を走ってすり抜け、廊下の奥のお手洗いの方へ消えていって、「あー、ごめんなさい、新幹線の時間とかがあり！！」などとオタオタしつつ、この監督の小柄さと、それがもたらした『ラジオ下神白』の老人たちをとらえるカメラの高さ（低さ）が思い起こされた。90歳という小柄な女性をとらえるカメラが、逆手で腰の位置で構えられたのではなく、おそらくは順手で構えられているのだろうと思える「目高」のカメラ位置と、手持ちの揺れ。それが、あまり見ない揺れと高さだと思った。
<br />　大ホールで、テオ・モントーヤ『アンヘル69』。いわゆる性的マイノリティが主題の映画を、「福祉」っぽいフレームから外れて、イルでアンダーグラウンドな側面も残しながら描いていて、こういう作品を山形の地で見られたことが嬉しい。「セクシュアリティって、幼少期のトラウマとかに左右されてるでしょ、きっと」などと疲れた様子でつぶやく若者たち。皆、なにか一様に世界に対する諦念と自己や外界に対する批評性を纏っている。ひとりひとりが魅力的な佇まいに収まっている。「何もしなくたって、存在してるだけでわたしは価値がある」「みんな、死を悪く言いすぎる。死は近くにある」という言葉が耳に残る。監督は「トランスシネマ」とこの映画のことを読んでいたけど、そこでトランス（越境）するのは性差だけでなく、生死でもある。さまざまなトランス（越境）に、世界からの意味の剥脱、生死の不分明化を引き起こす契機が仕掛けられていて、だからこそトランス（越境）には、より善い在り方での死を背負った生き直しと世界の再創造、世界への新たな意味付けの可能性が秘められている。ポール・B.プレシアドが『あなたがたに話す私はモンスター』で、「生政治」よりは「死政治」という言葉を選択していたことを思い出す。この監督がやっていることは、無数の死を背負いながらの生き直しによる世界との和解なのだろうと思う。こんな映画が存在することは、ただただよろこばしいことだ。ラストシーン、荒野に若者たちがいる。彼ら彼女ら、あるいは "they"、いやそのような人称すら不要な、あるいは奪われた地点からの人々の声が響く。
<br />「家　居場所　家　窓のない家　家具のない家......」
<br />　終映後のQ&Aでテオ監督は、劇中に出てきた「霊体性愛」という言葉について問われ、「イメージへの性愛。シネフィリア」と言葉を紡いだ。終電の新幹線に乗らなくちゃなのに、最前列に座ってしまい、なんだか申し訳ないなぁって思いながら、10分ほどお話しを聞いただけで急いで席を立たなければならなかった。もし届くならば、テオさんに「Rejoice!」と声をかけたい。（鈴木史）<a href="107.html#fumi1007">前日へ</a></p>
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    <title>10/7 「会えてよかった」</title>
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    <published>2023-10-08T00:38:17Z</published>
    <updated>2023-10-22T09:36:34Z</updated>

    <summary>安東来 斗内秀和 松田春樹 板井仁 結城秀勇 梅本健司 鈴木史 　 2日目は曇り...</summary>
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        <![CDATA[<p><a href="#ando1007">安東来</a><br/>
<a href="#tou1007">斗内秀和</a><br/>
<a href="#matsu1007">松田春樹</a><br/>
<a href="#itai1007">板井仁</a><br/>
<a href="#yuk1007">結城秀勇</a><br/>
<a href="#ume1007">梅本健司</a><br/>
<a href="#fumi1007">鈴木史</a><br/></p>

