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~JUNE 06/24__up dated


-『月の砂漠』青山真治
-『クレーヴの奥方』マノエル・デ・オリヴェイラ
-『クレーヴの奥方』マノエル・デ・オリヴェイラ
-『Distance』是枝裕和
-『トラフィック』スティーヴン・ソダーバーグ

-『SELF AND OTHERS』 佐藤真


 

6月24日(日)

『月の砂漠』 青山真治

 何故この映画は「Caroline No」から始まらなければならないのか?
湾岸戦争、サリン事件、 そして子供が映った映像などがこの曲にのって矢継ぎ早に過ぎ去っていく。では果 たしてこの 曲の持つ時間の長さに過去(90年代)が集約されているのだろうか?答えはノーだ。そして だからこそ、この映画はこの部分を必要としているのであり、「Caroline No」を必要としてい るのではないか。
 主人公の共同経営者が連発する、"お前は変わった"という言葉は何を比較しているのか?も ちろん過去と現在である。この比較において、つまり過去と現在が対置する行為において、そ の過去と現在の間にある時間をその時間の長さを引き受けて見つめた時、本当に我々は容易に" 変わった"と口にすることが出来るだろうか?こうも言えるだろう。我々は自分の背後に時間を 感じている、いや、時間を感じることを忘れないでいるだろうか?
 映画が始まってから主人公は(そして同時に我々は)、ビデオあるいは写真で彼の妻と娘の 姿を見つめ続ける。それと交差して現れる現在の彼女たちと、そのビデオや写真に映った彼女 たちを我々は時間によって結び付けはしないだろう。何故ならば主人公は「過去」を「現在」 と切り離してその画像を見つめているからである。彼ら家族が遭遇しないまま映画と時間は進 み続け、ついに彼らが同シーンで出会い、主人公と妻が互いに何も口にせぬまま引き寄せられ るように抱き合ったその時、彼らの背後にある時間が一気に引き寄せられ、「過去」と「現在 」が結びつくのだ。それは彼等自身の背後にある時間が彼等を抱き寄せたのだとも言えるだろ う。
 セルジュ・ダネーがこんなことを言っていた、「映画は私たちに忘れないことを忘れてはい けないと語っている」。時間の長さによって、我々は様々なことを忘れていき、さらにはその 時間の長さそのものまでも忘れてしまう、それは事実だ。問題なのは、我々の背後にある時間 を忘れまいという信念を持つかどうかであり、忘れないことを忘れないでいることなのだ。そ れは決して懐古的な行為ではない。何故ならばそれは背後の時間を引き受けながら(引き受け ることによって)「現在」を見つめる行為だからだ。冒頭のザッピングのような映像が 「Caroline No」を必要としているのは、この曲が正に過去と現在の間に存在する時間の長さ、 その時間を引き受けているものであるからである。そう考えると先ほど「この映画はこの部分 を必要としている」と書いたが、このように訂正するべきなのだろう。あの冒頭の映像がこの 映画を必要としているのだ、と。
 『ブライアン・ウィルソン自伝』『ペット・サウンズ』が完成したときのことがこう記さ れている。
 「 最後の曲「キャロライン・ノー」が遠くに消えていく汽車の音とバナナ(犬)の吠 える声でエンディングを迎えた時、マリリン(ブライアンの妻)と僕は顔を見合わせた。僕た ちは2人とも泣いていた。僕が望んでいた通りの美しい感動的なスピリチュアルなアルバムに 仕上がっていた。「あの汽車の背後に僕が感じられる?」僕が尋ねると、マリリンは言った。 「ええ、でも消えていくわ。」 」

(黒岩幹子)

 



6月21日(木)

