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~MARCH

-『ギター弾きの恋』ウディ・アレン
-『Luminous』構成・振付け・美術・照明/勅使川原三郎

-『路地へ』青山真治

-『ギターはもう聞こえない』フィリップ・ガレル

-『アカシアの道』松岡錠司

-『ハズバンズ』ジョン・カサヴェテス

-『Future Kiss』サニー・デイ・サービス

-『ハイ・フィデリティ』スティーブン・フリアーズ

-『回路』黒沢清

-『回路』黒沢清

-『BROTHER』北野武

-『キャスト・アウェイ』ロバート・ゼメキス



 

3月27日

『ギター弾きの恋』ウディ・アレン

 ここ数年恵比寿ガーデンシネマ御用達映画監督としての立場を不動のものとしつつあるウディ・アレンである。この映画館、ウディ・アレンの映画がかかっているか、そうでなければウディ・アレンの映画の予告編がかかっているか、とにかくいつ行っても「ウディ・アレンは切らしません」みたいな状態になっていると感じるのは私だけか。
 「おまえは新聞か?」というほどにHMVの新譜コーナーに居座りつづける浜崎あゆみのように、あるいは「住んでるの?」というほどにいつ見ても蜷川幸雄な彩 の国さいたま芸術劇場のごとく、ウディ・アレンはいつも恵比寿にいる。いいんだけどね、別 に。ウディ・アレン好きだし。
 「ウディ・アレンが送る、10年に一度のラヴストーリー」というのが宣伝文句だが、
『ギター弾きの恋』はそれほどストレートな映画ではない。「現実と虚構をどう語るか」というウディ・アレンの試みはこの映画でも継続されている。髭をたくわえたショーン・ペンのコスチューム・プレイを期待するものは、冒頭ウディ・アレンのアップに面 食らうことになるだろう。この映画は実在したジャズギタリスト、エメット・レイのエピソードを識者が語るという構成をとっている。そうした意味であのうんざりするような自己分析映画『夫たち、妻たち』を連想させもする。『夫たち、妻たち』ではドキュメンタリーフィルム風のインタビューシーンが挟まれる構成になっていた。『夫たち、妻たち』ではこのインタビューシーンによって、それまでの手持ちカメラの腰が定まらない映像で撮られた説話部分が分析され、意味付けられていく。対して、『ギター弾きの恋』では最初に識者がエピソードを話し、そのエピソードが映像として示される。そのせいなのだろうか、ショーン・ペンやユマ・サーマンが演技をしている部分の映像はしっかりとした構図が選択され、とても丁寧な演出がなされている。そしてこの部分の映像が本当に素晴らしい。ゆっくり動く列車の前でエメット(ショーン・ペン)と女たちが語り合うシーンや、ハッティ(サマンサ・モートン)が仕事場から出てきてジェットコースターの下を歩いていくシーンなんて見ていて気持ちが揺さぶられてしまったし、だからこそインタビューシーンはとても余計に感じた。
 「うんざり」と書いたように私は
『夫たち、妻たち』が好きではない。まあウディ・アレンだからと思いつつも、じっちゃんばっちゃんの夫婦の危機なんぞ、こっちの知ったことではないのである。そういう人間にとってあの映画はあまり見るべきところが少ない。それに比べてはるかに映像そのもので私たちをひきつける『ギター弾きの恋』は、そのラストで驚くべき音を聞かせてくれる。エメットがそれを壊した瞬間、その音はそこらのライブハウスでのそれよりよっぽど暴力的に響いて、私はほとんど泣きそうになってしまった。
 「これで一時間半撮ってよ」と思うのは決して私だけではないはずだが、世界的スターであるウディ・アレンにはもっと切実な問題があって、そうではないものを撮りつづけるのだろうし、そうだとしたらもう「長生きしていっぱい撮ってください」としか言えないではないか。私は私の風景を変える体験を期待して恵比寿に足を運ぶのみである。
 そして今回はそれがあった。とてもラッキーだった、という話だ。

(志賀謙太)


 

3月26日(月)