<p>　<b id="ando1007"> 2日目は曇り時々雨</b>。今日見た3作品は素晴らしかった。<br />　エキエム・バルビエ、ギレム・コース、カンタン・レルグアルクの3人の監督作『ニッツ・アイランド』は、オンラインゲーム内でドキュメンタリー撮影クルーというキャラクターでプレイする3人が、他のキャラクターと交流・取材するというものだ。プレイヤーたちは現実の自分自身とは異なるゲーム世界のキャラクターを演じている。キャラクターを操作するところに、自己投影や他のプレイヤーのとの関係構築を居心地良いものにする距離があるように思う。印象深かったのはゲーム内でプレイヤーたちが彼らの現実世界について語る場面だ。目の前のPCから目を上げて窓の外に何が見えるか、どんな部屋で暮らしているかといったことがキャラクターの姿で語られたとき、逃げて離れてたはずの時間が圧縮して戻ってきたようで、なんか泣きそうになった。<br />　イグナシオ・アグエロの『ある映画のための覚書』にはいくつもの映像の引用と、ときに誰が語っているのかわからない複数の語り、そして複数の言語によって、視覚と聴覚いっぺんには感覚できないような厚みと複雑さがあった。質疑応答でフィクショナルな方法はドキュメンタリーの定義に当てはまるかという質問があり、監督は、定義など無い、ドキュメンタリーは自由だ、とさらっと退けていたが、スプートニクに新谷和輝さんが書いているように、「この映画は歴史を語る術を模索している」のだ。そのとき自由さは大前提なのだ。<br />　『アンヘル69』は今日見る予定ではなかった。上記2本を見たあと、空き時間に中央公民館向かいのファミマの喫煙所に行くと、「Hello」と柔らかく声をかけられた。僕も「Hello」と返し少し話すと、その人が『アンヘル69』のテオ・モントーヤ監督だった。これから自作の上映だから良かったら見てと言って彼は戻っていく。僕は予定を変更した。彼のさりげない優しさに惹かれたから。そして本当に見て良かった。<br />　彼は長編を撮ろうとキャスティングのためにメデジンのストリートの友だちをインタヴュー形式で映像におさめる。そのなかには監督が特に惹きつけられ主人公にしようとしていたアンヘルもいた。けれどその映像が彼らの生きた最後のイメージになってしまう。それでも彼は自分が見てきた映画（コロンビア映画、B級映画、世界の映画）と自分が生きてきたコロンビア、メデジンの社会、生きている友人、死んだ友人に返すように、語ることをやめなかった。作中で監督自ら死を演じるように、インタヴューのなかで友人たちが死について「それは大親友だ」「休息だ」と語るように、質疑応答で監督が「亡くなった友人たちは映画のなかで生きている」と言うように、なんとか死んだ者たちと一緒に生きていこうとする。強い強い愛についての映画だった。（安東来）<a href="106-1.html#ando1006">前日へ</a><a href="108.html#ando1008">翌日へ</a>

</p>

<p>　<b id="tou1007"> 夜行バスで</b>6時半に山形駅に着く。降りてすぐにあるバスの待合所で鶏そぼろ弁当を買って食べた。7時になったら近くのスターバックスが開店したので、そちらに移動して上映まで時間を潰すことにする。9時半になったら出て、市民会館に行ったらすでにかなり並んでいた。<br />　まず、野田真吉の『原爆許すまじ：1954年日本のうたごえ』、『松川事件：真実は壁を透して』を見る。『原爆許すまじ：1954年日本のうたごえ』は、労働者たちの合唱イベントを記録した映画だった。ほとんど引きの絵と寄りの絵を一回ずつ映して、全国の団体を紹介していく。寄りの絵ではちゃんと一人一人の顔が分かるぐらいのサイズで撮っていて、感情を込めて歌うそれぞれの顔が印象に残った。最後は『原爆許すまじ』の大合唱で、引いた絵をカメラが上にティルドするという迫力のある演出があった。<br />　『松川事件：真実は壁を透して』は、取材や再現など様々な方法で松川事件を映画で究明するというもの。あまりに緻密な構成と徹底的な調査に圧倒されるが、この映画は自分に向けられて作られているのだろうかという疑問が湧いてくる。つまり裁判の映像資料のように見えてくるのだ。パンフレットによると野田真吉は徹底的に「モノ」と向き合うとある。この場合の「モノ」とは事実だろう。まさに事実と向き合うことで、冤罪という現実を変えようとしている映画のように思う。<br />　次に移動してフォーラム山形で『平行世界』を見る。本作の監督である母が撮ったアスペルガー症候群の娘エロディとの12年間を記録している。ほとんどの場合、母がカメラを持って娘をZOOM画面のように正面から撮り続けている。