『クレーヴの奥方』マノエル・デ・オリヴェイラ

 シューベルトの曲が奏でられている「静的」で「非世俗的」な空間。
 ライヴ演奏が行われている「動的」で「世俗的」な空間。
前者は、美しく流れる音とともに、印象派の絵画のように見事に画面が陰翳に富み、後者はカクテル光線によるカラフルな色彩 、大衆、ライヴ感で画面は埋め尽くされている。タイトル前で示されるこのような2つの空間をオリヴェイラは、並列して提示する。これら2つの空間は、本来それ自身で独立しており、お互い相容れないものである。アブルニョーザという「媒介」によって、それら相反する空間に人為的なハーモニーが創出される。その際に生み出されてしまった不協和音(ノイズ)に苦悩し続けるのが、この作品の主人公クレーヴ夫人その人である。
 作品の中で、不協和音が奏でられる契機となる出来事は、「非世俗」を生きることを選択した夫人が、アブルニョーザを意識しだす場面 (写真が盗まれるシーン)である。それまで、「世俗」とは融和出来ない存在であった夫人の中で、次第に「世俗」と「非世俗」との仕切りの融解がなされていく(告白シーンにおける垣根の存在、その後アブルニョーザとその場で偶然再会するシーン)。しかし、夫人はスクリーン上では、被写 界深度の浅い視点で捉えられ、まるで「背景」と一体になることを終始拒み続けているかのようで、「世俗」と融和することはない。
  苦悩し続ける夫人は、必然的な流れともいうべき展開で友人の修道女に会いに行く。しかし、安住の場はそこにはない。そこで出会うのは一枚の宣教師とおぼしき者の絵である。「世俗」、「背景」と融和しない夫人をまさにこの絵の中の人物が代替しており、夫人がこの絵の中の人物と交わした視線から、この話の結末が想起される。また、夫人が制服のように着る服の「黒」も、「翳り」というような夫人の精神面 をあらわすものとは別に、「修道女の服装の「黒」である」と考えられる。
  修道女のように「世俗」と融和しない生活を送っていた夫人は、夫とアブルニョーザとの人間関係を通 じて「世俗」という「世の中の目」つまり「世間体」といったものを知覚し、それに苦悩し続け、ついには、我々が知覚できる「世俗」から消えてしまう。「世俗」とのしがらみによって一端瀕死状態になってしまった夫人は、「世俗」から逃げだし、アフリカでの「再生」をはかる。そしてもうひとり、眼前に夫人を知覚できなくなってしまい心の瀕死状態に陥ってしまったアブルニョーザが、「再生」の意を込めて「愛」と「死」の歌を熱唱する。この最後のシーンは、1シーン1ショットを用いることによって、明確に「生き生き」とした時を獲得している。これこそ「再生」の瞬間なのだ。

(村田 旭)



6月19日(火)

『クレーヴの奥方』 マノエル・デ・オリヴェイラ


 クレーヴ夫妻の出会いの場であった夜会でのピアニストの演奏、あの演奏のうねる ようなリズムが『クレーヴの奥方』というフィルムの運動を表している。リズム。そ う。きわめて音域の広い打楽器であるピアノ。ピアニストの指が鍵盤を打つ、その一 音一音のあいだに聞こえているであろう微細な音の震えと侵食作用、それが『クレー ヴの奥方』で私たちが見ることのできる映像体験のすべてである。
 物語は、要所要所で挟まれる字幕によって語られる。映像としてスクリーンに示さ れるのは、字幕から字幕へと流れる時間のひととき、いまだ行き着く先を知らず、目的 と呼ばれるものも欠いた、女性たちのあてどない会話や男女の不毛な追いかけっこの 反復である。そのあてどなさや不毛さが登場人物たちの生きる空間を端的に示してお り、それは要するに「いま/ここ」と呼ばれる空間だろう。そこは派手な事件の起こる 空間ではない。与えるべき言葉が見つかる空間ではない。だからこそオリヴェイラは そこにカメラを据える。その空間を表象する映像を示す。その空間が夥しい音と運動 に満ちていることを、オリヴェイラの映像は端的に示している。 死に向って衰弱していく人物、恋焦がれる人が振り向くの待ちつづける人物、自らの 衝動を制止するために喋りつづける人物、彼らの視線は絶えず別の空間に向いている ものの、その身体は「いま/ここ」に拘束されつづけ、夥しい音と運動の一部としてそ の生を反復する。
  「反復」とは、決して「退屈」や「諦念」と結び付けられる概念ではない。その生 を反復することで、彼女は母が存在した世界と母が不在の世界の違いを知り、ある男 への想いと別の男への想いの違いを知り、映像の「向こう側」と「こちら側」の違い を知る。それがおそらく「生きる」ということなのだ。 その曲は終りがくるまで弾かれるだろう。同じ曲想が何度も現れ、消えるだろう。 そこには絶えずリズムを感じることができるだろう。リズムを形成するのは、音の連 なりではない。ピアニストの指先が打ち出す、一音と一音の間、その猥雑な時間が繰 り返されることでリズムが生まれる。犬の遠吠え、車の走行音、衣擦れの音、いしだた みを打つ足音、彼らは一音と一音の間を生きている。「いま/ここ」とは一音と一音の 間のことだ。そして「いま/ここ」を絶えず行き直すことでしかリズムは生まれな い。現代的な映画というものがあるとして、そこで一番重要になるのが、この「リズ ム」という概念なのだ。
  というわけで、現役最年長、ポルトガルの変人おじいちゃん マノエル・デ・オリヴェイラが作った『クレーヴの奥方』は、とんでもなく現代的な 映画である。必見!!