『Luminous』構成・振付け・美術・照明/勅使川原三郎 @シアター・コクーン

 足を一歩踏み出す、二歩目が・・・、いや、もはや足を数十センチ動かすだけでいい。右足の爪先が踵を軸に数十センチ、舞台上での大いなる数十センチメートル、それは全く滑らかさを欠いた変容の身振りである。舞台という「装置」がガタガタと作動している、身体を起点(あくまでも単なる起点である)として、身体、音楽、朗読者の声、セノグラフィ、照明、それぞれの要素が互いに接続しあいながら「装置」を作動させる。数十センチの身振りは、あたかも空気との摩擦によって生じるかのような不快なノイズをそこに引き起こすだろう。事実、直立不動のダンサー達の足裏が踏み付けるボタンは、彼の右足、左足、彼女の右足、左足に従って、様々に異なった電子音を発生させるのだ。舞台においては、微少な数十センチも、大音量の電子音も同じレヴェルの系列として存在し、関係しあってしまう(それは決して従属関係ではない)、しかも右足が巻き込まれている関係は、左足のそれとは異なる。そう、そこではいかなる小さな身振りであろうともそれは「おおいなる」身振りなのである。
 常に変化し続ける舞台、両袖から天井から大小様々なパネルが出し引きされる。それらは上演中自動的に動き、そこを埋めつくしたかと思えば、徐々にその姿を消してゆく。例え固定されたとしても、照明の光によって単なるガラスパネルともなれば、ダンサーの姿をぼんやりと映しだす鏡ともなる。
 そんな空間に彼らだけが置かれることは決してない。変容する身体に加え、彼らとの関係を生みだすため、たった一枚だろうとパネルが置かれるだろう。たった一枚、忘れられたように吊るされるたった一枚の存在が、ダンサーの華麗な身振りを無気味に侵し始め、緊張した関係の場である舞台を出現させる。前作
『Raji Packet』で登場した動物達は今作では機会仕掛けのパネルに姿を変えているわけだ(前作において、動物との関係を諦めた地点に勅使川原の「具体的かつ抽象的な」身体そのものの露出を僕は見て取ったわけだが、今作を踏まえれば、関係を絶とうとするそうした身振りもまた、ある<関係>のうちでのみ存在するのだといえる。その意味で、制御可能のパネルよりも制御不可能な動物達の方が、さらなる場の活性化を引き起こしていたのでは、とも考えられる)。
 大味なスペクタクル調であった前作の照明が、ここでは他の要素と接続しあいながら変化し続ける多様な光となっている。たとえ照明が落とされようと、ダンサーの身に付ける発光性の衣装、あるいは天井にまで届くほどの分厚く巨大な発光性のパネルにより光が途絶えることはない。「目のくらみそうな光」から、「灰色がかった光」、「夕暮れ」の微光まで、暗闇の中で「装置」が停止してしまうのを怖れるように、勅使川原は決して光を絶やさない。『Luminous(光を発する)』。そう、この形容詞自体無限の度合いの可能性を有しつつ、「a luminous body」、「a luminous panel」、「a luminous sounde(?)」がつくりだされるのだ。「luminous」の変容、勅使川原の振付けによる「body」の変容(わずか数十センチでさえも)、「panel」の変容(しかも全自動だ)、各要素が、結合し合いかつ変容を繰り返しながら、舞台という「装置」は永久に作動してゆくだろう。
 光。僕達は視覚によって光を知覚する。いうまでもなく、視覚という知覚作用は視覚対象との距離、それ自体は視覚化できない距離を前提として成り立つ。そして距離がゼロになったとき生じる知覚作用が触覚なのだろう(もちろん両者は互いに排除しあうものではないし、知覚と触覚の複合的な作用を僕達は日常的に経験している)。とすれば、視覚を失った者、つまり盲目の人間は常にその距離の可能性を完全に奪われており、当然、彼(彼女)は光を知覚できない。
 ところが、光とはそもそも視覚作用に必要不可欠なものである。いや、視覚作用(「何かを見ている」)の認識に必要不可欠といったほうがいいのか・・・。いずれにしろ、光がなければ、「何かを見ている」事実は確証付けられないわけだ。視覚の原因でもあり、その結果でもある「光」、もしかしたらそれは対象との距離そのものであり、実のところ僕達は「光」それ自体を視覚化できないのかもしれない。あるいは、自らが「光」なのであり、距離そのものなのだろうか、だがその時いったい何が何を知覚しているというのか、「ワタシ」というこの一点は果たして「知覚するもの」なのか「知覚されるもの」なのか、あるいはもっと別の何かなのか?
 しかしこれだけは言えそうだ、そう、「ワタシ」とは徹底的に「盲目」である、ダンサーもまた「盲目」でなければならない。事実
『Luminous』には視力を失った盲目のダンサーがひとり登場する。「盲目」になること、それは「luminous body(発光体)」になること、さらには「装置」たる関係の場へと巻き込まれることである。そして真の「発光体」となった盲目のダンサーによって、『Luminous』と名付けられたその場が「知覚」の場へと変容するのを僕達ははっきりと確認する・・・。
 もはや、そこにおいて数十センチの身振りが大音量の電子音と接続されるのは当然である。
 

(松井宏)


 

3月25日

『路地へ』青山真治

 ふらふらと本屋めぐりをしていたら、「小説トリッパー」(どうかと思うなあ、この雑誌名…)が中上健次特集を組んでいて、巻頭で松浦寿輝と青山真治の対談が載っていたので立ち読みする。宮沢章夫のエッセイが載っているのでそれも立ち読みする。「新宿のサウナに、いるよ、いるに決まってるじゃないか、中上は」という感じで、宮沢章夫の文章は相変わらずおかしい。立ち読みで済ませたため、いまこれを書いている時点で覚えている文章はおかしかったその一文だけだ。対談のほうも、「中上健次は本質的に短編小説家」とか「「路地」はデータベースだ」とか面白い言い切りがあったんだけど、いまいちうろ覚えである。正直に告白してしまうと私は中上健次の小説は苦手だ。読んでいてあまりいい気分になったことがない。たぶん出てくる人が、男も女も軒並み精液臭いのが原因ではないかと思う。それが悪いというのではなく。ただの趣味の問題。私は精液の匂いは嫌いだ。
 だから中上健次にこれっぽっちも思い入れがないのだが、思い入れのない私が青山真治の『路地へ』を見ると、あるいはあたりまえのことかもしれないが、これが文学臭いともロマンチックとも感じなかった。綺麗な青空とうんざりするくらい濃い緑と穏やかな風とかすかに波立つ川面とトンネルを抜けると一瞬すべてが真っ白に見えるくらい強い日差しと、闇夜に煌々と光る自動販売機と「アメリカ」という看板とやたら張り切って盆踊るおじいさんとメガネをかけた変わった顔の男が目の前を通り過ぎたり
立ち止まったりする。そこに大友良英やら坂本龍一やら車のエンジン音やら中上の著作の朗読が被さったり被さらなかったりする。私にはそれらひとつひとつの映像と音が結びつくとは感じられなかった。一時間あまり目の前に現れる映像と音をぼんやりと楽しんでしまっていた。とにかく凄く気持ちのよい映像と音だった。
 だから私にとって『路地へ』はゴダールの『ワンプラスワン』にそっくりだ。一部の音楽ファンのあいだでは大不評のローリング・ストーンズのドキュメンタリーフィルム。ゴダール自身もどこかで(『ゴダール 映画史』だっけかな?)「あれはちょっと…」みたいなことを言っていた。でも私はあの映画がとにかく大好きなのだ。移動撮影によるワンシーン・ワンショットが延々と重ねられただけの構成。いったいどこをどうやったらストーンズのレコーディング風景と廃車置場の黒人たちと映画の撮影風景が結びつくんだか、皆目見当もつかない。ちなみに私はストーンズにもマオイズムにもピンとこない人間だ。しかし見てるだけで、本当に頭を使わずに見ているだけで、あれだけ楽しめる映画というのもそうない。廃車置場を縦横無尽に動き回るカメラと対照的にやる気なさそうにだらだら歩く下着姿の女たち、それとミック・ジャガーにいびられるチャーリー・ワッツの無表情加減がたまらない。
 『ワンプラスワン』は、何の脈絡もなく浜辺でアンヌ・ヴィアゼムスキーが銃を持って走り回るシーンでフィルムが終わる。『路地へ』は、井土紀州が海を目指し浜辺にたどり着いたシーンでフィルムが終わる。そう書くと正反対のように思えるラストシーンだが、突然出てくる浜辺というゴールも、海に行くつもりで車を走らせて到着した浜辺というゴールも、それがゴールであることにさしたる意味はない点では変わらない。浜辺に「路地」は現れるか?現れない。浜辺に中上の声は聞こえるか?聞こえな
い。あたりまえのことだ。中上の「路地」はもはや消滅し、中上自身も死んでしまっているのだから。結局映像と音の集積はどこにも行き着かないのだ。『路地へ』というフィルムが表しているのはそんなあたりまえの事実だと思うし、そのあたりまえの事実をあれだけ気持ちのよい映像と音で示しているのだから、これはやっぱり素晴らしい作品だと思う。