そして、娘に丹念に同じ質問を続けて、嚙んで含めるように様々な事を言い聞かせる。要するに教育の記録なのだ。この映画が異なっているのは、それを続けることで娘は成長しないことだ。いつまでも娘は娘のままで変わらない。また、母も母で同じ事で葛藤を続ける。2人が前に進んだり後ろに戻ったりしながらちょっとずつ前進していく姿を3時間に渡って丹念に映し取る。映画自体が娘と向き合うための手段だということが段々と分かってくる。最後に映画が辿り着くのは話の展開というより、12年という時間だけが経過したことが分かり終わっていく。平行世界という題名だが、この映画は子供を育てるということを世界と分かち合っているのだろう。<br />　最後に『Oasis』。共同生活をする男女の創作活動を通して都市を見つめるという映画だ。この男女は、カップルと言っていいか分からないほど淡々と生活する様子が描かれる。朝起きるところからはじまり、食事をするところ、休日にサイクリングに行くところなど。二人で行動しているが、そこにはいやらしさがなく自然体なのだ。一緒にいることが心地良いからパートナーなのだろう。そんな二人だからこそ、彼らが生活をする場所というものが見えてくるのだ。監督も後のQ&amp;Aで言っていたが自分の実感から出発しているからこその実直さが魅力だと思った。<br />　22時頃に終わって、香味庵で少し飲んだ。楽しいからか、いつもより自分も他の人もそわそわしている。安井（喜雄）さんに挨拶したら安井さんはいつも通りであの笑顔だった。（斗内秀和）<a href="108.html#tou1008">翌日へ</a>
</p>

<p>  <b id="matsu1007">『ニッツ・アイランド』</b>はDAYZというオンラインSFサバイバルゲームのプレイヤーたちにゲーム世界の中でインタビューを試みていくという、企画の時点で既に面白そうな映画である。それもインタビューの対象は2012年にSteamでリリースされてから、未だにDAYZをプレイし続けているレベルのある種ゲームを極め切った人々であるのだから、見る前から相当気になっていた。実際、開始早々、ドキュメンタリー班の3人(監督の3人)が最初に出くわすコミュニティはかなりヤバい、ということが徐々に分かってハラハラする。全編がゲーム内の画面キャプチャのみで作られているとは思えないほどのサスペンスがあり、タランティーノばりの「3、2、1......バンッ」が行われるとは......。<br />　　『ニッツ・アイランド』の素晴らしさは、その撮影にかけた情熱にこそある。映画内でも示される963時間という途方もない時間。これは日頃からゲームを嗜んでいる人なら分かる数字であると思うが、並大抵の時間ではない。つまり監督たちが選んだのは、物珍しい対象を一方的に観察することではなくて、彼らと出会い、相対し、共存することだ。当初はゲーム世界を調査するドキュメンタリー班として、よそ者扱いされていた3人だったが、中盤で出会う牧師やチル、マクロやスラッグといった「自分に見合った」人々と本当の友情を育んでいく。コロナ禍に撮影された本作において、何かしらのリアルな事情があって長らくログアウトしていた人が久しぶりにログインしてくる時のあの嬉しさには身に覚えがある。コロナ禍を潜り抜け帰ってきた牧師がドキュメンタリー班の3人に対して不器用にも、しかし心の底から「また会えて良かった」と言う場面は泣ける。もちろんそれぞれの姿はアバターというペルソナに過ぎず、繰り広げられるのはVCでのコミュニケーションに過ぎないのかもしれない。けれど、963時間という途方もない時間が、彼らの間にたしかな親密さを生み出した。そして、あのラストカットに至るのである。（松田春樹）<a href="106-1.html#matsu1006">前日へ</a><a href="108.html#matsu1008">翌日へ</a>

</p>

