かつて愛した人々との不明瞭な認識について

松田春樹

 ヴュイヤール家の姉と弟は忌み嫌いあっている。しかし、その憎しみの根源にあるのは一体何なのだろうか。もちろん、映画の端々において、その理由は互いの口から発せられてはいる。たとえば、ファーストシーン。弔問に訪れた姉・アリス夫妻を罵倒しながら追い返す弟・ルイは、その理由として、死んだルイの息子ジャコブに彼らが生前「一度も会いに来なかったから」だと告げる。一方、楽屋で舞台の本番を待つアリスが自らを恥じて自傷行為を行うのは、『La vérité sur ma sœur (私の姉についての真実)』というルイが書いた本の内容が「すべてのページが私への侮辱」で埋め尽くされているからだと言う。またアリスは、彼女のファンであるルチアという女性との会話の中で、弟との関係性がいかにして断絶したかについて語っている。「ある日を境に怒りの感情に囚われた」と告白するアリスは続く回想シーンの中で、数年間作家としての芽が出なかったルイが授賞式に立つ姿を見て、「いつも謙虚で惨めだった弟が、その日は栄光に包まれていた」と嫉妬のような感情を抱く。その後、会場で二人きりになったアリスはルイにこう告げるのである。「大嫌い」と。
 しかし、アリスとルイが発するこれら数多の憎しみの言葉は、映画を見る我々の間をどこか上滑りしていくように思えてならない。冒頭でのルイの激昂は、あまりの唐突さと気迫ゆえに誰も彼を止めることができず、周囲の人々の狼狽がそのまま観客にも伝染する。アリスが自傷するきっかけとなった肝心の書物は楽屋の机に伏せられているがゆえに、何が書かれているかを我々は知ることができない。映画全体を通して、アリスとルイは互いがいかに憎いかということを言葉にするが、なぜ二人が憎み合っているのかを我々観客は上手く認識できないでいる。そのことは、二人の父親であるアベルにさえも同じことが言える。病床を訪れたアリスに対して、アベルはこう告げる。「お前の弟はどこだ。なんて嫌そうな顔をするんだ。教えてくれ、ルイと何があった?」。父の問いかけに対してアリスはただ「私はルイを許さない」とだけ返すがゆえに、我々はなおもその憎しみの理由について、釈然としないのである。
 デプレシャン の三作目の長編『そして僕は恋をする』の原題は『Comment je me suis disputé... (ma vie sexuelle)』であり、直訳すると『どのように議論したのだろうか、(私の性生活)』になる。その映画の中でも印象的な主人公のポールと旧友のラビエが起こす仲違い。大学の旧友であるこの二人の関係性はそのまま今作のルイとボルクマンに置き換えられるだろう。思い起こせば、友達であったはずの彼らの間に一体何があったのか、その明確な理由は明かされぬまま宙吊りになる。しかし、デプレシャンにとって重要なのは、その映画のタイトルが指し示しているように、どうして(Why)そうなったのかよりも、どのように(How)そうなったのかである。『そして僕は恋をする』は、主人公のポールが幾人もの女性との関係性の中で、彼が最も愛していたのは誰かという答えよりも、むしろ誰とどのように過ごしたかを認識していく映画であった。ポールがそのことを正しく認識するためには、つまりエステル、ヴァレリー、シルヴィアへの愛がそれぞれ個別に存在することを認識するためには、彼女たちとの日常生活が一つの結論へと導かれることなく、ただ、それがどのようであったか(How)を長い時間の中で積み重ねる必要があったのだろう。デプレシャンの登場人物たちが世界を、あるいは他者を上手く認識できないでいることは、2007年に撮られた中編『愛されたひと』でも主題とされていた。映画のラストシーンにおいて、監督のデプレシャン自身が父親へ投げかけるあの言葉。「母親は父さんを知っていたんだよな?そのことで心は痛む?」。父ロベールの母親テレーズが結核で亡くなったとき、ロベールは1歳であり、テレーズに対する記憶は当然ない。けれど、ロベールを産み落としたテレーズは彼のことをたしかに認識していたに違いない。売り払う実家に残されたデプレシャン家にまつわる資料をもとに、父と息子が様々な考証の果てに見出した一つの認識であった。

©︎ 2022 Why Not Productions - Arte France Cinéma

 アリスとルイもおそらくお互いを上手く認識できないでいるのだろう。アベルが言うように、二人は憎しみの牢獄に囚われているのである。そのことはショットとしても表現されており、ある時点までは、アリスとルイが同じフレームに入ることはない。まるでアリスの世界とルイの世界が個別に存在するかのように。ルイは隠遁しており、数年間会うことのなかった姉と弟は互いの認識を修復する術を見失っていた。だからこそ、彼らの言葉は実体のないものへの呪詛のように聞こえるのであり、その声は他者に向けてというよりも自己の牢獄の中で響き渡るのである。では、弔問に訪れたアリスが一度も会ったことのないルイの息子に対して涙を流しているのはなぜなのか。彼らの認識通りであれば、家族とはいえ、顔も見たくない男の息子のことなど知る由もないはずである。しかしアリスはたしかにルイに対して慈悲の心を持ち、涙を流した。この認識のズレは彼らが自己の牢獄を抜け出し、外の世界に出ようとするとき生まれうるものだろう。このときアリスがルイの元へ一度は向かうことを選択したように、つまり姉と弟はもう一度出会い直さなければならないのだ。
 スタンリー・カヴェルの「再婚の喜劇」は、一度は離れてしまったパートナーと再会することによって、関係性の適切さを再認するものであった。そしてその再認によってこそ、正しい認識へとたどり着くというものである。デプレシャンは牢獄に囚われたアリスとルイを外の世界に連れ出すために、二人はまさに「再婚の喜劇」的な再会を果たす。それゆえスーパーマーケットにおける鉢合わせの演出やカフェにおけるアリスとルイの喜劇的な身振りは、ロマンティックコメディの様相を呈しているのだ。「失礼ですが、姉さんでは?」や「謝りたいけど、何を謝ればいいのか……」という台詞が孕む矛盾は、上述した互いの不明瞭な認識状態を言い表している。姉弟であるのにまるで初めて出会った男女であるかのようなアリスとルイは、不器用ながらも一歩ずつそれぞれの認識の修復に努めるのである。高熱で汗だくになったルイが衣服を脱ぎ捨て、赤子と同様の姿でアリスの隣で眠るとき、このベッドの上では、愛し合う二人の男女の初夜と幼き頃の姿とが二重に掛け合わされている。そこで再認されるのは、アリスとルイが子供の頃のように愛し合っている一組の姉弟であるということ。一方で、アリスが言うように、アリスはルイにとってのミューズであり続けたという真実である。ここでのミューズとは、アリスがルイのインスピレーションであったという意味にとどまらない。幼き頃からアリスと比較され、人生を通してルイが影響を受け続けてきた、自己とは異なる存在としてアリスがいるということだ。ベッド上でのアリスの言葉はそのことをルイに決定付ける。つまり、ルイの人生においてアリスは絶対的な他者として存在するのである。


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