中上健次が撮ったというフィルムには、路地の壁に書かれた落書きを確認することが出来る。「1+1=11」、確かにそう書かれていた。

(志賀謙太)


 

3月22日(木)

『ギターはもう聞こえない』フィリップ・ガレル

 今読んでいる『明かしえぬ 共同体』(モーリス・ブランショ)という本に収められている「恋人たちの共同体」という文章にこんな一節がある。「前略(情熱というものに捉えられた)彼ら二人の間に、死が横たわっているかのように、彼らは永遠に隔てられているというのだろうか。いや、隔てられてもいなければ、引き裂かれてもいない。ただ互いに近づきえぬ ものとして、近づきえぬものの中で、無限の関係の下にあるのである。」
 この映画にはフレーム外がある、確かにその一言で良いのかもしれないしかしこの映画のフレーム外は何故こんなにも人を不安にさせるのだろうか。見えないことがもどかしいのではない、ただただ不安なのだ。それはおそらくこの映画(のフレーム内)がフレームの外側(の世界)と隔てられているのでも、引き裂かれているのでもなく、「近づきえぬ もの」として在るからだろう。
 一方でこの映画のフレーム内つまり見えるものも、我々を不安にさせる。それは登場人物たちの視線だ。この映画では2人の人物が話している場合でもどちらか1人のアップが続き、なかなかもう一方に切り替わらない(もしくは切り替わらないままそのシーンが終わってしまう)。そして(だから?)そのアップになった人物の視線は相手に、あるいは他の何かに向けられているはずなのだけれど、その視線の所在が不確かで、ひょっとしたら彼等は何も見ていないのかもしれない。(主人公の友人の画家は片方の眼が義眼なのだが、むしろもう片方の眼の方が何も見ていないようですらある。)
 同じく恋人たちを描いた映画である
『M/OTHER』を私はそれこそ他人事のように眺めて見ていた。それはおそらく私が映画の中の彼らと視線を共有することがなく、または彼らの視線を断定できたからだ。彼等の間のことは分からない(と言うよりどうでもいい)が、少なくとも『M/OTHER』という映画とそれを見る我々は完全に「隔てられて」いる。
 そう、
『ギターはもう聞こえない』という映画は恋愛関係を描いているのではなく、この映画そのものがその関係を成しているのだ。 

 (黒岩幹子)
 


 

3月19日(月)

『アカシアの道』松岡錠司

 険悪な仲の母娘の絆の回復の物語。しかしこのフィルムが挑む「絆の回復」は紋切り型ではなく、むしろ歪にさえ見える。このフィルムでは娘(夏川結衣)の回想シーンが良く出てくるのだが、そのイメージは全て「母が私を如何に虐げたか」というネガティヴなものであり、「良い思い出」の断片もこの映画には出てこない。「多くの辛い過去の思い出の中にも一つだけ良い思い出があり、それを糧として娘は母との関係を温めた」といった「絆の回復」はここではありえない。つまり、娘は母に対する「良い思い出」を今作り出さなくてはならないのだが、母の痴呆症の進行と共に、それは不可能になっていく。娘が介護しているにもかかわらず、長年母を放っておいたひどい娘、というイメージが母の中で凝固してしまっているためだ。結果、娘も母のイメージを更新させることができない。凄く興味深い話だ。彼女たち二人の最悪な関係は双方の記憶の中で凝固したままであり、そんな関係の修復など不可能な地点にある他者と如何に関係を結ぶのか。実に興味深い主題ではないか。 …しかし。

 『回路』(3/9)の時に「記憶なき死体との並走」みたいなことを言ったが、もう少しそれに言葉を足してみよう。黒沢清の前作『大いなる幻影』で、武田真治は他者(唯野未歩子)に見つめられることによってかろうじて存在することができた。つまり、武田真治にとって他者は必要条件である。では、それは十分条件でもあり得るのか?その他者にとっての武田真治とはなんなのか? 彼女は彼を見つめる。するとそこに彼がいる。では彼女が彼を見つめていない時に彼がいるということを如何に証明できるのか?または証明できないなら、彼女が彼を再び見つめるまでの時間とは如何なるものか? 『回路』のラストで麻生久美子がボートのカギを取りに加藤晴彦のもとを一時離れるシーンに賭けられているものは、その問いの答えかもしれない。
 彼女がいない時に彼の存在を保証するのは、彼の記憶である。彼がその間何をしていたのか、を説明することである。そのことによってとりあえず我々は安心することができるだろう。なるほど、私が彼(女)を見つめていなかった間、彼(女)はそのようなことをしていたのだ、と。しかし、その安心はあくまで事後にしか訪れない。しかも、それとて「もし私たちがそれを信じることができたら」という条件付きだ。さらに、その「信じる」も単に妄信ではありはしまいか。私が見つめていなかった時の彼(女)の記憶のブラックボックスを埋めることの困難さは如何程のものなのか?
『回路』はとりあえず「その困難は果てしないものだ。だが、それを困難と捉える必要はない」と言っている気がする。「記憶なき死体との並走」とは、そのブラックボックスをそれそのものとして引き受けることかもしれない…。