(志賀謙太)


 

6月11日(月)

『Distance』是枝裕和

 やはりこのフィルムについては書いておかねばならない。
  ある宗教団体が犯した集団殺戮の実行犯の生き残った家族がその3周忌に宗教団体がかつて存在した場所を訪れた日の物語。当然のことながらフラッシュバックが数多く挿入され、その宗教団体に入会し出家し、犯罪に走った人々の過去が語られている。ここでもまた是枝のフィルムは死の周囲を徘徊している。だが、問題なのは、映画作家・是枝につきまとう死の主題ではない。彼のフィルムに付着した審美学こそ真の問題なのだ。かつてのジャック・リヴェットならば、こうしたフィルムについて次のように書いたかもしれない。
 「こうした主題(オウム真理教)についてのフィルムを企画するとき、最低限述べうることは、ある前提となっている問題を立てないで済ませることは困難であるということだ。だが、支離滅裂さのためか、愚かさのためか、臆病だからかは知らないが、是枝はまるでそうした問題を断固として立てていないかのように展開させている。ちょっとした狡猾さか忍耐力を発揮して、理性を保てば、人はそんなものから苦もなく抜け出すことができると考えてしまう。同時に、人は知らぬ 間に恐怖になれてしまい、恐怖は風俗の中に少しずつ入り込み、現代人の精神的な風景を構成するまでになっている。ショックを与えることがなくなっていることに対して、驚いたり憤慨したりする人など将来は誰もいなくなるだろう。」
 多くの人の死に関わる問題を、審美学の側に解消することは、かつてミシェル・フーコーが懐古趣味的なフィルムの流行に対して、審美学の過剰はファシズムにつながるのだと警鐘を鳴らしたことがあったが、八ヶ岳山麓の湖上に広がる単に表層的な「美」の世界を造形することは、リヴェットが「卑劣」と呼び、フーコーが「ファシズム」の兆候を呼ぶものと寸分違わぬ ものであることはまちがいない。
『Distance』の審美学は危険だ。

(梅本洋一)


 

6月4日(月)

『トラフィック』スティーヴン・ソダーバーグ

 アカデミー賞受賞から少し時期がたってしまったが、野心的なソダーバーグの新作について。
見事な作品である。二時間半の長丁場、三つの絡み合うストーリーは、時に近づき、時に無関心になりながら、三つのうちどれかに重みがかかることを避けながら語られていく。それらの物語は、「トラフィック」という名の麻薬の流通 網=交通の上を通過し停滞する無数の点のうちの無作為に取り出された三つであるかのようだ。それら三つの点は決して「トラフィック」上から逃れることはできなく、時に交通 規則を侵すことがあるように感じられるかもしれないが、絶対的にひたすらその道路上にとどまることしか許されていない。
 しかしこの作品は決して「トラフィック」そのものを見せることはしない。というか、もとより「トラフィック」は「見せる」ことなどできないものなのだから、提示することはない、と言った方が良いだろうか。いやいや、というか「トラフィック」は提示することすら本当は不可能なのかもしれない。だから三つの物語が「トラフィック」上にあり続けると言うのは、「トラフィック」の俯瞰図を片手にその三点の位 置を逐一確認しているからではなく、三点のある地点が常に「トラフィック」上にあることを、あるいはその三つの点それぞれによって「トラフィック」そのものがその形体を局所的とはいえ変貌させ発展させていく様を、物語の進行と同時的に目の当たりにし続けるからに他ならない。では「トラフィック」に「外側」はあるのか? 答えはノーだ。なぜなら
『トラフィック』は「トラフィック」を現在地点としてしか見せることができないと宣言しているのだから。ならば、とりあえず「トラフィック」そのものに仕掛けることのできる闘争と言えば、薬物中毒の娘をを更正させるという単純だが切実な課題に取り組むことぐらいだろうか。それは『エリン・ブロコビッチ』で、エリンが史上最高額の和解金を手にすることでしか、公害という、社会システムが産み出した弊害に対して抵抗する術を知らなかったことと似ている。いや、それはそれでいいのだ。抽象的な言葉を振りかざして「トラフィック」に宣戦布告を大仰にするよりも。

