山形国際ドキュメンタリー映画祭レポート

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October 6, 2007

魔女のダンス、革命の歌、母親の写真

スケジュール調整と体調管理の悪さのせいで、今回の山形国際ドキュメンタリー映画祭は3日目からの参加。例年より暖かい気候がありがたい。最初の映画はジャン・パンルヴェの短編作品8本。勝手に決めた山形国際ドキュメンタリー映画祭2007サントラvol.1、ヨ・ラ・テンゴ『Sounds of the Sounds of Science』をポータブルCDプレーヤに入れて出かける(ちなみにvol.2はヤング・マーブル・ジャイアンツ『コロッサル・ユース』)。2001年4月のサンフランシスコ・インターナショナルフェスティバルでジャン・パンルヴェの作品が上映された際に、その映像の前でヨ・ラ・テンゴが演奏を行い、その曲をスタジオ録音したものがこの作品。収録曲と今回の上映作品も重なっている。
ということで、週末といえどほとんど人影の見当たらぬ駅前通を意気揚々と横切って向かったはいいが、会場であるフォーラム4はかなりの混雑振り。それもそのはず、このプログラムの2度目の上映はペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』の上映とかぶっているからだ。立ち見にはなるだろうなとは思っていたが、立ち見でも最後の一席だった。と、最初の上映でそんなことがあっただけに、今年はなんか例年よりいっそうの盛り上がりをみせてるんじゃないかと思ってしまう。
件のヨ・ラ・テンゴのCDのこともあって、なんとなく静謐な深海の映像を漠然とイメージしていたパンルヴェ作品だが、予想とは裏腹に音と運動にみちみちた映画だった。代表作である『タツノオトシゴ』のダリウス・ミヨーはじめ、デューク・エリントン(!)やらピエール・ジャンセンといった人々を起用した音楽は、映像とともに彼の作品を決定付ける大きな要素となっている。タツノオトシゴやコウモリ、エビや貝を見つめるまなざしは、その形と動きとを人間の動きに重ねあわせるユーモラスなものだ(『タツノオトシゴ』の反復される「不安そうで落ち着きの無い目」)。しかしそこにジャズや、現代音楽や民俗音楽めいたサウンドトラックが重なり、同時に映像が対象を解剖し(『タツノオトシゴ』)分解し(『ウニ』)拡大(『液晶』)していく間に、断片や部分が全体の形態からは独立してそれ自体の「かたち」をあまりにも印象強く見せつけはじめる。それは、人間以外の生物を人間に近づけてみせるという擬人法のユーモアに似たものでありながら、人間の視点を超えたものに触れる作業でもある。彼が製作した『四次元』の中で、二次元の世界に落とし込まれ影だけの存在となったネズミに人間がイタズラする一方で、もし四次元の存在がいればそれと同じ事を人間にもできるということが戯画的に描かれているように。
それにしても『アセラ、あるいは魔女の踊り』で繰り広げれる、何の変哲もない浜辺に暮らす貝たちのダンスには、もうただ目を奪われてしまう。

その後、インターナショナルコンペティションの作品を。『革命の歌』『M』の2本。
ヨウコ・アートネン『革命の歌』は、1960年代後半にフィンランドで盛り上がりを見せた、社会主義的な歌詞のポップソングを歌ういくつかのグループの元メンバーたちにインタヴューを行う。冒頭、「あなたはどちら側か」という扇動的な歌詞の歌で幕を開ける。広場のようなところで女の子がカメラを向いて歌っている当時のビデオクリップ(?)に、40年後の今、同じ歌を歌う彼らの姿がつながれていく。サウンドだけならイェ・イェとかそんなのに近い。
インタヴューの合間にそれぞれのグループの曲が挿入されつつ映画が展開する。その時に必ず、年老いた今同じ歌を歌う彼らの映像がいかにもMTV的PV風な照明や演出で使用されているのだが、それも受容する環境が根底から変化したことを示すのだろうか。「どちら側」の音楽であれ、われわれはお構いなしに受容する。
時代とともにサウンドも歌詞も変化していく。歌詞が抽象的な理想や社会を変化させよう!というものから、銀行が金を貸してくれないとか、石油会社の横暴なやり口を訴えるという生活に密着した内容になるにつれ、サウンドもサーフ・ロックっぽい要素を取り入れていったりする。商業的なドキュメンタリーのフォーマットにおいてもよくできている。なんにしろ、パンクな人々が語り、音楽がたくさん流れるとそれだけで楽しい。
ニコラス・プリビデラ『M』は、軍事政権下のアルゼンチンで行方不明になった母親の行方を捜し求める監督のセルフ・ドキュメンタリー。冒頭の失踪した母親の写真を並べているイメージや音の処理などに期待を感じるが、見続ける間にどうしても違和感が募ってくる。ひとつの激しい時代、その過酷さゆえにだれも言葉を用いようとしないような時間を、いかにして現在や将来に継承していくのか、こうした問題体系を考える際に私がどうしても思い出さざるを得ないのはリティー・パニュの『S21 クメール・ルージュの殺人者たち』である。彼がこの映画に持続させている峻厳さを考えると、監督自身がひとりの俳優として直接に記憶や記録の不在を嘆き糾弾するというやり方に疑問を感じざるを得ない。もちろん彼は実際にこの問題を一歩前進させているのであり、その活動は評価されるべきだが、その活動をいかに記録するかというのはまた別の問題体系から捉えられるべきだろう。
監督のニコラスさんのお母さんはほんとうにきれいな人で、だからこそ彼女のイメージを単に失われた記憶の奪還の象徴に還元してしまうのはどうも納得がいかない。それこそロラン・バルトの言うプンクトゥムのような何者にも還元不可能ななにかが、まるで女優みたいだなと思ってしまうあの美しい母親の写真の中にはあるはずで、それと社会に対する政治的な活動の部分とをもっと厳密に取り扱うことによって、私にとってあの写真が唯一無二の不可欠な映像になりえたのではないかという気がしている。

投稿者 nobodymag : October 6, 2007 10:28 AM