<p>　<b id="itai1007"> たくさんの仕事を</b>抱えたまま山形に来てしまった。山形はもう秋だ。涼しい風がうすら寂しい。喫茶店ラヴでナポリタンを食べる。常連だろうか、お客さんが訛った声で話している。そのイントネーションがなんだか懐かしく、いとおしかった。<br />　トリン・T・ミンハの『ワット・アバウト・チャイナ』を見る。映画は、彼女が1993年から1994年にHi8で撮影したフッテージが用いられているという。トリンは中国を、「歴史」からではなく、人々の姿、編み籠、ヤカンといった人々の暮らしに関わるもの、そして、その土台となる建築様式や自然、さらには水墨画や詩、民謡といった文化のうちから見出そうとする。それらの対象は、複数の声と重ねられ、すこしずつ異なる画角やズーミング、画像などによって、いくつもの異なる位相を見せる。そこで見出される「円」あるいは「調和」というテーマは、国家が押しつける直線あるいは垂直的なものにたいするものとしてあり、それは円楼あるいは土楼の住宅といった、かたちとしての円だけではなく、水墨画で描かれた川と撮影された川のモンタージュ、そしてそこに流れる水が、雲や靄、霞となって、後景の山々をぼんやりと浮かびあがらせ、それがふたたび筆で描かれた線となっていく、そのような循環としても描かれていた。しかし、そのような調和の中においても存在する、男／女の非対称なあり方が映されてもいた。中国では、山は男に、川は女に喩えられるというのだという。それをしるしづけるように、椅子から一歩も動かない男たち、あるいはビリヤードに興じている男たちに対し、川のそばで洗濯をし、炊事をし、生地をこねたりしている女たちの姿があった。映画の後半でトリンは、そのような伝承を、男の山と女の山、男の川と女の川という言葉によってずらしていこうとする。しかし、中国の一部をとってみても、こんなに多様で異なる民族や建築様式があるなんて、驚きであった。（板井仁）<a href="108.html#itai1008">翌日へ</a>
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<p>　<b id="yuk1007">『ラジオ下神白ーーあのときあのまちの音楽からいまここへ』小森はるか</b>。たった3分ほどの歌謡曲のメロディとフレーズが、見知らぬ他人の長い人生の中にたしかにあったであろうある瞬間を、くっきりと浮かびあがらせてしまう。「人生って不思議なものですね」「ふたりを夕闇がつつむこの窓辺に」「見れば涙がまたにじむ」。そんなフレーズのただひとつだけで、その人のことなんてよく知りもしないのに、共感などというなまやさしいものではない激しい感情が呼び起こされてしまう。<br />　そしてその感情は、楽曲の盛り上がりに合わせて隆起するというよりも、ただただ楽しい歌唱の後、活気ある宴の後、「楽しかったね」「またね」と手を振り見送った後の、束の間訪れる静寂の中でこそ爆発するのが、すごく小森作品らしいところだと思った。<br />　そしてもちろん、『息の跡』の佐藤さんの「夜来香」を思い出す。（結城秀勇）<a href="106-1.html#yuk1006">前日へ</a><a href="108.html#yuk1008">翌日へ</a>
</p>

<p>　<b id="ume1007"> 寝起きに</b>『ニッツ・アイランド』。映画も一時期（今も？）言われていたように、ゲームも没入とよく言われるけれど、本当だろうかと思う。『ニッツ・アイランド』を見ていると現実のようにゲームの中で生きることのできないプレイヤーたちの虚しさのようなものをむしろ感じてしまう。ほぼ全編がゲーム内で撮影され、ラスト数ショットは現実世界を映すのだが、確かに現実がゲームのように見えなくもない。でもそれって「映画館を出た後に街を歩くと輝いて見える」くらいの話とは違うのかな。<br />　山形を離れ、仙台で開かれた上映会「Nowsreelシネクラブvol.2「ヴィジュアル・プレジャー : ローラ・マルヴィとピーター・ウォーレンのシネマ」へ。『スフィンクスの謎』。女性性、母性と物語の関係を全7章で検討していく。一見まったく違う7本の映画を寄せ集めたように思えるのだが、4章における13回の360度パンで一人の女性の生活の変化を捉えていく間に、ピリオドがない、まだ続いているテクストが挟み込まれていくように、すべての章が断続している。つまり1章が7章に、2章が6章に、3章が5章に対応する。くだんの4章は全体の構成を織り込みながら、もっとも具体的な物語を提供する。『エイミー！ 』女性飛行士エイミー・ジョンソンのオーストラリア単独飛行50周年に寄せた、ヒロインとは何か、いかにして作り上げられるのかと問う短編。『クリスタル・ゲイジング』それぞれ不幸な結末を迎える4人の男女の物語映画。登場人物たちと同じようにマルヴィン、ウォーレンも物語を語ることがいかに何かを抑圧し、搾取するかに気付きながらも、物語を語ることの楽しさにも魅了されてしまっているように思った。3本とも明確なコンセプトがあるものの、それが袋小路に陥ったり、むしろ批判的に検討したい対象が魅力的に映ってしまうことにこそ、彼らの映画のスリリングな面白さがあるのだと思う。</p>
