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2005年6月 6日

コンペティション部門 『Broken Flowers』ジム・ジャームッシュ

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ご存知今年のグランプリ。だいたい開催前からプレス間でも期待度ナンバーワンで(現地にいるとひしひし感じた)、映画祭としてもこの「カンヌの子供」を迎える準備は万端、といった感じ。こいつだけはアメリカに奪われねえぞ、といったところか。
物語は、強引に要約すれば、息子探し(あるいは家族探し)の旅。ビル・マーレイ演じる中年男(かつてはそのドン・ジュアンぶりを鳴らしていた)の元に1通の手紙がやってくる。差出人は不明ながら、どうやらかつて一時期を共にした女性らしく、そこには、男が知らなかった〈息子〉の存在が記されてある。そして始まる、息子と母親を探し出す旅。候補に挙がった5人の過去の女性を、それぞれビル・マーレイが訪れてゆく。
さて『デッドマン』『ゴーストドッグ』で思考された問題。それは「ジャンルの死」以後、それをどのように再生するか、という点にあった。そして『Broken Flowers』においてJ.Jは、初めて「家族」の問題に取り組む。この道程が思い出させるのは、たとえば黒沢清の『キュア』から『ニンゲン合格』へ至るそれだろう。あるいは青山真治の『ユリイカ』以後かもしれないし、カラックスかもしれない。あるいはそこにウェス・アンダーソンを加えてもよいだろう……。が、とにもかくにも「家族」という主題は「ジャンルの死」以後と、その再生を生きる90年代後半からの映画において(あるいはアメリカ映画との関係において)必ず現れ出るものなのだ。ここで言えるのは、彼らがみな、ジャンルの問題を形式の問題としてだけでなく、自らの家系の問題として思考していたということだろう。
とはいえJ.Jはつねに「家族」に取り憑かれていたのではないか。『コーヒー&シガレッツ』を見れば明瞭だ。映画の家族とは別種の、それを再生する手段としての、彼独自のカルチャーに根ざした家族(悪く言えばお友達)。J.Jのフィルムを形成してきたのは、こうした異なる位相の「家族」であり、その間での振幅であったはずだ。
そのうえで『Broken Flowers』が取り組むのは、語の意味での真の、血縁によって繋がる「家族」である。もちろんそれは「家族の解体」以後の「家族」である。つまり断片となった家族——ジャンルのそれから血縁のそれ——をどのように再生するか、あるいは、その組成をどのように組み替えるか。それが、期せずして父となったマーレイ=ジャームッシュの賭けとなる。
もちろんその旅にカタストロフは訪れない。近さと遠さが混じり合い、そこを支配するのは永遠に続くかのような弛緩したサスペンスだ。これまでのJ.Jに見られたショットの力とリズムは失速し(今回の撮影はJ.Jのこれまでを支えてきたロビ−・ミュラーではない)、変わってあるのは、ぼんやりしながらどこまでも醒めた映像ばかり。
だが『Broken Flowers』は「失敗作」でも「可愛い小品」でもない。なぜならこの不確かな千鳥足は、ジャンルの支えを欠いて「家族」に取り組む、現在の映画の足取りでもあるからだ。差出人不明の手紙は、再生の直中にある「家族」からの手紙であり、また現在のアメリカ映画からの手紙でもある。最後まで差出人は不明だろうが、J.Jはきちんとその手紙を受け取ったと言える。
まあそんなことお構いなしに、多くの評は『Broken Flowers』に「肩透かし」を呟く。そしてカンヌはカンヌで、我が子の帰還祝いにグランプリを与える。で、そんな甘ったるい目配せとは別の場所で『Broken Flowers』は、正しく慎ましく、アメリカ映画に向き合っていた、そういうことだろう。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 2005年6月 6日 12:24