(新垣一平)

  


 

6月1日(金)

『SELF AND OTHERS』 佐藤真

 5月29日、今日やっと『SELF AND OTHERS』を見た。
先々週ぐらいに、ホンマタカシとしまおまほのトークショウがあることを知らずに時間ぎりぎりに劇場に赴き、満員で入れなかったりの諸事情で、公開から1ヶ月以上経ってやっと見ることが出来たのだが、監督が誰とか撮影監督が誰とか、そうした情報を全く知らずとも、公開前からこの映画は見ると決めていた。今日単館で上映される映画を見に行く者のほとんどはそうだと思うが、例に漏れず私も監督名で映画を見に行くことが通 常であるのだが、そんな私にしては珍しく、
『SELF AND OTHERS』という題名に惹かれてこの映画は見ようと決めていた。去年の暮れに公開されたエドワード・ヤンの新作『ヤンヤン、夏の想い出』の原題は「a one&a two」で、私はこの「a one&a two」という言葉がどうにも好きだ。そして『SELF AND OTHERS』,「a one&a two」、なんか似てる。ただ、そんな理由で。
 「a one&a two」の中にもヤンヤンがポラロイドで撮った後ろ姿の写真が出てくる。ヤンヤンは大人が見ていないものを発見したくてカメラを外部に向けているから、後ろ姿しか撮らない。
『SELF AND OTHERS』に登場する牛腸茂雄の写 真の中に、他者の後ろ姿はほとんど出てこない。牛腸は対象となる人の正面に、視線と水平にカメラを据え、いわゆる記念写 真のように人をフレーム内に収める。年少の頃患った病気が原因で20歳まで生きられるか分らないと言われてきた男の、体のことを慮った親族の猛反対を押しきって単身で上京した男の撮る写 真が、このような一見誰にでも撮れてしまいそうな写真であるという事実にはやはり単純に驚かざるを得ない。何か美しいものを捉えたり、何か特権的なものを残すことによって、余命僅かな自分の存在意義を作品の中に痕跡として残そうなどという身振りは牛腸の写 真の中には微塵も無い。牛腸の写真は牛腸の写真であるがしかし「牛腸茂雄」という固有名詞を廃した、匿名の写 真である。
 幼年のころ、病気のためにほとんどの時間を硬いベッドの上で過ごした牛腸は、鏡が映す像を見て外部の世界を知ったと語る。おそらく彼は、鏡が結ぶ外の世界の像とそこに映る自身の姿を見つめることで、自分と外部が存在していることを確認し、自分が何者であるかを自問して来たのだろう。牛腸がカメラに収めたものも、鏡に映る像のような、自分が見つめる客体であると同時に自分を見つめる主体であるような像である。牛腸が見たかったのは、自分が対峙する世界であると同時に、世界が対峙する自分である。牛腸にとって(そしておそらく私達にとっても)、他者が何者であるかという問いと、自分が何者であるかという問いはパラレルである。
 屋根裏のような、生前の牛腸が住んでいた部屋の壁に、2枚の写真が並んで飾られている。左側に、数人の子供達が野原を、カメラが置かれている側とは反対方向に向かって走っていくところを(牛腸の写 真の中では珍しく)後ろから撮った写真。右側に、海辺で、こちら側に向かって手に持ったカメラを覗いている牛腸を撮った写 真。左側の写真で先頭を走っている子供の後ろ姿は霧がかっているのか、ぼやけて形がはっきりとしない。何の思惑があってこの2枚の写 真を並置したのかは知る由も無いが、牛腸が録音した「もしもし、この声はどんなふうに聞こえているのですか。」という問いかけよろしく、子供達の後ろ姿に「そこに何が見えますか」と問いかけてみればそこの空間は右側の牛腸の写 真へと接続し、こちら側にレンズを向ける牛腸を介してそのまま家主を失った屋根裏部屋まで循環してくるような気になったとしても、それは妄想のしすぎだとかそういう問題にはならないだろう。
『SELF AND OTHERS』では、見つめる主体も客体も、こちら側も向う側も、過去も現在も、もうすべてが、何と言おうか、ただもう等価なのだ。

(澤田陽子)