<p>　というイレギュラーな動きをしてしまったので、他の編集部には会えず。（梅本健司）<a href="106-1.html#ume1006">前日へ</a><a href="1010.html#ume1010">翌々々日へ</a>
</p>

<p>　<b id="fumi1007">寝たのが遅い</b>ので、お昼前にもぞもぞ起きたら住本氏、やない氏はとっくに映画を見に出かけていて、「6年前に来た時はめっちゃ映画見たのに私もヤワになったな〜」と思う。ブランチを食べにカフェに寄ったら店員さんになぜか英語のメニューを渡されたので、日本語で「ルーローハンください」と答えた。<br /> 　タイミング的に小ホールでの野田真吉特集へ。『京浜労仂者 1953』と『1960年6月：安保への怒り』を見た。どっちも見たことある作品だったんだけど、フィルムで見るのは初めてで、その鮮明な画面に感動。『京浜労仂者 1953』にいたってはニュープリントだった。『1960年6月：安保への怒り』は、デモのシーンで「わっしょいわっしょい」と御神輿と同じ掛け声をかけあっていて、この時期の闘争をとらえた日本の映画を見てるとそのことがいつも気になる。1970年前後の学生闘争の映画を見ると、節回しは同じだけれども、そこに乗る言葉が「安保反対、闘争勝利」など具体的なものに変わってくる。一度、デモという形式が退潮して、また震災後の原発再稼働反対デモを経てSEALDsの頃になってからは、節回しそのものが微妙に変質してきてヒップホップと近接し、最近のトランスマーチなどはかなり抑揚のある節回しで、英語訛りの日本語みたいなコールなっていて（実際、人種や民族が多様なのだ）、そもそもクラブカルチャーと隣接した運動になっている。スクリーンいっぱいに何度も映し出される岸信介の顔を見続けて、なんだか悪い夢の円環を見させられているような気分になった。<br />　視界全体の面積が、景色よりも知人友人で満たされてしまう数日間。劇場を出たら、向こうから小田香氏が歩いてきたと思っていると、いつのまにかあたり一面が知人友人になっていて、「あーこんにちはー！！　あーげんきですかー！？」と言い続ける。横浜で開催中の自分の展示を見に行ったよと言ってくれる人もいて、超嬉しかった。ありがとうございます。<br /> 　15:00頃からフォーラムで、波田野州平『それはとにかくまぶしい』と小田香『GAMA』を見た。『GAMA』、深く深く感動しました。カットの中でも、カットとカットが変わるタイミングでも、画面に生まれた意味に対する乗り越えや裏切りが起きる感覚。現実とフィクション、過去と現在、性差、生きているものと死んでいるもの、あらゆる境界が揺らぐ感覚。青いワンピースを着てグラディエーターサンダルを履いた吉開菜央さんが沖縄の砂浜に三角座りをしていると、航空機の轟音が３度響く。タルコフスキーの『サクリファイス』終盤の軍用機の轟音や、ストローブ＝ユイレの『アンティゴネ』ラストの戦闘ヘリの轟音を思い出すけど、これは沖縄のリアルでもあるし、重ねて言えば過去の映画作家が画面に響かせたそれらの轟音も、我々の現実を取り巻く耐えがたいリアルがもたらしたものだったことを思い出す。<br /> 『GAMA』で感動しすぎたので、いったんホテルに戻って小休止してから、やまぎん県民ホールイベント広場での「野外スクリーン！ で東北を魅る」にて、小森はるか『ラジオ下神白』。見ながら、雨が降ってくるし、めちゃくちゃに寒いし、でも映画は画面全体がやさしさで爆発していて終始号泣。「画面のなかにはいりたいけど、本当にこんな世界が存在するのかな、現実は悲しいことばかりなのに！！」「全然、冷静に見られなかった！！　やさしさで感情がおかしい！！」などと、一緒に見ていたやない氏と話しながら、会場をあとにした。感情が爆発してしまったけど、ゆっくり腰を落ち着けて再見したいので、近々関東でも上映機会があるそうだから、そのときあらためて見直そうと思った。<br />　夜からフォーラムでニダール・アル・ディブス『ホームストーリー』。「だめだお腹がすいた！！」