「自発性と自由さ」の変遷

松田春樹

 自由な身振り、仕草の俳優たち、瑞々しい自然、水や光、木々が画面を満たしている。そうしたロジエの生き生きとした画面はいかにして生まれているのだろうか。ロジエ自身がインタビューでも答えているように、「素人=俳優の自発性と自由さをとらえるため」に複数カメラでの同時撮影をよく用いたという。ロジエの生き生きとした画面は、ストーリーや演技のでたらめさの上に必ずしも成り立っているのではなく、あくまでその撮影手法=どう撮るか、によって生みだされているのだと仮定してみる。
 例えば、『アデュー・フィリピーヌ』はどのように撮られているだろうか。主人公のミシェルが、アルジェリア戦争から帰還したばかりのいとこデデを連れて久々に家族と食卓を囲う場面。ここでは主に二つのショットがメインとなっていることがわかる。テーブルを囲う6人全員をフレームに捉えたショットA。そしてダイアローグの中心となる母親(と隣人の男)を捉えたショットBである。このショットAはミシェルとデデが車のブレーキ音と共に家の中に入ってくる動作をきっかけとして現れる。二人が入ってくるまでの間は、ショットBとその対面にいるモーリス・ガレル演じる父親(と隣人の女)を捉えたショットCがカットバックされている。このBとCのショットは互いに同時撮影することが可能なポジションであり、ショットAの出現と共に、ショットCが消えている。次のお茶の場面に切り替わるまでの間、主にショットAとBを切り返すことによって、シーンは構成されている。ここで、そのメインとなる二つのショットはモンタージュとしての効用をほとんど果たしていない。ショットの組み合わせによって、運動の継続や演技をコントロールするでもなく、あくまで生々しい演技を二つの位置から捉えているに過ぎない。仮にこのシーンを、異なるサイズやカットを細かく割って撮影していたとすれば、演技の中断と引き換えにフィルムの編集点に一つの道筋ができ始め、モンタージュの効用がシーンに及ぼす影響は大きかっただろう。ここでの簡素だがラフな二つのショットは、作為によってその画面に感情や視線を誘導することなく、俳優の身振りをただ見せることに成功している。食卓を囲うそれぞれの自発的な仕草は見ているだけで楽しいが、特に母親が車を買ったミシェルを流暢に叱責する姿は脳裏に焼き付くだろう。
 『アデュー・フィリピーヌ』のラストシーンは、一台のカメラが船首に近い甲板の上にある。その位置から、船上にいるミシェルの姿と港から船に向かって手を振る人々の姿を同時に捉えている。もちろん、港から船を見送る人々の中には、リリアーヌとジュリエットの姿が小さくもたしかに映っている。船が出港すると共に、画面手前側へと進んでいく船と後景にある港との距離がゆっくりと着実に広がっていく。これだけ大勢の人々を巻き込んでいるのだから、おそらくこのショットはリテイクの限られた撮影だったのだろう。一台のカメラが見据えた可能な範囲を、余すことなく捉えることができた素晴らしいカメラポジションである。さてこの時、もう一台のカメラはもちろん港にある。しかしそのカメラは、リリアーヌとジュリエットのクロースアップを撮るでもなく、港からミシェルの姿をカットバックで捉えるでもなく、ただ港から突き出た高台の上にある。その位置から捉えられているのは、ミシェルが乗った大船の全景やその周囲を小舟で移動する人々の姿だ。ここで感動的なのは、一回限りの幸福な時間において、そこに映るあらゆるもの(人物、空、海、光……)を二つの広大なフレームから贅沢に捉えているということだ。加えて、その双方のカメラが互いに映し出す物理的な距離もまた素晴らしい。甲板上のカメラが、高台に駆け上がったリリアーヌとジュリエットを切り返す時のフレームのどうしようもない大きさと揺れ。それは、繰り返される演技やモンタージュによっては決して生み出すことのできない生々しさであり、『アデュー・フィリピーヌ』が永遠の青春映画と称される所以だろう。