 『アカシアの道』の夏川結衣は一見このブラックボックスに怯えているように見える。元夫と旅行に出かけた時に母のことが心配で家に帰ってしまうからだ。しかし、これは単に「いつも見つめていなければならない」という強迫観念に過ぎない。それは逆にブラックボックスの消去の意志へと向かう。中途半端な役回りで出てくるあの青年、彼の「婆さんに助けられた」という告白はそのブラックボックスを余りに安易に埋めていはしまいか? 夏川結衣は挙げ句に「私たちずっと一緒だったよね」とそんなブラックボックスの存在など認めない、という宣言をしているかのようだ。
 母と娘の凝固した記憶を融解させるには、もっと母を「死体」として見なくてはならない。そうすることで、母を見つめる私は、同時に母に見つめられる私となるだろう。それももちろん勘違いかもしれない。しかし、勘違いを恐れてはならない。いや、恐れなくてはならない。恐れつつも「死体」を見つめてみる。
『きらきらひかる』『トイレの花子さん』はもう少し「恐れて」いたのではないか。そしてこのフィルムも「恐れる」潜在性を、巷の凡作より遥かに備えていたはずである。惜しい。

(新垣一平) 


 

3月18日(日)
『ハズバンズ』ジョン・カサヴェテス

 ベン・ギャザラと、ピーター・フォークがこの『ハズバンズ』以降のカサヴェテスのフィルムで見せた「人物」たちは、すべて彼らが見せたハリー(ギャザラ)とアーチー(フォーク)から生まれたと言って良いかも知れない。というのも、この3人の強い絆をつくったフィルムが『ハズバンズ』であり、それは紛れもなく3人の「人物」のフィルムであるからである。もちろん4人目の「ハズバンド」、冒頭で死んでしまったスチュアート・ジャクソン(デヴィッド・ローランズ(ジーナの兄?))の不在は、3人のともすれば乱痴気なコメディとも見られてしまいかねないフィルムを痛烈に貫けている。そして、『ハズバンズ』を取巻く数多の時間は、終盤の3人が娼婦を部屋に招くシーンを産み、そこにはもはや1本のフィルムに流れうる時間を超え、彼らの親交関係の証、つまり後の素晴らしいフィルムがもたらされる時間をも予感させるのである。
 ところで、
『ハズバンズ』には6つの「時間」の異なるヴァージョンがあるというのはどれだけ知られた事実かは知らないのだが、カサヴェテス自身が最初に編集した2番目の版はなんと225分もあったらしい(結局2、3、4番目の版は公開されてはいない)。ベン・ギャザラはその225分の版を最も愛していると言っているけれども、それからようやく一般 公開されたのが6番目の140分ヴァージョンなのだという。しかもカットすることによって、ギャザラが愛するという版よりも観客にとっては辛いものに仕上がったというのだから驚きである。やはりカサヴェテスという人は『アメリカの影』以来、編集というプロセスにもまた情熱を注いでいた「作家」であるのだということを再確認させられる。
 と、今回のキネカ大森でのカサヴェテス特集のチラシを見ると、
『ハズバンズ』の上映時間が「2h10」となっている。一般公開版は「2h20」のはずだのに。単に誤植であればいいのだが(よくないけど)、実際の上映もその位 の時間だったような、、、。確かにフィルムが劣化したりしてカットすることもあるかも知れないけれど、果 たして失われた10分は何処にいってしまったのだろうか。まさか、裏で撮影技師が「映画を完全な形でなんて観れるわけがないだろう。」なんて何かの小説のように言っているはずもないだろうが。

(酒井航介) 

 

 

3月15日(木)

『Future Kiss』サニー・デイ・サービス

 サニーデイ・サービスの最後のオリジナルアルバムとなった『Love Album』と同様に、彼らの解散直前に出されたこのライヴアルバムも、やめてくれよ、って思うくらいダサいタイトルがついているが、同時にこれはある意味彼らの最高傑作であり、最終到達点なのだと思う。
 彼らのデビュー以来の道のりは、一言で言うなら「ポップミュージック」との距離の測定であり、その距離の確認によって「ポップミュージック」に彼らが決して到達し得ないとこを示し続けた敗走につぐ敗走であった。では「ポップミュージック」とは何か?
『Love Album』のころに、リーダーの曽我部恵一は「コンビニでかかる音楽を目指す」みたいなことをしきりに言っていた。私が推測するに、それは匿名的な音楽であり、聴く人が気にもかけないのだけど、コンビニを出て家に帰る途中にふんふんなんて口ずさんじゃって、あれ?これは何の曲だっけ?と思い出そうとするけど思い出せないような音楽のことである。要するに、頭の片隅に実体なくふわふわと漂っているだけのようなメロディーたち。
 1stアルバム
『若者たち』や2nd『東京』を高校生の時に聴いた時は、その初々しさに私は酔いしれたものだ。しかしそこには同時に確実になにやら疲弊した感じもあった。そこでは「ポップミュージック」には実体があり、おそらくURCという固有名があったはずで、それが曽我部の「ポップミュージック」のイメージの最良の具現だったのだろう。しかしサニーデイ・サービスのいる地点は70年代初頭ではなかった。彼らは圧倒的に遅れていたのである。その遅れている感覚が疲弊の原因である。続く3rd『愛と笑いの夜』と4th『サニーデイ・サービス』でその疲弊は加速する。「約束の時間はとっくに過ぎていた」(「bye bye blackbird」)「花が散ってなくなる前に写真を撮るつもりだったのに/今朝の風は残酷なのさ/全て台無しにして放り出す」(「そして風は吹く」)。そこに着いた時にはもう遅れていて、その遅れは絶対的な遅れであるにもかかわらず、またそこを目指して歩き始めるような…。疲弊はやがて空虚を呼び起こし、その空虚を打ち消そうと彼らは5th『24時』で混乱を招き寄せる(個人的には一番好きなアルバムだ)。距離をねじ伏せ、自分のいる場所を錯乱させ、足下をなし崩し、彼ら自身は存在の稀薄さを確認する。「ぼくらはきっと若い花模様/何かのはずみで消えてしまうんだね」(「経験」)。
 しかし、この過程でサニーデイ・サービスは取り返しのつかない失敗を冒していたのかもしれない。というのも、「頭の片隅」の音楽とはすなわち何の主張もなく、精神的な内面 もなく、匿名な音楽のことであり、「疲弊」などという感覚から最も遠いだろうと思われるのだが、彼らが6th
『MUGEN』と7th『Love Album』でついに「ポップミュージック」そのものへと自らをダブらせようと挑んだ時には、彼らは「サニーデイ・サービス」という拭い難い固有名としての名声を勝ち得ていたし、彼らの試みは「空虚を乗り越える」みたいな「精神性」とともに語られざるを得なくなったし、なにより「ポップミュージック」という主張のもとになされていたからだ。
 これが彼らの敗走なのだ。だから
『Love Album』の後に彼らの解散の話を聞いた時にも驚きはしなかった。むしろ(今だから言うが)当然の結果 という感じすらあった。もうやることはないだろう、そう思っていた。だが、彼らは「ポップミュージック」を反則技で実現していたのである。それがこの『Future Kiss』である。先にこの作品はライヴアルバムだと言ったが、そのライヴの場所というのが、こともあろうに、…幼稚園なのだ。当然ながら園児たちは彼らの演奏など、耳には入っているかしれないが、はっきり言って聞いちゃあいない。つまりサニーデイ・サービスの音楽は園児たちの「頭の片隅」をかすめるだけなのだろう。こうして、彼らは「ポップミュージック」を子供たちを使って実現するのだが、ほとんどこれは、やけくそまじりの屁理屈のレベルかもしれない。でも、それはそれで結構痛々しく、このアルバムで、リズムボックスが本当に「遅く」なっていくのを聴くと、そうして間延びしてしまった楽曲を聴くと、何故だか私のなけなしの「青春」(それもサニーデイ・サービスが絶望的に虚構しようとしたものだ)も遥か昔のことに思えてくる。いかんいかん、こんな自己完結する感傷なんぞ唾棄するにも値しない、と襟を正しつつも、しかし…。