ということで、その場凌ぎで、やない氏とポップコーンペアセット・ハーフ&ハーフ（塩とキャラメル）を抱えて劇場に入ったら、だれもそんな観賞スタイルの人はいなくて恥ずかしかったけど、映画そのものは映画館への哀惜に満ちた映画だった。映画館は美男美女の幻影を見る場だったし、そもそも映画館はナンパするとこだったと語る市井の老人たちが良くて、わたしたちの観賞スタイルもなんとなく肯定された気がした。<br /> 　そのあと、「きんぎょ」という居酒屋に行ったら、住本氏、井戸沼紀美氏、秋田祥氏らが集まってきて、だんだんと人が増え、日本酒と山形の幸をいろいろ注文。だんだん酔ってきて、新・香味庵に顔を出そうということで行ってみたら、ものすごい人数の人々の洪水と、部屋に充満するサウンドに気圧されて、早々に離脱。外に出たら、夜中なのに店の軒先に「ズンドンッ！！　ズンドンッ！！」とものすごい音で回る洗濯機があって、「山形にクラブがある！！　コンタクトが山形に移転！？」などとみんなで騒いでいたら、「カラオケに行くぞ！　まねきねこ行くぞ！」と誰かが叫び、走って行ったらさっき来たという草野なつか氏らが道路の向こう側にいて、「これは向こう岸に行ったら、わたしは体力ないから明日は映画見られなくなるぞ......」と理性を取り戻して、みんなに挨拶だけしてホテルに帰還。（鈴木史）<a href="106-1.html#fumi1006">前日へ</a> <a href="108.html#fumi1008">翌日へ</a></p>
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    <title>10/6「いくつかのフロー」</title>
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    <published>2023-10-07T00:46:38Z</published>
    <updated>2023-10-22T09:34:14Z</updated>

    <summary>安東来 松田春樹 梅本健司 結城秀勇 鈴木史 　 夜行バスで朝6時に山形駅に着い...</summary>
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        <![CDATA[<p><a href="#ando1006">安東来</a><br/>
<a href="#matsu1006">松田春樹</a><br/>
<a href="#ume1006">梅本健司</a><br/>
<a href="#yuk1006">結城秀勇</a><br/>
<a href="#fumi1006">鈴木史</a><br/></p>

<p>　<b id="ando1006"> 夜行バスで朝6時に</b>山形駅に着いた。初めての山形の早朝は雨が上がって空が澄んでいる。駅前の居酒屋街には白黒斑の野良猫、霞城公園にはラジオ体操をする人たち。歩き疲れて7時半に開店したOrion Caféに入る。煙草が吸えるのも有り難かったが、モーニングセットが290円なのは驚いた。明日も行こう。プレスパスを受け取った中央公民館の6階ロビーの一面のガラス窓に黄色い映画祭ポスターが目の高さで横並びに貼られている。開けた外の景色を見たい気もする。そのままダニエル・アイゼンバーグの『不安定な対象2』を見る。上映前に監督の挨拶があり、作品の一つのテーマは「個人vs大量生産」だと言った。3部構成で描かれる製品生産の現場のうち、ドイツの義肢工場とトルコのダメージジーンズ工場がその両極で、フランスのオートクチュール手袋の工場（こうば）はその中間と言えると。いずれにおいてもカメラが捉えるのは、作り手＝労働者が生産過程でモノと向き合う姿だ。モノと動く手と表情が一つの画面にずっとあると、その作り手の労働と生産と消費までの関係がどのようであり、それが彼女自身にとってどんな意味があるのかと考えてしまう。特注の義肢ならば、誰のために作っているのかを想定できるが、大量生産のジーンズでは無理だ。オートクチュールの手袋でも消費者は匿名だが、作っているものに対しての愛着というか、意味付けができる。ジーンズ工場にはその時間的猶予がまず無い。関係経路が明瞭であることと、製作自体に意味付けができることがあるとひとまず言えるのか。けれど、手はそんなことを考えて動いているのか。