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2007年09月09日

There is always tomorrow:ワラビーズ対ジャパン 91-3

 前半こそ3-23というスコアで「いつもながらの善戦」とも思えたが、ディフェンスばかりしていては、後半10トライの猛攻を受けてしまう。終わってみれば3-91、そして13トライを奪われる惨敗。ミスマッチと言われても何の言い訳もできないだろう。
 敗因はこのゲームを見た人なら誰の目にも明らかな通り、圧倒的な力の差。都立高校に在学していたぼくは、かつて同じようなゲームを見たことがある。対目黒高校(松尾がいた)3-60(当時はトライが4点)。圧倒的な力の差があるゲームにのぞむとき、正攻法でいっても惨敗は目に見える。スキルがない。体重がない……。そこをどうするのか、という方法論がまず最初に必要なことだろう。残念ながらJKにはその方法論はまったくなかった。低くいくタックル。常識だ。だが、スタッツは131回のタックルで38回のミスタックルと伝えている。「低いタックルでミスを誘う」と選手は口を揃えるが、肝心のタックルを「ミス」していては、ぜったい相手のミスは起こらない。
 大西鐵之祐の時代は、ポゼッションが低くてもバックスにさえボールを供給すればトライを奪えるかも知れないという期待はあった。だが、ワラビーズに対するジャパンの選手たちにその方法論は伝授されていなかったようだ。インサイドセンターのオトはタックル要員だった。相手がいかなる面においても優れていることが分かっているとき、それでも戦わねばならないなら、それなりの方法論があると思えたが、世界一低いタックルを30%近くミスしていてはタックルにいかないのと同じことだ。渡辺の頑張りが空しく感じられた。
 JKが就任して確かに個人のスキルは上がったろう。だが、天文学的にスキルの差があるとき、スキルの多少の向上は目に認知することなどできない。スキルや体力にある程度目を瞑っても、戦術で補えるようなプラスαがまったく見えなかったのは哀しい。哀しさは、絶対的に負けが確実なのに、それでも低いタックルに行って、簡単に交わされてしまう選手たちの姿を見るとき倍増する。太平洋戦争末期の特攻隊の戦闘機がアメリカの艦船にたどり着く前に水中に没していく映像を見たときの感じに似ている。
 昨夜(時差の関係で今朝)見たフランス対アルゼンチン戦。アルゼンチンの整備されたディフェンス網がフランスのアタックをまったく許さず、ラインブレイクされる寸前に誰かが止めていた姿を見て、終いにはアルゼンチンが勝ったとき、アルゼンチンの選手たちは文字どおりヒーローだった。だが、今日のゲームを見る限り、このゲームに出場した選手は自信の失い、自分の行動がほとんど成就しないのを感じなかった人はいないだろう。これは、どうしても哀しい。2ゲーム勝つという戦略のために、2チーム制にして、戦う前から負けが決まっているようなワラビーズ戦に出て、完膚無きまでに打ちのめされる選手たちはどんな気持ちだろうか。ぼくならそんなゲームに出場したくはない。145点とられたオールブラックス戦の再現を見ているような感じ。
 相手への敬意というのは、やはりチームとして、一戦毎にベストの布陣でベストワークをすることではないのか。どんなに哀しくても明日は来る。でも、それがもっと哀しい明日だとしたら、生きているのは嫌になる。

投稿者 nobodymag : 2007年09月09日 00:56

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