(新垣一平)


 

3月14日(水)

『ハイ・フィデリティ』スティーブン・フリアーズ

 ラジオ流しながら車を運転していたら,なんかしょっぼーい電子音が聞こえてきて,そこにヴォコーダーで歌いまくる男の声が被る。あくまで軽くて,やる気なさそうな四つ打ちも鳴らされる。要するに「うわっ、馬鹿だなあ、これ」という曲なんだけど、ぼくはとても気に入ってしまって「ふんふーん」なんつって鼻歌でメロディ追いかけてたら曲はさっさと終わってしまい,FMのDJ特有のバイリン発音の日本語が喋りだしたので、むかついて消す。テンション高すぎるんだよ、あいつら。なんかいっつもパーティやってそう。そしてケチャップが好きそう。ポテトにケチャップ。ハンバーガーにケチャップ。寿司?めんどくさいからそれもケチャップ。きっとラジオ局では毎夜ケチャップパーティが繰りひろげられているに違いない。こちとら親父を八王子のゴルフ場まで送るために中央高速に乗って、ばっちり渋滞に巻き込まれているのである。ビタイチ動かない。隣で親父も動かない。寝てるのである。八王子まであと一時間。悪いがケチャップパーティに参加しているの余裕はない。
 で、まあ気に入った曲はなんだったかというと、各音楽誌が諸手を挙げて大絶賛、DAFT PUNKの
『ディスカバリー』に入っている「デジタルラヴ」でした。や、しかし、音楽雑誌の力ってホント凄い。発売初日の夕方にふらふら渋谷に買いに行ってみたら、ほっとんど売り切れ。辛うじてタワレコに日本版が幾つか残っているだけだった。2500円、高いなあ。でも買いましたよ、どうしても聞きたかったから。ポータブルプレイヤーにぶち込んで聞いてみる。ふむふむ。結論。そんなに凄いアルバムか、これ?確かにボーカル曲は楽しいけどさ。意外に全体的に単調なのね。かといってフロアユースってわけでもなさそうだし。ラストの曲は好きだな。四つ打ちが本気っぽくってかっこいい。
 こんなこと書いてると「だからわかってねーやつは困るんだよ」と怒り出す人がいそうだな。音楽好きというか、音楽雑誌好きの音楽好きって結構偏狭な人が多い。理屈っぽいくせに、その理屈をよく聞いてみると全部雑誌の受け売りだったりするのね。くっだらなーい。そういう人たちの偏狭さに比べると、たとえばこのあいだ見た
『ハイ・フィデリティ』に出てくる音楽オタクたちの偏狭さのほうがずっと好ましい、というかぼくは好きだ。理屈がないぶんだけ話が面倒くさくない。ある種の人々にとってはこの『ハイ・フィデリティ』という映画のお話はぐっときてしまって仕方ないんだろうなと思うが、残念ながらぼくはオタクになれるほどの集中力も愛情もない。それでもオタクなるものに少なからず羨ましさは感じるし、その感情がもっと強かった高校生の頃にこの映画を見たらずいぶんと感動したのではないか。「あんたは変わらなくてもいいから私がそばにいてあげる」なんて、オタク男にしてみたら最高の言葉だもんなあ(恋人役のイーベン・ヤイレがさいっこうに可愛い!)。
 でもぼくはオタクではなくて(にはなれなくて)、そういう人でもこの映画を楽しく見れるのは脚本もカメラも音楽オタクたちにある距離を置いているからだと思う。その距離っていうのは微妙で、オタクたちをしょうがないなあと思いつつ愛情を持って見つめるというか、そういうアンビバレンツなもの。あー、だからこの映画のお話に一番感情移入できるのはオタクでも非オタクでもなくて、大人になってしまった元オタクたちなのかもしれない。「懐かしい…!」なんつって泣いちゃったりとかね。ぜんぜん美しくないが、まあそういうのもたまにはありだと思う。「一瞬の夢」ってやつですか。
 しかし不満だったのは、演出があまりにも脚本に沿いすぎていること。確かに安心して見れるけどぜんぜん面白くない。監督スティーブン・フリアーズでしょ?もっと色々出来る人だと記憶してるんだけど。この映画ならジョン・キューザックが一人で喋りまくる電車のシーン、あそこで電車がトンネルに入っていくショットなんてだらしなくてなかなかよいと思ったし、「脚本?知らねーよ」みたいな、そういうふてぶてしいさっつーのも欲しいと思いました。