3つの現場とも型があって、特注義肢ならば顧客の身体の一部の型が、オートクチュール手袋ではブランドのオーセンティックな手型が、大量生産ジーンズでは簡易的でマニュアル的な型があった。手はただ型を目指して動かせる。だとするとジーンズ工場のあの生産ラインの速度に手は付いていけるが、付いていけない何かがあるのか。それからもう一つ、ダメージジーンズのダメージの付け方が面白かった。擦ったり、線を入れたり、塗料を塗布したりする方法が、画一のマニュアルがあって効率的にやられているんだけど、それをやってる人たちにはアドリブっぽい感じもある。マニュアルの枠内のアドリブには勢いとノリがあった。あれはなんだ。（安東来）<a href="107.html#ando1007">翌日へ</a></p>
<p>　<b id="matsu1006">グスタボ・フォンタンの『ターミナル』</b>を見る。舞台はアルゼンチン、コルドバ州にあるバスターミナル。フレームいっぱいに広がる大型バスが画面の奥から登場し、ターミナルへ到着する。プシューッという圧縮された空気がリリースされるように、扉が開くとともに乗客がぞろぞろと降りてくる。ぱっと見でも40人前後は乗るであろうその大きさからは、頻繁に乗り降りされるタイプの定期循環型バスというよりは、朝と夜にだけ数を絞って運行するような長距離型のバスに見える。まだ霧がかった未明の、ろくに頭も起きていないような時間、光の中で、被写界深度の浅いカメラは、バスを乗り降りする人々の微睡みの時間を捉えている。バスが次の乗客を乗せ、ターミナルを発ってからは、それとはまた別のバスに乗るであろう人々がターミナルに集う。これからある場所に向かう（向かわなければいけない）人々の、覚悟を決め何かに集中しているような表情。あるいは、ただ頭を空にしてぼーっとしているような、けれどどこか少しナーバスにも感じているような、そんな表情が捉えられる。いや、表情とつい書いてしまったけれど、厳密には人々の表情など、この映画ではほとんど映されていない。フォンタンにとってのショットの厳密さであるかのように、カメラはバスを待つ人々の姿を真正面からは決して捉えていない。あくまでカメラはバスターミナルの中からガラス越しに外へと向けられているだけである。カメラがその位置から見据えるのは、ガラスの向こう側のベンチに座っている人々の背中、あるいは横顔である。さらに内から外への規則によって、キーライトとなるはずの朝日を背後に捉えてしまうがために、全てのショットが逆光になる。そのような理由から、バスを乗り降りする人々やベンチで待つ人々の姿は黒く塗りつぶされた影同然になる。夜の場面も同様に、キーライトがバスやターミナルが放つ光に取って代わるだけであり、その光の間を行き交う人々が影であることに変わりはない。ガラスに遮られているがゆえに、人々の会話の音声も拾われず、光と影のみで構成された映像はほとんど白黒の無声映画のようにも見え、知らぬ間に朝と夜が切り替わっている。バスの到着と出発は純粋な運動として繰り返され、ターミナルを行き交う数多の影がスクリーンを通り過ぎていく。『ターミナル』はそんな映画だ。と、ここまで淡々と、目で見たことを忘れないように何度も脳内で反芻しながら書き出してみたが、端的に言うと、グスタボ・フォンタンの『ターミナル』は傑作である。もうこれさえ見れればあとはなんでも良いとなってしまったので、とにかくまだの人は見て欲しいと念押すとともに、今日はこれを記するに留めたいと思う。（松田春樹）<a href="107.html#matsu1007">翌日へ</a></p>
<p>　<b id="ume1006"> 4年ぶりの現地開催</b>。日記は山形のときしか書かないから日記も4年ぶり。<br />　ずっとここで見ていればいいんじゃないか、と野田真吉『農村住宅改善』『東北のまつり』第一〜三部『忘れられた土地　生活の記録シリーズⅡ』に思わされる。人々の良い顔や力強い身振りは印象に残るけれど、特定の人物を追ったり、住民の心理的な葛藤を演出したりせず、もはや以前と同じように送ることができなくなった生活こそを、土地や居住空間、生活用具、行事と、それに合わせた住民の動きの関係によって見せていく。あっという間に5本見終わってしまう。<br />　とはいえ、当初立てた予定通りグスタボ・フォンタン『ターミナル』へ。決して広くはないそのバスターミナルがどんな場所なのか、よくわからない。