『トルテュ島の遭難者たち』

 しかし、ロジエが『アデュー・フィリピーヌ』以後の作品において、同じようなアプローチを試みているかは怪しい。例として、長編三作目の『トルテュ島の遭難者たち』のオープニングシーンについて触れてみたい。ここでのロジエは一転してモンタージュを試みているように思われる。というのも、この映画の冒頭はある円形のイメージに貫かれているからである。主人公ボナヴァンチュールの部屋に飾られた肖像画にはアフロヘアーの黒人娘が描かれている。その肖像画と室内に置かれているクラゲのように色の変わる特殊な照明器具を、ベッドに寝そべるボナヴァンチュールが夢現に見つめている。ここでのポイントは肖像画と照明器具、そしてそれを見るボナヴァンチュールの顔がそれぞれクロースアップで撮影されている点だ。二者の間に内在する、見る/見られるという関係性は個々の断片が接続するとき、つまりはモンタージュによって成立する。さらには、見られる対象である二つのイメージ、黒人娘のアフロヘアーとクラゲのような照明器具は編集によって連続的に映し出されもする。そこで浮かび上がる円形のイメージは、やがてボナヴァンチュールと一夜を共に過ごす黒人娘リゼットの姿として見事に顕在化するのである。
 『アデュー・フィリピーヌ』から打って変わって洗練されたこの見事な映像設計はロジエから「自発性と自由さ」を奪ったと言えるだろうか。まず『トルテュ島の遭難者たち』において、少なくともロジエは物語を語ろうとしていたように思われる。その証左として、冒頭に示される「恋人ヨランドの嫉妬に閉口し、恋敵を捏造した日」という字幕は非常にナラティブな仕掛けだろう。結果的には、そうしたフィクショナルな設定と上述した演出は見事に結実している。つまり、ロジエは『アデュー・フィリピーヌ』のような「自発性と自由さ」からは離れて、映画的な仕掛けを試みようとしていたかに見える。しかし、ここからがロジエの不思議なところなのであるが、冒頭で丁寧に構築されたはずの映画的な仕掛けは、その後展開される「ロビンソン・クルーソー・ツアー」によって破壊されるのである。無人島への旅路はあまりに現実的な描写であり、映画を見終えた人のほとんどがヨランドのこともリゼットのこともすっかり忘れてしまうに違いない。ノー・プランのヴァカンスであることを謳った「ロビンソン・クルーソー・ツアー」は行き当たりばったりの予測不能な事態の連続で、まさしく『アデュー・フィリピーヌ』的な刹那性を取り戻していく。ジャングルや海上を突き進むサバイバルな道程は無秩序そのものであり、手持ち撮影が主体となり、モンタージュは再び息を潜める。しかし、振り返ってみれば、秩序立てられた物語と映像が次第に無秩序なものへと変化していく様は、この映画が描き出そうとしたテーマそのもののように思える。制作上の問題ゆえの改変であるようだが、ロジエが依然として、そうした「自発性と自由さ」のフレームへの介入を面白がっていたことには違いない。

『フィフィ・マルタンガル』

 最晩年の作品『フィフィ・マルタンガル』はこれまでロジエが撮ってきた作品のどれとも似ていない。演劇の上映に向けての諍いをメインの物語に据えたこの作品には、ロジエの真骨頂とも言える「自然」を捉えたショットがほとんどない。代わりにカメラが捉えるのは、室内で稽古に励む役者の姿である。背後に映る舞台の書割りは極めて人工的な要素であり、台本に書かれた台詞を繰り返し読み上げる役者の姿は、これまでロジエが捉えてきた生々しさとは対極にある。唯一『フィフィ・マルタンガル』が他の作品と共通項を持っているとするならば、物語にまたしても亀裂が入ることだろう。様々な諍いを経て上演にこぎつけた演劇団であったが、演劇は生モノであるように、本番は予定通りに進まない。しかし、この予測不能な事態はこれまでロジエが捉えてきたハプニングとは少し性質が違う。なぜなら『フィフィ・マルタンガル』には入念に練られた脚本があるらしく、すべてがその通りに行われるものだからだ。つまりフレームに介入するハプニングさえもが映画的な仕掛けであるという点でこれまでの作品とは一線を画している。
 『フィフィ・マルタンガル』のラストシーン。舞台がハプニングによって混沌となり、緞帳を締めざるを得なくなったとき、ただ一人残ったリディア・フェルド演じるフィフィが客席に深々と頭を下げながら、何とかその場を繋ぐ場面。すると、不意に客席からギターが鳴り響き、その音色をチャンスと見るや、即興的にフラメンコを踊り始める彼女。ここでのリディア・フェルドの踊りは、舞台を見続けてきた観客にとっては一見困惑するものであろう。けれど、切り返される観客のリアクションはなぜか良好なものであるし、実際、そこでの彼女の身振りは信じられないほど感動する。それは『アデュー・フィリピーヌ』で捉えられたリリアーヌとジュリエットの、あのへんてこダンスが想起させられるとともに、あの映画を撮ったロジエが映画的な仕掛けに徹する姿に、深い感慨を覚えるからかもしれない。


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