Ooh I don’t know what to do
About this dream and you
I wish this dream comes true ---“DIGITAL LOVE” DAFT PUNK 

<<日本版:見ての通 りの松本零士デザイン<<オリジナル版

サンプル試聴>>http://daftpunknet.multimania.com/sounds.htm 

(志賀謙太)


 

3月9日(金)

『回路』黒沢清 

 私一流の思い込みをこっそり教えよう。この映画の終盤の飛行機の墜落シーン。「あれ、なんだ?」とか思っているうちに、ピカって光って、ドーンって轟音。これはひょっとして原爆じゃないのか?とか思ってしまった。もちろん、そんな妄想はすぐ打ち消したのだが、何故私がそんなこと思ってしまったかというと、この映画に頻出する幽霊に逢った人たちが残すシミのようなカゲのようなものを見ていて、原爆資料館とか原爆の本とかに載っている、原爆の光があまりに強烈だったために、原爆を受けた人たちの影が壁などに焼きついてしまったという黒い跡を、映画の見ている間中ずっと思い出していたためだ。
 実は依然にもその原爆の影を思い出させる映画を見たことがある。題名はすっかり忘れてしまったのだが、それは寺山修司の短編映画で、部屋の壁に過去に部屋にいた人の影が焼きついてしまっているというものだった。例えば、かつて恋人と過ごした部屋には恋人たちの影が残っており、その影とともに(その恋人たちの片割れであろう)女性が一人佇んでいたりする。注意しなくてはならないのは、その影は恋人たちの記憶の跡(たち)であり、その女性の記憶の跡ではないのだろうということだ。つまり、その影はある記憶の刻印なのだろうが、その刻印は記憶には成り得ないのだ。それはただの影だ。それを見るものは、ある出来事がそこであったのだ、それはその時の誰かの記憶の刻印なのだ、と思うことはできても、記憶それ自体はもはや失われてしまっているのだ。それでも、その短編映画はその記憶自体をメランコリックに思い出しているようでもあり、そのことに苛立ったのだろうか、寺山はこの映画のラストで撮影風景そのものを提示することでそのメランコリーを異化しようとするのだが、残念なことに映画とはそれ程単純なものではなく、この短編映画の限界がこのあたりで露呈する。
 原爆の影たちを見て、私たちは原爆という出来事を「知った」ような気がしてしまう。逆にいうと原爆の凄まじさを知らしめるものとしての機能を、影たちは担わされてしまう。影たちをそのような機能に押し込めてしまうことをとりあえず「資料館入り」させること、と名付けるとすると
『回路』で有坂来瞳が残した(と想像される)影が、灰が風に吹かれるように、散逸していく様を見ると、影たちはついに「資料館入り」を拒み始めたのだ、と言える。もはや影たちの記憶を反芻する(振りをする)ことは許されない。だから、加藤晴彦が幽霊と遭遇し、影を廃工場に残した時、麻生久美子はその影に見向きもしない。彼の記憶はもういらない。彼女が連れ出すのは彼の「死体」だ。「記憶」なき「死体」を助手席に座らせて走り続けること。自分で言ってて何のことだか良くわからないが、多分『回路』はそこに希望を見い出している。そしてそれは非常に感動的であった。だから私は『回路』を「怖い」とちっとも思わなかったのだが、こんなことを言うと黒沢清に怒られるだろうか?

(新垣一平)


 

3月6日(火)

『回路』黒沢清

 どうもいけない。
 一週間ほど前
『回路』をみた。救急車で運ばれた次の日、まだ何となく胃には違和感が。急いで映画館の席につき、予告編が始まったその時気付いた、どうも熱があるらしい。がんばれ、がんばれ、と心の中で叫ぶほど頭はぼうっとしてくるし、またもやお腹のなかがドンドコドンドコし始める。僕も『回路』の怖さを見つけてやろうと意気込みつつも、ああでももうだめ・・・、なんてな状態になってたときに女の人がビルの屋上からドスンと落ちた。しかも確かワンシーン・ワンショット。 胃がドンドコしてるなかで何が怖かったかって、その落下が一番(というよりその時の僕が観た『回路』において唯一といっていいかも)怖かった。
 で、土曜日に胃カメラを飲む。朝の9時から胃カメラである。友達が言ってた、「あんなもの二度と飲みたくない」って。確かに痛かった、痛かったよ、そりゃあの痛さ故に「二度と飲みたくない」と思うのは当然である。だけど痛さを忘れさせるほどの(忘れることなんて出来るはずのない痛みなんだけど、ほんとは)怖さが実はそこにはあった。<ぼく自身>の身体の内部、細かく言えば胃の内部、腸の内部の映像、それらを見てしまったというその紛れもない事実。
そういえばベンヤミンは
『複製技術時代の芸術作品』で、アウラの呼吸とその喪失という事態を呪術師と外科医との身振りの差異になぞらえている。病人の上に手をかざすことで治療する呪術師、病人の体内に手を入れてゆく外科医。

<かれ(呪術師)はこの間隔(自身と患者との間の自然な間隔)を−−自己のオーソリティーによって−−著しく縮めるのである。・・・外科医は、自己と患者の間の間隔を著しく縮めて、患者の内臓に入ってゆく。それでいて、内臓諸器官の間を手で慎重にまさぐりながら、その慎重さ故にこの距離を若干増大させるのである。>
(松浦寿輝著『平面論』での彼自身による訳より) 

