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2005年5月29日

監督週間部門 『Be with me』エリック・クー

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監督週間オープニング作品。シンガポールの監督エリック・クーは8年前すでにカンヌで発見されており、久々の国際舞台復帰だという。またタイトルはビーチボーイズ『20/20』に収録された同名の曲(デニス作曲)が由来とのこと。
物語は3つの軸で構成される。美人キャリアウーマンに憧れるしがない警備員。女子中学生の同性愛と破局。そしてテレサ・チャンという、二重障害を持つ老婆の実人生。
3つの軸にはまず共通点がある。ほとんど台詞がないこと。警備員は孤独なダメ男の典型でつねに無口なため、女の子はそのコミュニケーション手段がつねに携帯メールなため、老婆はもちろん基本的に言葉を奪われているため。この「言葉のなさ」は、それぞれに、異なるコミュニケーション手段を与える。手紙(警備員)、メール(女の子)、そして身体への接触(老婆)。
もうひとつの共通点は、すべてが「恋愛」とその挫折を語っていること。ここでエリック・クーの選択は正しい。つまり3つのコミュニケーションのモードは、いかにアナログだろうとディジタルだろうと、決して恋愛の成功を導きはしない。もちろん負け犬同士の、たとえば警備員と少女との、逃避的恋愛もクーは斥ける。では恋愛とは誰にも訪れぬ不可能性なのだろうか?
そこでクーは別種の出会いを演出する。ドキュメンタリーとフィクションとの出会いだ。テレサ・チャンの実人生に、彼女の伝記を編纂するひとりの弁護士が接ぎ木される。その接ぎ木により彼の父(妻に先立たれ絶望に沈んでいる)と老婆との出会い、そして恋愛が演出される。ひとつの現実から作品を演出する弁護士(伝記の編纂)は、同時に恋愛の演出家でもあり、その姿はひとりのシネアストのそれでもあるのだ。
ただ以上のことはこの場合「演出」のレッスンの先行をも意味してしまう。ショットの力や色の処理、スタイルの器用な使い分け、あるいは全編を覆う「孤独さ」など、ここ10年ほどのアジア映画評価のおさらい的感も、それに通ずるだろう。ではここに欠けるのは何か? 現実やファンタスムの断片を再構築するロマネスクな意志、である。
その意志と力を持つのが、たとえば『SMILE』を完成させたブライアン・ウィルソンであり、また今年のカンヌでの『Odete』(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス)や『Les invisibles』(ティエリー・ジュス)であろう。今後エリック・クーはそこに辿り付けるだろうか。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 2005年5月29日 23:34