カメラは全体像を把握できる場所に置かれることはなく、物陰に隠れたり、床を見つめたりしながら、暗く、ピントが合っていないボヤけた画面で、そのターミナルに訪れた人々を捉える。人に対しても、顔をしっかりと映したりせず、特定の人物が浮かび上がることは先ほどの野田真吉の映画よりもない。エンジン音、クラクション、話し声、足音、音楽など、多重に響き渡る音響から際立つように何人かの恋愛の記憶が語られるものの、それが一体誰の話なのか、その語りが始まる直前に映される人のものだと考えるのが妥当なのかもしれないが、はっきりと画面上で彼らと語りの関係が示されているとは言い難く、やはりわからないままだ。ゆっくりとした波に揺られているような感覚で、これもいつまでも見ていられる気がするけれど、さすがに見ているこちらも断片を繋ぎ合わせ、少しずつバスターミナルが頭の中でなんとなく具体的に立ち上がりそうになってくる。しかし、素晴らしいのはその直前に映画が何かを鮮明に示すことなく、淡さを持ったまま終わることだ。62分。<br />　最後に見たのはパヤル・カパーリヤー『何も知らない夜』。その前に見たイグナシオ・アグエロ『ある映画のための覚書』におけるマプチェ・コミュニティの闘争の記憶よりも、そこで語られるある恋愛と学生運動の記憶がより遠い朧げなものとして描かれているような気がした。でも、その出来事はつい最近、2016年から今も続いていること。モノクロのスタイリッシュな映像は現在性がどこか漂白されていて、見せられている悲惨な光景がこちらと地続きにある感じがあまりしてこない。あと「映画はシロとクロに収まらない微妙な色合いを描くことができる」という言葉自体はかまわないけれど、それを映画の最後に自ら提示してしまうのはどうなのだろう。（梅本健司）<a href="107.html#ume1007">翌日へ</a></p>
<p>　<b id="yuk1006">『訪問、秘密の庭』イレーネ・M・ボレゴ</b>監督を取材した（インタビューはnobodymag.comではなく映画祭オフィシャルサイトに掲載予定です）。<br />　カチンコやマイクが映り込むのを隠さないこの作品のつくりは、画家が自画像を描く時に絵筆やパレットを描き込むように、「自画像」的であるためなのだとボレゴ監督は語る。そのような自己省察的なフィードバックのループが、映画全体をかたちづくっている。いまにも生命の燃え尽きそうな弱々しい老人として登場するイサベル・サンタロが、後半ではいまなお圧倒的な尊厳をまとう現役の芸術家である姿を見せる時、「叔母みたいになるぞ」という家族の言葉に怯えていた姪は、彼女を師とするに至る。そしてその流れは、独裁政権下に「召使」として生きることを徹底的に拒んだひとりの芸術家にしてひとりの女性の肖像として、我々観客にも勇気を与える。</p>
<p>　その後道端でジャン・モンチー監督とバッタリ会ったら、「やっと小森はるかさんに会えてよかった！」と。4年前の香味庵で小森監督の作品とジャン監督の作品には通じるものがあるのではないかとオススメしていたのだった。<br />　その後、新香味庵にて小森監督に会ったら「ジャン・モンチーさんに会えたのでサインもらおうかと思ったんですけど、ペンを持ってなくて......」と。<br />　やはりこうした出会いの場が「ヤマガタ」なのだ。（結城秀勇）<a href="107.html#yuk1007">翌日へ</a>
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<p><p>　<b id="fumi1006"> 山形に来ると</b>知り合いが多すぎて寂しくなる。<br />　新幹線で山形に到着したのは映画祭2日目の10月6日の夜。とにかく寒くて、服装を間違えた。パスを受け取りに事務局に着いた瞬間から、受付に立っていた知人に声をかけられる。「あ〜、山形国際ドキュメンタリー映画祭が幕を開けた」と思う。この日は、〆切ギリギリの某原稿があり、山形に着いてからもホテルに直行しそれと格闘していたので、本格的に映画祭に参加するのは翌日の7日からになった。というわけで、初日はとりあえず、一緒の宿に泊まっている住本尚子氏、やないももこ氏らと合流して、ホテルで遅くまで原稿やって、爆睡。（鈴木史）<a href="107.html#fumi1007">翌日へ</a></p>
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