 そう、外科医はその距離を「若干増大させる」。そして松浦寿輝はアウラの「呼吸」によって生じる「近さ」の無効化、ひいては「近さ」と「遠さ」の対概念そのものの無効化をここに読み取り、そのうえでアウラの消失による「距離の若干の増大」に固執する。
 いろんなひと達がこの「若干の距離」を巡っていろんなことを喋り続けてきた、いや喋り続けているだろう。あるひとは「踏破することのできない距離」と言い、あるひとはそれに「目眩」を覚え、またあるひとはそこに「巻き込まれねばならない」云々と説く。たぶん
『回路』で落下する女の人のシーンがぼくを巻き込んだ怖さはこの「若干の距離」じゃあないか。「人間が落下して地面 に叩き付けられる」、こんなふうに言葉で語ることが許されないような、「そう、あれ」としか言い様のないそのシーン。言葉にした途端に無味無臭と化してしまうよう。「言葉」に回収される悲しき肉体?「貨幣」に回収される悲しき労働?匿名化される悲しき民衆?・・・・・ともあれ、回収されざるかのシーンにおける「若干の距離」は踏破不可能な距離としてやっぱりそこにある。いや逆か。「若干の距離」ゆえにそれは回収不可能なのか。
 で、ぼくの胃である。あの胃の映像も回収不可能だった。「若干の距離」は踏破できない。しかもそれが<ぼく自身>の胃だという厳然とした事実が、怖さをさらに倍増させる。「ナマ」の肉体、「ナマ」の労働、「ナマ」の民衆、「ナマ」の「モノ」を見てしまった・・・、これはやっぱり怖い。
救急車で運ばれたその日の日中、ピアノと笙とダンスによるインプロヴィゼーションを脂汗流しながら必死でみてた。ピアノは一柳慧(ジョン・ゾーンに師事していたという現代音楽家)。一柳さんは何度も、いわゆるピアノの内部演奏をおこなった。なんでもないかのように、トンカチやらなんやらを持って。怖い。「ナマ」のピアノを目撃してしまった、しかもあの無表情でさらに怖さ倍増。
 ということで、皆さんにも胃カメラを飲むことをお勧めする。自分の胃をみて、怖さを自らのものとしよう、そしてその上で、自らの身体を如何にうまく使うか、これを考察してゆこう。一日三食、睡眠十分、薬は忘れず。コーヒーには必ずミルク、さらに極め手は
「養命酒」、これっきゃないでしょう。

(松井宏)

 

 

3月5日(月)

『BROTHER』北野武


 言うまでもないかも知れないが、このタイトルの『BROTHER』は「人類みな兄弟」とか「○○は世界共通 語だ」とか、まして「We are the world」なんかに纏わりついている「brother」ではない。もちろん「ダルデンヌ」や「ファレリー」のような「兄弟」でもない。そうではなく、この『BROTHER』は言うなれば『キッズ・リターン』を変奏したフィルムなのであり、あの安藤政信と金子賢がみせた「brother」である。その2本のフィルムの間には『HANA-BI』『菊次郎の夏』が入ることになるのだが、北野武のフィルモグラフィのひとつの区切りであるあの「事故」もしくは「死」の後のそれら4作品は、ちょうど「兄弟もの」が「家族もの」を包摂するような格好になった。それは確信犯的に「対」を想定されているのではなく、回帰してしまった、という方が良いだろうか。それが是か否かと言われれば、端的に否だと思うのだが、それは単に『BROTHER』『キッズ・リターン』よりも劣っているからという理由だけではない。
 それは、彼のフィルムには常に「久石譲」がフォーマットとして組み込まれているからだ。これはいささか過剰な言い方なのだろうが、同じことを同じようにやっては、フィルムの変奏も耳障りになりかねないということだ。確かに彼の音楽は素晴らしいし、それ以外の音(罵声、銃声、それから無音)を異化する力を備えている。しかし本作を観ていても分かるのだが、明らかに「音楽」の為に用意されるショットはかなりあると思われる。フレームの外の演出を全否定しはしないが、それらのショットが膨張すると、やがてフィルムは完全にそのフォーマットの中に収束しきってしまうだろう。「兄弟もの」の「家族もの」の包摂も、ある意味では収束と言えるかもしれない。アメリカも東京も沖縄も、結局変らなかったのだから、単に収束だ。また、ロードムーヴィーが「如何にして車を止めるか」という命題のもとにあるのなら、北野武主演の彼のフィルムは「如何にしてビートたけしを死なせるか」という命題を常に抱えている(現実にも、彼は「死に方」を既に失ってしまっているのだろうが)のだから、その「死」の贅沢な演出としてのフィルムにおける、映画のレヴェルでの演出は決してフィルモグラフィの中に依拠してはならないだろうと思う。北野武という作家性は、演出を破綻させることにこそあったはずだ。と言わずとも、「程を知れ」、ということだ。そうでないと「fackin' Jap」が本当に「fackin' Jap」になってしまう。
 でも最後のシーンは、良い意味で北野らしくなくて良かったのではないでしょうか。

(酒井航介) 

 

 

3月4日(日)

『キャスト・アウェイ』ロバート・ゼメキス

 カイエ・ジャポン最新号の巻頭の文章をまず引用する。
「……たとえば目の前にあるものを映すことによって成立していたはずの映画、つまり、対象とそれを見つめるものの距離によって成立していたはずの映画が、ディジタル・テクノロジーの進化によってその「距離」をなくしていったとき、見つめる主体と見つめられる対象とが曖昧に重なり合ってしまうその混乱の中で、それぞれがその混乱を生き抜くための第一歩を踏み出すための、それぞれの態度決定をし始めたのだ、……」
 ここで「それぞれ」として具体的に名前が挙がっているのが、青山真治であり、黒沢清であり、オリヴィエ・アサイヤスであるというのは、最新号の表紙にその名前が見えるのだから「まあそうなんだろう」というしかない。わたしは
『回路』評(JOURNAL2/20)で「この映画が示す恐怖は存在論的なものである」みたいなことを書いたのだが、その恐怖を説明する比喩としてカエルを持ち出したのは「ちと失敗。減点一」と思っている。それだとヒッチコックの『鳥』が示す恐怖と同じものであるはずだからだ。鳥が集団で襲ってきたら、「そりゃ怖い」と思うのはイメージだ。鳥の集団に襲われたことがある人なんてそんなにいないだろうし、第一わたしたちが見ているのはスクリーンに写された映像でしかない。しかしイメージというのは勝手に捏造されるものではなくて、多かれ少なかれわたしたちの身体感覚に根ざしたものでもある。たとえば現代の東京に住んでいて、明け方ゴミを漁るカラスの群を「怖い」と思ったことがない人はほとんどいないはずだ。その「怖い」にも、「鳥が集団で襲ってきたら」というイメージが関係していることに疑いはないけれど(何しろわたしたちは『鳥』という映画を既に見てしまっているのだ)、それだけではなくて目の前にいるカラスの動きとか、目つき(とわたしたちが感じるもの)とか、ゴミの匂いとかも関係している。それはイメージではない。もっと漠然とした身体の反応だ。で、アンドレ・バザンが「モンタージュしちゃダメよ」というのは、ショットを分けてしまうとその身体の反応がまるっきり感じられなくなって、イメージがイメージとして閉じてしまうときだし、ヒッチコックという映画作家はその身体の反応を演出することに抜群に長けていた(実はヒッチコック十数本しか見てないのであんまり偉そうなことは言えんのですが)。
 しかし黒沢清が問題にする恐怖は幽霊のそれだ。明け方、街中を歩いていたら偶然幽霊を見かけた、そんなことは残念ながらまずないのだ。わたしたちのほとんどは、幽霊をカラスやカエルと同じように見る能力を失ってしまっている。カラスに襲われることは感じることができても、幽霊に襲われることをそれと同じように感じることができない。「身体の反応」と言われても…という話である。だから幽霊が出てくる映画のほとんどは幽霊が出る瞬間に重点を置いていて、「いつかな?いつでるのかな?」とその瞬間の恐怖のイメージを持続させたり断ち切ったりすることで恐怖を演出する。出ちゃった後はどうしようもないのである。イメージの存在基盤である体験が、わたしたちと幽霊には準備されていない、あるいはされていたとしても非常に希薄なものだから。幽霊が出てきたとたんに殺人鬼になったり、サイコパスになったり、そういう何か別の存在に変身するのはそのためだ。
 しかし黒沢は幽霊を幽霊として見て欲しいと言う。明け方、偶然に幽霊に会って欲しいと言う。その幽霊に触って抱きついて欲しいと言う。そこであなたの身体の反応を感じて欲しいと言う。それでも幽霊は「怖い」のだろうか?もし「怖い」のならば、それは何故なのだろうか?そんな問いを立てるために、黒沢清という監督は、その素晴らしい演出能力にも関わらず(どのシーンでもいいけど、たとえば電車の中で加藤晴彦と小雪が肩を寄せ合うシーン、あのときの小雪の顔の不細工さ!あれを見て「すっげぇエロい」と思ったのはわたしだけじゃないはずだ!!と力んで言うことなのか、これは…)、CGを使ってまでして幽霊を躍らせ、ワンショットで煙突から人を落とし、飛行機を墜落させるのだ。そこで彼が演出しようとしているのは、「恐怖」と呼ばれる感情の基盤である身体の反応ではなく、況やそのイメージなどでもなく、それらを包括してなお余りある状況であり、ものである……、なんでしょう?セルジュ・ダネーの
「バザンと獣たち」という論考にある「変容」という語が近いと思われるのだが、それを発展していくだけの力がわたしにはなく…、とりあえず引用してみる。
  「亀裂、このうえもない通過としての死。そしてまた死を装うすべてのもの。たとえ
  ば性行為や変身。より一般的には、説話の大きな分節化、決定的な瞬間において、カ
  メラの平然とした視線の下に、何かが解決し、誰かが変化する。取り返しのつかない
  ことのように。そのとき、バザンにとって本質的なことは、その変容の正にこの瞬間
  をごまかさないことである。つまり、変容とは、読まれたり、モンタージュの往復運
  動の中で想像されたりするものではなく、見られ、「捉えられる」ものなのである。
  あるいは、もう少し正確には、頑固なまでのカメラの存在は、中立のものからはほど
  遠く、こうした変容を引き起こせるものなのである」
「変容」は対象から距離を取らないことには捉えられない。樋口さんのいうとおり「距離のない映画」が現代の映画の大半を占めるとするなら、その映画にはもはや「変容」は映りこまない。対象とカメラの距離など取ろうと思えばどうにでもなる技術と理論を持っていながら、黒沢清は故意に距離を撹乱することを選択し、結果
『回路』は歪な映画となったが、しかし、「変容」とはいつも歪なものだろうし、要するに幽霊を「幽霊だ」といったり、恐怖を「恐怖だ」といったり、現実を「現実だ」といったりして、それはそれでかまわないのだが、黒沢清はそういった身振りを楽しむ気にはさらさらならないのだろう。『回路』の試みは「変容」を捉える可能性を有しているのだろうか。「頑固なまでのカメラの存在は、中立のものからはほど遠く、」という言葉がヒントになると思う。

 それで長くなってしまったのだが、わたしは『キャスト・アウェイ』について書きたかったのだ。わたしはこの映画を見て初めて「ロバート・ゼメキスすげぇ!」と感じた。映画はチャック(トム・ハンクス)の遭難前、無人島生活、救出後という三部構成になっているのだが、これは一人の人間が幽霊になっていく様を追った構成に他ならない。チャックは無人島で徐々に幽霊になるのである。カメラは微妙に距離を取りながら、チャックの変身を捉えていく。そして救出後の飛行場のシーン、空港はチャックを迎える人々で沸き返り、テレビはその様子を放映している。しかしチャックは無人の部屋にひとりでいる。窓の外では無人島生活の間見つめつづけてきた顔と同じ顔をした女が旦那の胸で泣いている、…このシーンが圧倒的に歪で気味が悪くて凄い。「これ『回路』じゃん」と思った。観客が自明のものとしていたチャックという人間の存在が、そのシーンの歪さによって怪しくなってくるといえばいいだろうか。「チャック」という人物は、わたしたちが二時間近く見つづけた男とはまったく関係がなくなっている。そこではカメラも男から距離を取ったままだ。そして空間は歪んでいる。まあその後、彼はちゃんと「チャック」として社会復帰していくかにも見えるんだけど…。でもラストに十字路で佇むその男は「チャック」と重なりながらもずれていき、「見つめる主体と見つめられる対象」も重なりそうで重ならないという印象を私は受けた。冒頭に引用した樋口さんの文章では、もちろんロバート・ゼメ
キスの名前も挙がっているのだった。 

 (志賀謙太)